sechs

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 少し待ってろと江は羽川に告げると、二階の自室へ戻って行った。  玄関に一人残され、首を傾げて待つ忠犬のような羽川の姿をこっそり居間から祖母が盗み見し、小さく笑うと静かに居間へと姿を隠した。  二分程して再び江が二階から降りて来た。私服姿に着替えた江は何も言わずにスニーカーへ足を通している。  初めて見る私服姿に気後れしていた羽川が、ようやく気を取り直して声をかけると、江は「付き合えよ、時間あんだろ?」と素気なく羽川を誘った。  家の門を閉めた時点で、我慢出来なくなった江が吹き出して笑った。 「な、なに?」 「ふっ、お前……っ、尻尾がスゲエるんるんなってんじゃん。散歩に連れてかれるワンコかよ」 「えっ!」  図星過ぎた羽川は、慌てて存在しないはずの尻尾を探すように自分の尻を覗いていた。 「あーあ、おかし。お前ってほんと不憫なワンコ。俺なんかでテンションあがんのかよ」 「──お前だから、上がるんだ」 「素直ね、お前」 「お前に嘘つく必要ない」 「いい子だね、お前は。俺の周りは俺の悪い部分を隠すためにいい子ばっか集まるように出来てんのかな? 神様も意地悪だね」  余計なことを言っただろうかと、眉を下げる羽川に、江は初めて優しい笑顔を向けた。 「そんな顔すんなよ、自分が嫌いな奴は捻くれてんだ。お前も知ってんだろ?」  何も言えずに唇を結んだ羽川の手を、江は強く引っ張ってみせた。驚いて目を丸くした羽川を見て、再び江は笑う。 「烈己もさ、びっくりしたらそんな目すんの。くりっくりの目。ちょっと似てるかもな、お前と烈己。まぁ、烈己のが数億倍可愛いけどね?」 「──当たり前だろ、鶏冠井と比べるなよ……」 「お前も可愛いって思う? 好きになっても俺は怒んないよ? 烈己を泣かせないって約束すんならいくらでも応援してやる」 「今のは性格が悪い……」  羽川はすぐにムッと眉を寄せるが、江は相変わらず作り慣れた笑顔を見せる。 「だから言ったろ、俺は意地悪だって」 「──それでも俺はお前が好きだ」 「お前はいつも言うことがお子様だよな。付き合ってだとか好きだとか、小学生かよ」 「〜〜〜仕方ない、だろ……告白するのなんて、お前が初めてなんだから」 「えっ、マジで? は〜、だからやることが唐突過ぎたり下手くそ過ぎんのか、なるほど。理解した」 「もう俺のことはいい。今からどこに行こうとしてるんだ?」  江の意地悪に耐えかねて、犬の尻尾がしょんぼりと下へ垂れる。 「え〜? どこかなぁ? ラブホとか?」 「へっ!」  順調に進んでいた体がいきなりピタリと止まり、前で引っ張っていた江の体が後ろへ勢いよく傾いた。どすん! とそのまま羽川の胸に頭をぶつけ、互いに痛みで声が上がる。 「ってなぁ! 急に止まんなよ!」 「ご、ごめんっ、いや、その、なんで、ラ、ラブホ??」 「公園が良いの? 青姦? 土とか汚れるのは俺、やだよ」 「アオカッ……、いやっ、そうじゃなくて!」 「なんだよ、お前俺としたくないの?」 「したくないわけないわけないけどけどっ」 「あ? なに? それどっち??」 「俺、明日から二度とお前に会えないのか……?」  急に血の気を無くした真っ白い顔をして、羽川は怯えていた。  初めて見た時は、まさに独活の大木みたいに感情があるのかどうかもわからないほどに冷めた顔をしていると思っていた男は、今やすっかりその影を無くしていた。  わかりやすく尻尾を振ってみせたり、耳を折り曲げて落ち込んでみせたり── 「ほんと、変な男」 「……浅井?」 「なぁ、これ見て」と、江は何の前触れもなく、突然左の手のひらを羽川に見せた。  意味がわからないままも、素直に羽川は首を曲げて出された手へ顔を近付ける。  見ようとした手は突然消えてなくなり、羽川の首の後ろへと回され、強い力で前へ引かれた。  驚きながらも何か起きたかわからず、目を見開いていた羽川の視界は一面暗く遮断される。  すぐに開けた視界の中で、見たこともない笑みを浮かべた江が目の前にいた。 「浅井……いま、キ……」 「──ラブホ行きたくなってきた?」  羽川は江に言われるより先に、上向きになった尻尾を隠すようにして尻を押さえた。
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