第10話 告解

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第10話 告解

※ショッキングな描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。 「栄先生、急患です!」  長い廊下の向こうから、一人の看護師が走り寄ってきた。 「容態は?」 「が一人、崖からの転落により頭部を強打し、重傷です」  怪我人の手術を執り行うべく、私たちは急いで患者の元へと向かった。 —————————————————————   泡沫の人魚姫  第10話 告解 ————————————————————— 「……い、さか……」  横に居る先輩医師、林田先生が私の肩を強く掴む。近くで響く彼の声は、私の耳には届かなかった。  私は今、患者を目の前にして愕然としている。  応急処置として、布で覆われた頭部。そこからは多くの血が流れ出していたのであろう。顔周りには、拭き取りきれなかった血痕が少しばかり残っていた。  身体中には青黒い打撲痕が残り、皮膚の一部は今にも剥がれ落ちそうにぶら下がっている。  骨はどれほど無事であろうか。ひしゃげたように曲がる足が、見ていてひどく痛々しい。    しかし、それら全ては些末な問題であった。  幾度となく、怪我人の変わり果てた姿を見てきた私にとって、この光景は日常茶飯事だったからだ。  ならば、何に動揺していたのか。      それは、この少女が少女であったことに、だ。  瞳は閉じられ、顔の大部分が布で覆われてはいるものの、私は確信を持って言える。  この子は間違いなく、あの日海で見た少女であった。 「おい、栄! 大丈夫か、お前」  やっと耳に入ってきた林田先生の声に、私は現実に引き戻された。  周りを見れば、忙しなく準備を急ぐ看護師たちの姿があった。 「ええ、問題ありません」  微かに刻まれる手の震えを押し止めるように、私は拳を強く握る。  そうした私の様子に一瞬、先輩医師は疑いの目を向けた。しかし、取るに足らないと判断したのか、既に前へと向き直っていた。  そう、私たちの眼前には、今にも絶命しかねない患者の命があるのだ。  どのような状況であれ、私は医者としての使命を果たさなくてはならない。    慌ただしく動いていた看護師たちが位置につく。準備指示を出していた他の医師も、こちらの様子を伺っていた。  今回の執刀医は私だ。  覚悟を決めてメスを受け取ろうとした瞬間、目の前が白く歪んだ。  全身が重力のままに崩れ落ちていきそうな感覚に抗おうとするも、砕けた膝には力が入らなかった。  どうして、今なのか。  まるで神のいたずらであるかのように、うってつけのタイミングで来てしまったこの瞬間が恨めしい。  せめて、器具と患者には触れないように……  斜め後ろへと体重を預けた私は、そのまま意識を失った。 *  清潔な白を基調とした、広い天井が目に入る。 「起きたか……」  目覚めて数秒。少しの時間をかけたのち、自分が病院の一室で寝かされていることに思い至った。  私は横になっていたベッドに手をつくと、未だに重い体を軽く起こす。腕には点滴が繋がれていた。 「栄養失調に睡眠不足、そして心因的ストレスときた。そりゃ倒れもするだろうよ」  低い声が上から降るように聞こえる。  顔を上げた私を、見下ろすように佇む林田先生の姿がそこにあった。  彼の向ける視線は、ひどく冷たく感じた。  そうだ、手術は?  少女のことを思い出した私は、焦りから生まれる衝動に居てもたってもいられなくなった。  勢いのままにベッドから立ちあがろうとしたものの、体はふらつき倒れてしまう。  身体の動きが心についてこない歯痒さに、奥歯を強く噛みしめた。    淡々とその挙動を観察していた先輩は、静かに私を見下ろし続けている。 「まだ安静にしていろよ」    彼の正しい言い分に従うほかなく、私は立ち上がることを諦めた。  それに林田先生がここに居るという事は、手術も終了したということだろう。  軽く息をのんだ私は、枯れそうな声を喉から搾り出した。  早く、あの少女の容態を知って安堵したかった。 「……患者は?」  沈黙があたりを包み込む。流れる時間が、とても長く感じた。  まるで、裁判の判決を待つ重罪人の気分であった。  先生の唇がゆっくりと開いていく様が、スローモーションのようでひどくじれったい。  私は、祈るようにして続きを待った。 「先程、亡くなったよ」  全身が、凍てつくような心地がした。  目の前の男の顔を見る。彼は表情を崩すこともなく、淡々と話し続けた。 「患者の死にはお前の責任もあることを忘れるなよ。お前が手術室で倒れたことで、お前を運び出すために数人の人員が割かれた」  どうして、今だったのだろうか。 「そこからお前の代わりを呼ぶまでに数分、少ない人数で手術を続行する必要がある」  もし、私が手術を行えていれば。 「それに、栄は今日いた中で一番腕がよかっただろ。お前が倒れることで手術の成功率が下がったのが、分かるよな」  凛久にどんな顔をして会えばいいのだろうか。 