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慕情(仮)
私の実家は山に囲まれているため、夏は山で冷えた空気が風に乗り、家の中へ涼感を運び入れていた。
天然クーラーといったところだ。
田舎の家は吹き抜け感がすごい。だから空気はいつも新鮮である。
それと、夏は招かれざる客が多いので、虫対策はあってないも同然な状態である。大自然で育った野生の生物は、とにかく体格がいい。餌も豊富で環境もいいから、よく育つわけだ。私は慣れるどころか怯む一方で嫌なのだが、娘は違う。
普段の生活にない生物は、実家で現れても「はじめまして」の感覚だから、【嫌だ・怖い】がないのだ。
これには驚いた。
私は幼少期に野山を駆け回っていたから、遭遇は多かった。ただ遭遇も回を重ねると驚きや怯みの発生頻度があがり、イコール恐怖となってしまうのだ。
だから、娘が怖がらないのであれば、触れたら危険ということは教え、私は騒がずを心がけることに集中した。
これも教育の一環と思えばなんのその。
そう、なんのその! 頑張ろう!
私達母娘が実家にやってきたのはただの帰省ではなく、誕生日を祝ってくれるというのだから楽しみにやってきた。
私と娘の誕生日は7月10日と12日で蟹座の母娘。2日しか違わない仲良しの誕生日。
7月の上旬、仕事を休めるタイミングで連休をとったのだ。
去年の秋、まあ、色々あって離婚した私を両親は遠からず気遣ってくれている。
だから私は、甘えきることはしなくとも、気遣いに応えるためにも会いに来る。
間もなくして、夕方も近づいてきた頃に父が帰ってきた。娘の七夏は「じぃじ〜おかえりぃ〜」と抱きつき迎えた。
父は七夏を抱え上げ「そりゃそりゃ〜」と振り回して遊んでくれた。大はしゃぎの七夏に父は「メイの散歩行くか?」と誘う。
行きたがる七夏を父に預け、2人は散歩に出かけて行った。
ヤギのメイを連れて。
残った私に母が言う。
「そろそろ刺し身とってきてくれる?」
やっぱり。そんな気はしていたんだ。
「魚吉?」
こちらを見ずに母が私に返す。
「他にどこの魚屋があるのよ。今は健ちゃんが大将やってるのよ」
「おじさんどうしたの?」
「吉くん冬に腰やっちゃってさ。店に出はするけど大将は健ちゃんに譲ったのよ」
この町の商店街にある、今となっては唯一の魚屋さん、魚吉。そこのおじさんは母と同級生で仲良しだから名前で呼び合っている。その息子である健ちゃんこと健太郎は、私の昔の彼氏だった。
「健ちゃんが大将になったってことは、奥さんが若女将で頑張ってるんだ」
自分でも分かってる、なんて遠回しな言い方なんだと。
母はクスっとしながら私を見て言った。
「なに? 気になんの? 健ちゃん独身だよ」
「ふぅーん、そうなんだ」
私はホッとした感覚に身を包まれた。自分は結婚して子供を作り、今は離婚してシングルマザーしているくせに、ただの情報として聞き流せないでいる。勝手な話だとは思う。ただそれは、昔の彼氏だからか?
今も私のことを思ってたりするのかな。まさかねと、乾いた笑い声をもらした私は、自分に図々しさを覚えた。
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