第1話 青

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第1話 青

 青  夏だというのに珍しく冷え込んだ夜、肌をなでる空気は軽く、心地よさすら感じていた。 時刻は零時を回る閑散とした空気の中、青い宝石のような瞳を持つ少女が一人、浜辺に佇んでいる。  月に照らされて輝く銀髪は、まるで童話から抜け出してきたかのような彼女によく似合っていた。  シンプルな白いワンピースを風に靡かせて微笑む少女は、まさに海の波そのものであるかのように儚く、綺麗で。  言葉に詰まった俺をよそに、彼女は 「おはよう」 朝の挨拶をした。 —————————————————————   泡沫の人魚姫  第1話 青 —————————————————————  人間はひとの外側で価値を判断をする生き物だ。  自分より下の者に対しては「可哀そう」と偽善の目を向け、心では蔑む。反対に上の者がいたのなら「素晴らしい」と褒めたたえ、心では妬む。  じゃあ俺は世間一般的に見て、どの立ち位置にいるのか?  そんなこと、日ごろの俺を見ていればすぐに分かる。一言でいえば、まあ 空気だ。  別に卑屈になっているわけではない。勘違いしないでほしいが、いじめられているわけでもないし、友人だってちゃんといる。じゃあどういう事だって?つまり俺が言いたいのは…… 「お! 凛久(りく)、朝早いなどうしたん?」  グラウンドの後片付けに忙しなく動く運動部の姿がよく見える。運良く窓際最後尾となった自分の席に座っていれば、朝から声のでかいクラスメイトが話しかけてきた。 「あーお前か、はよ……」 「なんか眠そうな顔してんな、課題にでも追われてた?」 「そんなとこ。今日提出だったろ?」 「まじか。やっべぇ、忘れてた!! ちょっとあっちで浜っちに教えてもらってくるわ!」 「おー、がんばれよ」  俺がけだるげに激励を送ると同時に、あいつはこの席を後にした。彼が頼りにしたクラスメイトの席では、既に他の級友が必死こいて課題を写していた。始業まではあと5分。どう考えても間に合いそうにない。  今の男子生徒とは世間話をする程度の仲で、特段親しいわけでもなかった。普段から下の名前で呼んでいるため、名字が何だったかすら思い出せない。確かよくある名前だった。田中……いや佐藤か?  まあ、こんな感じだ。  さっきの「空気」っていうのは、そこにただ存在するだけの人間。誰かの人生の中で良くも悪くも印象に残らないエキストラ。特別に影響を与えるようなことのない、クラスメイトA。  そんな立ち位置だ。  彼以外の他のクラスメイトともせいぜい話をする程度で、遊びに行くようなこともない。  可哀そうと言われればそれまでだが、俺はその現状に満足している。見下されるわけでもなく、敬われ、期待されるわけでもない。平凡。それでいい。  こんな話を無駄に熱い体育教師あたりにでもしようものなら、 「その年で人生を分かった気になるんじゃない!」 とか 「もっと若者らしく楽しめ!」 とか言われるんだろうか。  知るか馬鹿。  確かに俺は世間からすれば、物事を斜めから見るひねくれた若者とカテゴライズされるのかもしれない。  だが、何事にも理由はあるものだ。もちろん、俺がこうなったわけも。  青春真っ盛りな高校生の時期に、そんな考えに至ってしまった哀れな俺の話でもしようじゃないか。 *  俺には父がいる。  まあ、当たり前だな。人間、誰しも生物学上の両親がいるはずだ。そんな当然なことは置いといて、大嫌いな父についての話をしよう。  父は根っからの仕事人間で、医者という職業に誇りを持っていた。流石お医者様とでもいったところか、父親の出身大学は誰もが知るような名門国立大学で、幼いころからずっと勉強一筋であったらしい。  そんな父親の子供に生まれてしまった俺には、もちろんとんでもない重圧がかかるわけで、小学校低学年の頃から塾やら家庭教師やらに勉強を教え込まれていた。  別に、初めは苦じゃなかった。  いくらいい点を取ろうと、素直に俺を褒めてくれるような父親はいなかったが、代わりに優しい母がいた。 俺のテストのはなまるを、自分のことのように喜んでくれる母がいた。  小学生当時は、自分自身も父のことは嫌いではなかった。きっと母が父を語る時の声色が、ひどく優しかったせいだろう。