夏祭り

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 涼やかな風が吹き、夏の香が少女の鼻腔をくすぐった。  日中は高く昇り、その威光を示すかのごとく熱気をくゆらせていた太陽も、いまや山の向こうに落ちていた。代わりに空に浮かんでいるのは、鮮やかな満月。  蝉の叫び声と合わさるように聞こえる鈴虫の声。自然が奏でるその美しい音に混じり、どこか遠くから太鼓の音が聞こえている。同時に、耳を澄ませば聞こえる人々の賑やかな笑い声。  遠くに、明かりと出店が見えた。十分ほど歩けばいいだけの距離。  胸が弾むような鼓動を繰り返していることに気づき、優衣は赤面した。小さな子供じゃないのに、夏祭りだからといってこんなにはしゃいでしまう自分が少し恥ずかしい。 「ね~えっ、夏澄ちゃん」 「なあに?」  真っ赤になった顔をブンブンと振って、優衣は後ろを振り返った。振り向きながら呼びかけた言葉に、優衣の親友である夏澄が返事をする。 「あのね、この浴衣変じゃないかなあ?」 「大丈夫だよ、大丈夫。優衣くらい可愛いんなら、なんだって似合うんだから」  夏澄は笑いながらそう言うと、手に持ったウチワを自らの腰帯に挿した。  その言葉どおり、優衣は誰もが認めるほど可愛らしい少女である。高校生になったばかりだが、未だあどけない顔。肩まで伸ばした髪をヘアピンで留めている。いつもなら、ワンピースを着ることが多い優衣だが、夏祭りである今日は浴衣を着ていた。 「か、夏澄ちゃん! 私可愛くなんかないもん! 夏澄ちゃんのほうが、ずっと可愛いよ」  またもや顔を赤らめ、優衣はそう言った。「可愛くなんかない」とは、この少女を想う者やその可愛らしさを妬む者にとって随分と酷い言い方だが、優衣は本当にそう思い込んでいるのだから仕方が無い。  しかしながら、だ。優衣の言い分も間違いではない。夏澄もまた、綺麗な少女だった。大人びた雰囲気を持つ、澄んだ瞳。腰ほどまである髪も美しく、文句の付けようが無い。彼女もまた、優衣と同じく浴衣を身に纏っている。優衣と違うのは、腰帯に挿したウチワくらいか。 「ふふっ、ありがとね」  夏澄は微笑みながらそう言った。この二人の精神年齢の差というのは、こういった部分に現れる。受け流すことができる夏澄は大人だが、慌ててしまう優衣はまだ子供だった。  足並みを揃え、二人で出店の方へと歩く。途中で石に躓きそうになった優衣に苦笑しながら、夏澄は空を見上げた。  満面の、星空。  雲一つない漆黒の空を、満月と無数の星が彩っている。  田舎である。でなければ、この時代に満面の星空など見ることはできない。 「夏澄ちゃん、一つだけ訊いていいかな?」  宙を見上げて惚けていた夏澄だったが、優衣のその言葉に我に返った。心中の動転を押し隠し、努めていつもの口調で尋ね返す。 「うん、いいよ。なあに?」  優しい笑顔を浮かべたままそう尋ねる夏澄に、優衣は一瞬口ごもった。  だが、すぐに顔を上げて言葉を紡いだ。 「なんで、アイドルデビューしなかったの? スカウトされてたんでしょ?」 「――そうね。優衣が心配だったからかな?」  くすり、と笑いをこぼしながら夏澄。まるで妹をあやす姉のような態度をとる夏澄に、優衣が僅かばかり不満を表す。 「な、なにそれ? 私が夏澄ちゃんにお世話になってるみたいに聞こえちゃうよ」 「あら? お世話してるつもりだもの。ふふ、いいじゃない?」  小さく笑いをこぼし、夏澄は優衣の手を握った。優衣は少しだけ唇を尖らせていたが、温かい夏澄の手を握っているうちにどうでもよくなったのか、腕と表情から力が抜けた。二人はそのまま出店へと向かう。  さながら、姉妹のようにも見える少女達。だが、二人は同じ歳の幼馴染なのだ。夏澄が大人びているのか、優衣が幼すぎるのか。とにかく、二人が一緒に居て同じ歳だと思われることが少ないのである。 「あ、リンゴ飴だ」  優衣が呟き、足を止めた。自ずと夏澄も足を止めることになる。  ぱたぱた、と足音を立てて店に歩み寄ると、店主らしき若い男性が愛想のいい挨拶をした。 「こんばんは、可愛らしいお嬢さん。どうだい、一つ?」  可愛らしいという言葉に反応してか、優衣の頬が赤く染まる。  だが、なんとか途切れ途切れに声を出した。 