「お前ももう、説教を受けるような歳でもないし……栄なら、今回の責任の重さを理解できているはずだ」  私が、彼女を死に導いてしまった。  男の口から紡がれた言葉の羅列など、私の耳には聞こえてなどいなかった。自分自身から湧き上がる激しい悔恨の念に押し潰されるように、私の頭は徐々に下がっていった。  全てを話し終えた先輩は、先ほどと打って変わるように表情を緩め、私の肩に優しく手を乗せた。 「とにかく、今日の失敗は忘れるなよ。自己管理の大切さも分かったようだし、まずは休め」  穏やかな声色の、厳しくも温かい言葉が頭上から落ちてくる。  けれども私は、顔を上げることができなかった。 「? 栄……」  異常に震え続ける私の様子が妙に思えたのだろう。先輩医師は私の顔色を伺うように、じっとこちらを観察し続けていた。  私はただただ、自責の念に追われていた。  医師としての過ちに。  自分がしでかした責任の重さに。  そして凛久がこれから感じるであろう絶望に。  私が何も言わないものだから、先輩医師は励ますように追加の言葉を投げかけた。 「栄、俺は別にお前を責めようだとか思っていないんだ。先程、忘れるなとは言ったがな、そこで立ち止まってろと言ってるわけじゃないんだぞ?」 「あの患者が、忘れちゃいけない一人なのは変わらないが、律儀に患者全員の思いまで背負ってちゃ医者は前に進めないだろ。次の一人を救うために、この経験を生かしていくしかないんだよ」 「それにああは言ったが、お前が倒れたことによる手術への影響はほんの些末な程度だった。お前とそんなに技能の変わらない俺が、全力を尽くして失敗した。だから、そこまで気に病むなよ」  林田先生の武骨な手の平が、私の背を軽く叩いた。  私は、それでも前を向けずにいる。  だって、  違う。  あの少女は、私が殺したんだ。 *  急遽病院に泊まる事となった私は連絡のためにスマホを取り出すも、そこで思いとどまった。  もう、連絡を取る相手もいなくなっていた。    そんなことも忘れていた自分に、ほとほと呆れる。スマホをしまおうと体を動かしたそのとき、私はメールの通知に気が付いてしまった。  仕方なくメールアプリをタップすると、家政婦からの連絡が入っていた。 『栄様  お忙しい中、失礼いたします。  先ほど午後8時を回りましたが、凛久さんが未だに帰宅されていません。  普段通りであれば、7時ごろには帰られているはずです。  お心当たりがありましたら、そちらまで迎えに行きます。  警察への通報が必要でしたらおっしゃってください。    山川』  凛久はこの頃毎日のように、日暮れ時に姿を消していた。  帰ってきたあの子の服は、少しばかり砂で汚れていて、いつも潮風の匂いがした。  私は、海が嫌いだ。  けれど、あの子を救ってくれていた少女と海の存在に、私は安心していられたのだ。  凛久は、今日も少女を待っていたのだろう。      だとしたら、私は――    家政婦宛に凛久の所在を伝えたメールを送信すると、私はベッドに倒れ込んだ。  目元に両腕をあてた私は、そのまま深い罪悪感の中、眠りについた。 *  結局、二日ほど入院をした。  その間に、あの少女のことを多く知ることとなった。  神谷碧、11歳。凛久と同い年の小学生。  彼女は若くして命を失った。  死因は脳挫傷。  外で遊んでいたところ、崖から足を滑らせて海岸に転落。地元住民に発見され、すぐに病院に運ばれるも数時間後に死亡。彼女が足を滑らせた場所には、再発防止にと柵が建てられる予定らしい。  母親の帰省に伴ってこちらへと戻ってきていたようだが、そこでこのような事故が起こるとは……両親とも憔悴しきっていていたと看護師から話を聞いた。  私は、何も言葉を返せなかった。  退院後、またしばらく休みを貰った。  今度は体調管理もするようにときつく言い渡された私は、規則正しい生活を送っていた。そのため、初めから規則的な生活を送っている凛久とも鉢合わせる機会が多かった。 「凜……」  あの子の後姿を見て、何度か声を掛けようとした。  けれど、どんな顔で話をしろというのか。  私を蝕む罪悪感が消えることはなかった。  私の存在に気づき、こちらを振り向いた凛久の表情は硬く、少女に向けていた笑顔のようになど笑ってはくれなかった。  上げかけた手を下にさげ、私は後ろへと振り返る。    残ったものは、ただの諦めだった。  まともにあの子に向き合うことはもう、できないのだろう。  いや、これまでもそうしたことは無かったろうに。    あの子は、あの少女がこの世を去ったことなど知りもしない。  けれどもし、全てを知ってしまったら。  この少年は何を感じ、どんな気持ちを私に向けるのだろうか。    時が来たら、それを受け止めるしかないのだろう。  きっとそれが、わたしの贖罪なのだから。 * 「これが私の知る全てだ。神谷碧さんは、私が死なせたと言っても過言でない……すまなかった」  真夏の蝉が耳をつんざくように鳴り響く中、俺は黙って父の話を聞いていた。  