とはいっても父は仕事一筋で、家族と滅多に食事を共にする時間も無い。そのせいで、俺はいつも母と二人で過ごしていた。そんな生活を過ごす中でも、母が父を讃える言葉を真に受けて、幼い俺はあの父親に憧れていたし、たまに会える貴重な時間を心底楽しみにしていた。だからこそ、父にとっての良い息子でいようと心がけていたし、小学校のテストはいつもはなまる満点だった。  その成績を保つのためには、努力も欠かせない。家では毎日机に向かって教科書と格闘し、授業中も友人と喋り倒すこともなかった。だからといってガリ勉だと虐められていたわけでもない。人並みに友達もいたし、寧ろクラスの中では中心的な部類だったと思う。  そんな生活を過ごしていく中で、微かな違和感を覚え始めたのはいつ頃からだったか。  そうだ、確か小学4年生の頃になる。俺のクラスが全国統一の学力テストの対象となったときの話をしよう。  もちろん必死に勉強したよ。いつもと異なる形式にレベルの高い問題。単元テストなんかとは、気合の入り具合も違う。  でもその一方で、いつも通りを実践していれば、一番になれると信じて疑わなかったんだ。  出し切った達成感を抱えたままテストが終わり、寒さを感じる季節となった頃、遂にテストの返却日がやってきた。  くどいかもしれないが、当時の俺はいわゆる優等生として周りからも認識されていた。小学生なんて自分達に対する自信が異様に高い時期だったもんだから、 「このクラスさぁ、もしかしたら全国で1位になっちゃうかもよ!」 なんて言っていた女子もいた。俺と仲よかった奴なんて、なんの疑いもなく 「まあ、凛久は全国1位で間違い無いよな!!」 と嬉しそうに俺の肩を組んできた。褒められて気を良くした俺も、満更ではなさそうに 「まさか、そんなわけないじゃん」 と言いつつ、鼻の下を指で擦った。  しかし、残念ながら俺の人生はそこまでイージーモードではない。調子に乗っていた俺の順位は、残念ながら800位をギリギリ上回る程度。  母数が少なかったけれど、順位的には良い方であったと思う。点数は平均を大幅に上回っていたし、クラスでも1番の順位だった。想像していたイメージとは異なる結果に、多少たりとも打ちのめされた俺であったが、先生や友人たちに800位を褒めて持ち上げられたせいか、単純な俺はすぐに立ち直った。我ながらちょろい。そうして、この順位に誇りを持つまでに浮足立って帰宅した俺は、満面の笑みで結果を見つめる母の姿を想像し、元気よく玄関ドアを開けた。 「ただいま!」 「あら、お帰り! そんなに慌ててどうしたの?」  靴を揃えることも忘れて、駆け足でリビングに入ってきた俺を母は不思議そうな顔で眺めていた。 「今日はさ、模試の結果が返ってきたんだよ!」  俺は母親の前に座り込むと、ひっくり返すようにランドセルを床に投げ、手探りで模試の結果を探した。中々目当てのものが見つからないまま奮闘を続ける俺に、母はいたずらっ子のような笑顔で耳打ちをする。 「そういえば今日ね、もうお父さんが帰ってきてるのよ」  目をまん丸にして驚く俺を見た母はおなかを抱えてケタケタと笑っていた。 「今は書斎にいるはず」  母は茫然とした俺からランドセルを掠め取ると、秒で模試の結果を見つけた。ちらりとそれを眺めた母は、満面の笑みで俺の頭をくしゃりと一撫でする。母の両手は俺の小さな手を取ると、魔法の紙を授け、行っておいでと呪文を唱えた。 * トントントン 金のノブがついた、重厚な扉をノックする。 「あの…お、お父さん! 入っても良いですか?」 「…ああ」  緊張を伴った体で返事を待つこと数秒。低く感情の読み取り辛い声が、扉の向こうから聞こえてきた。  これから起こることへの期待を胸に、小さく震える指でゆっくりとドアを開ける。 「どうした……凛久、用件はなんだ?」  書斎のドアを開ければ、眉間にしわを寄せた父が上から俺を見下ろしていた。父から発せられた威圧感に怖気づいた小さな俺は、おずおずとした態度で模試の結果を差し出した。 「……こないだ、学校で模試があったんです。良い結果がとれたので、報告がしたくて」  父は黙ってその紙を受け取ると、無表情のままでじっと紙面を見つめていた。褒めてもらえるかもしれないと、微かな期待を胸に恐る恐る父を見上げたところ、 「ああ、そんなものか」 と眉一つ動かすことなく一蹴された。  