「あ、あのっ……リンゴ飴、一つください」 「あいよ、一つでいいの? お姉ちゃんは?」  優衣の言葉を聞いた男性は優衣にリンゴ飴を一つ渡すと、続けて後ろにいた夏澄に尋ねた。お姉ちゃん、ということばに優衣が少しだけ頬を膨らませたが、男性は気づかない。夏澄は僅かに逡巡して、結局食べることにしたらしく財布を取り出した。 「それじゃ、一つください」 「毎度あり。それじゃ、二人とも祭りを楽しんでね」  ありがとうございます、と簡潔に御礼を言って二人はまた手をつなぎ、歩き始めた。  少し離れたところに見えるやぐらから、太鼓の音が聞こえる。同時に、心地よい振動が身体に響いた。  しばしの間、出店の出ている区域を中心に闊歩する。リンゴ飴を食べ終えて、二人はかき氷を買った。かき氷は当然のように冷たくて、夏の夜には持って来いだった。リンゴ飴を食べながら射的をしたら、優衣は一つも落とせなかった。でも、夏澄は二つ落とした。残念そうな表情を浮かべる優衣に、夏澄が落とした景品を一つ手渡した。これで同じだね、と笑いかける夏澄に、優衣もはにかんだ笑みを浮かべた。 続けて金魚すくいをしたら、二人とも一匹もとれなかった。だけど、金魚すくいのおじさんが残念賞で一匹を袋に入れて、渡してくれた。その金魚は優衣が家で飼うことにしたらしい。  家を出たのは五時前だったが、いつの間にか時刻は七時半。ここまで来るのには十分もかからないのだから、二時間以上もいたことになる。楽しい時間は本当にすぐ過ぎてしまうものなのだ。 「ママー、花火はー?」  次は何をしようか、と二人が考えていると、幼女のものと思われる舌足らずな声が聞こえた。  花火。  予定の打ち上げ時刻は八時らしい。夏澄が持っていたチラシに書いてあった文章を読んで、優衣が笑みをこぼす。まだ二十分以上もある。それなら、どこかいい場所を探せるだろう。  ここじゃ、木が邪魔で見えない。  ここじゃ、人が多すぎて落ち着かない。  ここじゃ、花火が半分しか見えない。  色々な場所を試したが、どうにもアングルがあわない。毎年同じ方向に打ち上げられる花火は、どこからなら見えるというのは大体分かるのだが、二人は例年より綺麗に見える場所を探していた。 「う~ん……いい場所がないね」 「そうねぇ……どうしよっか?」  困ったように顔を見合わせていると、先ほどのリンゴ飴の店主が前を通りがかった。これ幸いとばかりに、二人は急いで呼び止めた。 「あ、あのっ」 「うん? あ、リンゴ飴を買ってくれたお嬢ちゃんたち。どうしたの?」 「えっと、花火が綺麗に見える場所知りませんか?」  親切に応じてくれた男性に感謝しながら、優衣はそう尋ねた。男性が眉を寄せて訊き返す。 「花火?」 「そう、花火が綺麗に見られる場所ないですか?」 「そうだねぇ……あ、あったあった!」 「本当ですか?」  飛び上がりそうなほど喜びの笑みを浮かべている優衣を見ながら、夏澄が冷静に尋ねた。 「ああ。あっちのところに、丘があるだろ? あそこの広場の隅にある石の近くなら、よく見えるよ」 「ありがとうございます!」  優衣は勢いよくそう言うと、夏澄の手を引いて駆け出した。 「ちょ、ちょっと優衣! 危ないでしょ、ちょ、待って!」 「急ごっ、夏澄ちゃん」  聞く耳持たず、という風に駆ける優衣に引かれて夏澄も走る。  そして、小さな丘を登り終えた瞬間。  …………ドオォォン………………  花火の光と、大音量が全てを埋め尽くした。 「綺麗……」  無意識のうちに、夏澄の唇から言葉がこぼれた。赤や緑、様々な輝きが視界を埋め尽くしていく。  二人はしばし、その花火に見入っていた。  鼓膜に音が残るほどの大きな音だったが、綺麗な花火を見ているとそれも気にならなかった。  花火が終わったのを確認して、二人は手を繋ぎながら夏祭りに来た道を戻った。  まだ余韻が残っているのか、二人とも少し惚けた様子である。  道をゆったりと歩いている途中で、唐突に優衣が口を開いた。 「ねえ、夏澄ちゃん」 「なあに?」  夏澄が訊きかえす。優衣は金魚すくいの袋を手にしたまま、小指を差し出した。 「来年も一緒に、夏祭り行こうね。約束だよ?」 「うん、分かった。約束」  小指が絡まり、そして離れた。
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