まるで懺悔をするように全てを語り終えた父は、真っすぐに俺を見据えている。  ここで、何を言うのが正解なのだろうか。  一度に聞いてしまった情報量の多さに、率直に言って混乱しかけている。 「いや、待って……流石に、整理する時間が欲しい……です」  これが、俺の精一杯の答えだった。  父の思いを、  母の最期を、  思い出のシレーヌの死を知って、俺にどうしろというのか。  そして、父と俺が諦めてしまった親子の関係を俺はどうしたいのだろう。  正直、まだ分らない。  俺は父のこの話を聞いたからといって、今すぐに父への諦めを取り下げることも、父への怒りを収めることもできそうになかった。    返答に困った俺は、ちらりと父の様子を伺う。  感情の見えない父の表情は相変わらずだった。それでもこの話を聞いた後だからなのか、不思議と恐ろしくは思えなかった。  あんなにも大きかった父の背が、とても小さく感じた。  知らぬ間に、目線も近づいていたのだろうか。  しかと眺めた父の顔には、細かい皺が増えていた。  そこに居たのは、なんてことない一人の人間だった。  俺は、初めて父の顔を知った心地がした。  呆気にとられると同時に、俺自身のことも知ってほしいとさえ思っていた。  震える声で父を呼ぶ。 「父さん」    今一度、自分の本音をぶつけたかった。  父がいくら嫌いだと言っていても、  俺は、母さんが愛したあの景色が好きだ。 「父さんが俺に厳しく当たる理由も、水泳をあんなものだと言ったわけも、分かったよ」  けど 「俺は海が好きなんだよ」  等身大の、精一杯の気持ちを父に伝えた。  父さんは驚いたように小さく目を見開くと、目の端を下げるようにして軽く微笑んだ。  父さんの笑顔を初めて見たのかもしれない。 「お前は、あいつによく似ているな。私とは違う」  少しの寂しさを堪えるような、穏やかな笑顔だった。 「父さん」  思わず声に出していた。   「また聞かせてほしいんだ。母さんの話」  今度は俺が、父さんを真っすぐに見据えた。  たとえこの話を考えた末に、俺が父さんを許せなかったとしても、今の俺は、今日見せてくれた父さん自身の姿を信じてみたいから。  俺は、今の父さんに歩み寄りたいと思った。  震える手を握りしめて、無理に笑顔を作ろうとする。俺の口の端は変に上がっていた。  そりゃ緊張もする。父親相手に頼みごとをするなんて、人生で初めてだったんだから。  気恥ずかしさと不安で、とても歪な顔になっていたはずだ。  けれど、もう恐れることはなかった。 「ああ」  目の前には、鏡でも見ているかのように不格好な笑顔がそこにあったのだから。 *  父は、静かに車を走らせる。  長い帰り道は、またしても静寂に包まれていた。  だけど俺は知っていた。これは、嫌な静寂じゃない。  互いに話さずとも居心地の悪くない空間があることを、シレーヌが教えてくれていたから。  シレーヌ……  啖呵を切るように二人を海に置き去りにしたあの日を思い出す。  少しばかり、俺が子供だったのかもしれない。  サイレンを恐れる姿と神谷碧の名を拒否する姿勢。  今思えば、似たものを感じる。  もしかしたら、その態度にも何か理由があるのかもしれない。  明日、海に行こう。  もう一度彼女と話すべきだと、誰かに背中を押された気がした。 * 「凛久、少し待っていなさい」  無事家につくと、父はリビングで俺を待たせた。  少しの時間をおいて、一つのクリアファイルが眼前に突き出される。 「あいつのことを知りたいのだろう。恵子が助けた子たちから貰った手紙だ」  ファイルの中には、色鮮やかな封筒が溢れんばかりに入っていた。 「それと凛久、」  早速中身を取り出そうとしていた手を止め、父の言葉に耳を傾ける。  父は一呼吸置いて、言葉を続けた。 「碧さんの墓は近くに無いが、事故現場なら案内できる。覚悟ができたら言いなさい」  そう言い残した父は、俺を気を遣うようにリビングを後にした。  神谷碧の事故現場……  正直気になりはするが、今の自分には覚悟が足りない気がした。  いつか彼女の死をきちんと受け止められた時には、献花の花を持ってそこへ訪れたいと思う。    気を取り直した俺は、手元に残ったファイルから手紙を取り出した。数えると、3通ほどはあるだろうか。助けた子供とその友人たちからの手紙だと考えれば、ちょうどいい数になるだろう。俺は、その中でも一番に目を引いた青い封筒を手に取った。 『栄恵子さんへ』  子供らしい、勢いのある大きな文字で綴られている。  くるりと手紙をひっくり返せば、そこには差出人の名が書いてあった。 『上浜かおる』    そのとき、スマホの通知音が鳴った。  驚いた拍子に携帯を手に取ると、ロック中画面にメッセージが浮き出ていた。 『上浜薫:  凛久、久しぶり!   クラスグルから追加させてもらったんだけどさ、今日空いてるか?』  俺は驚きのままに、スマホのロックを解除した。
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