期待などしなければ良かった。  次に気がついたときには、母の横でこたつの木目を眺めていた。母は何も言わずに綺麗にみかんを剥き、座り込む俺の口に放りこんだ。 「どう? 甘いでしょ」  優しく背をさすり続ける母に、俺は何も言うことができなかった。 *  時が経つにつれて、父親への憧れや期待の思いが薄れていった。それと同時に、俺の成績に対する周りの反応も "凛久だから当たり前" と言われるようになっていた。  いよいよ学年は中学生へと上がり、周りに倣って部活にも入った。  俺が選んだのは水泳部であったが、特段強くも弱くもない部活だった。選んだ理由は別に水泳を習っていたからとかそんな意味のあるものじゃなくて、ただ単に大好きな海から連想しただけの適当な結び付けからだった。  そうはいっても中途半端が嫌いな自分の性格のせいか、次第に部活へと打ち込むようになり、気づけば地区大会を通過し、県大会、更には地方大会までへと駒を進めていた。最後の夏の大会にて、今までの全てを出し切った俺は、全国大会にこそ進めなかったものの入賞し、夏休みの登校日には全校集会で表彰された。くるくるに丸められた賞状を持ってクラスに帰還すると、友人達は俺の功績を口々に褒め称えた。急な称賛に気恥ずかしさを覚えた俺は、にじみ出る嬉しさを隠すように口元を抑える。 「さすが凛久!」 「お前は俺らのエースだ! 結局地方まで行ったのもお前だけだし」 「ね! 私も応援行きたかったなあ、残念」 「あーあ、俺も凛久に生まれてたら人生楽だったのにな……」 「お前には一生無理だろ。馬鹿、凛久は俺らと違う生き物なんだよ」 「それな! 俺も努力せず、人生楽してえな」 "努力せず"  何気ないその言葉が、酷く胸につっかえた。  そう言った友人に悪気はない。屈託のない笑みで俺の返事を待っているのも見える。 「馬鹿野郎、俺だって努力ぐらいするわ」  笑って言葉を返したが、本心はどこか遠くにあった。 *  その日は少しばかり重い足取りで帰路につき、灯ひとつない家にリビングの電気を灯した。  空いた腹を満たすために冷蔵庫を開ければ、しまってあった茄子ときゅうりが目に入る。視線を横に移すと、家政婦さんのメモと恐らく夕飯であろう肉じゃががポツンと佇んでいた。冷蔵庫から取り出してレンジで1分間加熱する。炊いてあったご飯をよそい、広いテーブルに一人腰かけた。  気を紛らわすためのテレビをつけ、作業をするように黙々と食べ進める。今日は大御所の有名人が亡くなったらしい。世代でないのか、あまり見たことのない人だった。  自分の知りもしない他人が亡くなろうと、なんとも思えない。  食事を摂り終わり、使った食器を水に浸しておく。 風呂を沸かそうと給湯器のボタンに手を伸ばしたところ、玄関ロックの無駄に甲高い解除音が聞こえてきた。しばらくすれば玄関の灯りが灯り、ずっしりとした足音が微かに響く。その足音はリビングを遠ざかり、書斎へと向かっていった。  父さんが帰ってきた。  父の帰宅に気づいた俺は何を思ったのか、珍しく書斎のドアを叩いていた。 トントントン 「父さん? 凛久です」 「ああ」  短い返事を了承と受け取るやいなや、細心の注意を払って、静かに戸を開く。 「…用件は?」  父は仕事用のデスクに座り、パソコンの画面を眺めたままでいた。こちらには自然の一つもよこさない。俺は仕事の邪魔をしないように、遠慮がちに表彰状を見せた。 「……先日の水泳の地方大会で、賞状を頂きました。それで」 バシッ  奪い去るように俺の手から賞状を受け取った父親は、それを軽く一瞥した後、わざとらしい大きなため息をつく。 「全く……」 「あの、父さん……?」  一言呟いた後から返事が一切ない父親の機嫌を伺うように、恐る恐る声をかけた。父はゆっくりと顔を持ち上げると、相変わらずの不愛想な表情でこちらを眺めている。 「お前は……そういえば、水泳をやっていたんだったな」 「はい……」 「息抜き程度なら問題ないが……そんなくだらないことに時間を割いて、成績は大丈夫なんだろうな?」  くだらないこと。  俺が3年間続けてきた部活動を「くだらないこと」呼ばわりだ。確かに、初めは適当に選んだ部活だった。それでも今は泳ぐことが大好きだ。  父から発せられた単なる言葉の一つで、俺の今までの頑張りが、生き方が、全て否定されたような気がした。  父を見上げる顔は歪みつつも、綺麗な愛想笑いを作り出している。  なんとか言い返してやりたかった。くだらなくなんてないのに。 「はい、問題ありません」  だけど、どうすることもできない。  春先のプールよりも冷たい父の視線に、俺はそう答えることしかできなかった。  こんなことになるのなら、調子に乗って賞状を見せなければよかった。少しだけでもいいからと、期待した自分が馬鹿であった。  誰もいないリビングで蹲る中、薄っすらとお線香の煙臭い匂いだけが香る。自分を慰めてくれていた唯一の存在を思い出し、そのまま目をつむった。  そしてこの日、父の存在を諦めた。 *  中学生としての3年間が終わるころには、周りの悪意もある程度見えてくるようになった。大多数の生徒からすれば、初めての受験の季節がやってくる。急に焦り始めて必死に勉強をしだす奴もいれば、最後まで遊び惚けていた奴もいた。  けれど、ほとんどの生徒は日に日に増えていく勉強量と不安に押しつぶされていった。  俺の周りもそうだった。  模試の結果が振るわなかったであろう友人たちは、いつしか俺を避けるようになっていた。同じ塾に通っていようと遠くの席に座り、視線を寄越しても喋りかけることはない。  今だってそうだ。  授業の休憩の合間におしゃべりに花を咲かせているあいつらは、俺への嫌味で忙しそうだった。 「あーあ……今回の模試も栄がトップらしいぜ。いくらがんばっても勝てないなんてやる気でねーわ」 「うっわ、しかも数学満点かよ。あいつ水泳でも関東行ったんだろ。ほんっといいよなぁ! 天才サマは」 「えー凛久くんすごいハイスペック! ちょっといいかも……」 「馬鹿やめとけ、どうせ俺らのことなんて内心見下してんだからよ」 「確かに、言えてるわそれ!」  聞こえてるんだっての。  一応影でコソコソ言ってるつもりらしいけど、遮るもののないこの教室では、陰口がよく響く。そう話し込んでいる奴らほど、何事もなかったかのように、突然親しげに声をかけてくることもある。テスト前なんて、特にそうだ。  本当に気持ち悪かった。 *  そんなこんなで親のみならず、友人との付き合いも諦めてしまった俺は、知り合いのだれもいない高校へと進むことに成功した。一応進学校であった為、勉強に力を入れるという理由で帰宅部を選択する人も珍しくはなかった。俺もそのうちの一人だ。水泳に対しては、ほんの少しだけ未練があったものの、厄介な父親に口を挟まれるよりはマシな選択をしたと思っている。  そして幸運なことに、この学校には成績を貼り出すような文化もなかった。そのため、いくら良い成績を収めようとも頭がいい、天才などといったレッテルを張られることはない。俺は入試で首席とやらになったらしいが、入学式の新入生代表の挨拶は断った。あまり目立つようなことも引き受けたくもなかった。  そうして俺は今、クラスメイトたちとの間に適当な距離感を保ちながら、当たり障りのない平穏な高校生活を送っているのだ。 * キーンコーンカーンコーン  終業を告げるチャイムが鳴る。  俺は誰にも声をかけることなく、クラスを後に真っすぐ帰路へとついた。 ピー  聞きなれた電子音が鳴り響くと、玄関ロックが音を立てて開いた。 「ただいま」  今日は玄関の灯りが付いている。俺の帰宅を感じ取ったのか、リビングの方から足音が向かってきた。 「あら、凛久さんお帰りなさい。今晩はカレーですが、今食べられますか?」  靴棚の横からひょっこりと顔が飛び出す。若草色のエプロンをつけた中年の女性は、シワを刻むように優しく微笑んだ。彼女は家政婦の山川さんだ。母親が亡くなってから約5年間、ずっとうちで働いてくれている。流石に毎日というわけにはいかないのだが、週に4日ほど家事代行を頼んでいる。 「ごめん、いらない」  美味しそうな匂いを漂わせている料理には申し訳ないが、今は何かを口にするような気分ではなかった。 「そうですか……」  残念そうに、山川さんは眉を下げた。  俺は彼女にもう一度だけ謝ると、今日のテスト結果を押し付けるように受け渡して自室へと向かう。その紙は、山川さんを介して父へと渡るはずだ。もちろん、結果は申し分ない。なんていったって、学年でトップの成績だ。これで父の煩い小言を回避できると、小さく安堵した。  階段をゆっくりと踏み締めて上り、自室へ入ると同時に鍵をかける。カバンを机の横に投げ出すと、スプリングの利いたベットへとその身を沈めた。  山川さんにテスト結果を預けるたび、彼女はそれとなく父に直接渡したほうがいいと伝えてくるものの、それにはもううんざりしている。中学生最後の夏に、ようやく父の考えが分かってからというものの、その攻防は続いていた。けれど、俺のことを単なるアクセサリーか何かだと思っているような奴に、わざわざ時間をとって報告するだなんてごめんだ。  俺はあいつの満足いくような成績を収めている。最低限の義務は、既に果たしている。だったらそれでいいじゃないか。  後のことなんて知るもんか。  何を考える訳でも無く、ベッドに寝そべった俺は天井のシミを数え続けた。いくら時間が過ぎようと、かすかに香るカレーの匂いにも食欲を見いだせなかった。 *  あれから何時間が経ったのだろうか。思考に耽るのも流石に飽きてきた。  気まぐれからカーテンを開き、窓の外を眺めてみる。辺りはすっかり暗くなっていた。窓枠のキャンバス上に広がる住宅街の隙間から、全てを吸い込むような深い青がちらりと覗く。  そう、海だ。  俺の家は海に面したこの街の高台に建っているためか、窓からの景色は見晴らしが良く、綺麗な海がよく見えた。  俺と母さんは、この景色が大好きだった。  爽やかに香る潮風に晴れ渡った空、その真下に広がるのは先の見えない水平線。広大で力強く美しいこの海は、街一番の誇りだった。  けれど、どこか胸騒ぎがする。今日の景色は、いつもと何かが違うように思えた。  夜の空を飲み込んだような底の見えない深い青に、目が離せなくなったのだ。まるで吸い寄せられているか如く、海の青さに恋焦がれる。  時計を見れば、午前零時を迎えようとしていた。流石に思い直すべきかと思考を巡らせたときにはもう、自室のドアを開いていた。念のためリビングに人が居ないことを確認して、薄汚れたスニーカーを履く。充電が残り20パーセントに満たないスマホとカードキーを握りしめ、感情のままに外へ出た。  人通りの少ない夜の道を通り抜け、交差点の信号を渡り、走る。車通りも少ないこの街の道しるべとなるのは、明るく光る街灯だけだ。わずかな光に導かれながら、俺は堤防と並んでひたすらに走り続けた。  タッタッタッ  海へ。  どうして走っているのかもわからない。  わからない。  けれど海へと焦がれる気持ちだけを頼りに、足を動かし続けたんだ。  完璧を目指し、父に言われるままに努力を続けていた俺は、外面をいくら取り繕っても中身はすっからかんだった。  俺とクラスメイトたちの間には、いつも一歩引いたような、見えない距離があった。彼らは俺の外面だけを見て、上辺だけの関係を築き、次第に俺を妬むようになっては、結局遠くへと離れていってしまう。自分に全く非がないとは思っていない。けれど、人を自分の内側に招き入れる勇気なんて出ない。出るわけがない。当然人に対する信頼など、少しも育ちはしなかった。  だから俺は、母を亡くしてからの5年間、本当はずっと独りだったのかもしれない。  でも一つだけ、微かにほんの僅かに思い出せる記憶がある。  白いワンピースを着た少女の記憶。  母を亡くしたばかりで泣いていた俺に優しく寄り添ってくれたあの子の記憶。  その記憶は本当に曖昧で、声も名前も、顔すらも思い出すことができないでいた。結局、思い出せたとしても、今俺が孤独であることに変わりはないんだ。どうせ変化がないのなら、思い出すのに労力を割くだなんて意味がない。  くだらないことを頭の片隅で考えつつ、俺は海へと走り続けた。 ✳︎ 「はあ……はあ……」  久々に体を動かしたせいか、息が切れる。呼吸を整えようと、波の音に耳を澄ませた。 ザザ……ザザン……  押しては波が引いていく。  午前零時の青い海。  落ち着きを取り戻した俺が静かに辺りを見渡したそのとき、 「青……」  そこには、海と同じ色の瞳を持つ少女がいた。  少女の口が緩やかに輪郭を描いて音を発する。 「おはよう」  口元からこぼれ落ちた音色は海へと響き渡り、彼女の瞳とかち合って溢れ出す感情は、俺の世界に色を与えていく。
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