幕間 碧

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幕間 碧

 ※暴力的表現があります、ご注意ください。  朝は私に絶望をもたらす。  だって、もうどこにも逃げ場がないから。  甲高い音を立てて鳴り響く携帯のアラームが、私の頭に響き渡る。  カーテンの隙間から差し込む眩しい光が、ベッドに蹲る私を早く起きろと急かすようで。  重い頭を抱えながら、ゆっくりとベッドから足を降ろした。  幸せな眠りから解放されてしまった私にはもう、この現実を受け入れることしかできない。   —————————————————————   泡沫の人魚姫  幕間 碧 —————————————————————  焦げ付いたフライパンから、ジュージューとベーコンの焼ける音が聞こえる。  私は卵を2回、軽く調理台に打ち付けた。きれいにヒビの入ったそれをベーコンの横に作ったスペースに割り入れる。  朝食作りは私の仕事だ。慣れた手つきで支度をしていれば、階段の方からリズミカルな足音が聞こえてきた。 「碧、おはよう!」  リビングのドアを勢いよく開いた人物は、元気のいい挨拶をした。  寝ぐせがたっぷりついた頭を軽くかきむしりながら、屈託のない笑みを向けている。 「おはよう。お母さん」  私は母を一瞥すると、キッチンに目を戻した。 「何よ碧、昔はママって呼んでいたじゃない。寂しいわね」 「……そうね」  ぶつくさと文句を垂れながら、母はダイニングテーブルの椅子に座る。  私は焼き上がったベーコンと目玉焼きを母の目の前に差し出した。 「どうぞ」  母はテーブルの上に置いてあったパンにそれらをサンドすると、とても美味しそうに食事を頬張った。 「さすが碧、いつ食べてもおいしいわね!」 「……それはどうも」  私は、日々繰り返されるこの時間が嫌いだ。 *  朝食に、朝の支度を終えた私は、学校へ向かうために玄関で靴を履いていた。  正面横に位置するシューズラックの上には、写真立てが一つ飾ってある。  黒髪を肩より上で切り、白いワンピースを身にまとった少女が、写真の中からこちらを覗きこんでいた。  少女の表情はとても眩いほどに笑顔で、溌溂とした美しさを醸し出している。  やるせない気持ちを覚えた私は、その写真から目を逸らすように出発を急いだ。 「……行ってきます」  帽子を深くかぶり、重いカバンを背負い上げる。  私は逃げるようにしてこの家を出た。 * 「あ、神谷さん!!」  通学路を一人で歩いていると、後ろから声が掛かった。  振り返れば、高い位置で結んだポニーテールを揺らし、こちらへと駆けてくる少女の姿があった。  立ち止まった私に追いついた彼女は、息も切らさずに朝の挨拶をした。 「おはよう!」  彼女に倣うように、私も挨拶を返す。 「おはよう、結葵(ゆうき)さん」  爽やかな笑顔を浮かべている目の前の彼女は、私のクラスメイトだった。  転校してきたばかりの私にも気軽に話しかけてくれるような、優しい心の持ち主だ。少しばかり人との距離が近いが、不思議と嫌な気分にならない。人づきあいが苦手で臆病な私にとってありがたい存在だった。  彼女は私の返答に少しだけ顔をしかめると、唇をへの字に曲げてなんとも言えない表情をした。 「うーん、下の名前で呼ばれるのはちょっとな……」  何故だろう、とても素敵な名前なのに。純粋な疑問が湧いた。 「いやさ、『ゆうき』って男っぽい名前じゃん? 昔から勘違いされやすくてさ、こうして髪まで伸ばしてるってわけ」 「そう? 力がみなぎるような素敵な名前だと思うけれど」  ポニーテールを指でくるくる回し続ける彼女に対して、思ったことをそのまま伝えてみた。 「ええ……感性独特。神谷さんだってその名前、男でも違和感なさそうだしさ。分かってくれると思ったんだけどな」  うなだれたように横を歩く彼女は、全身でがっかりを体現している。 「そんなに嫌なの?」  私の質問を待ってましたと言わんばかりの勢いで、彼女はこちらへと顔を向けた。 「もちろん! なんならお兄の名前を貰いたかったもん!! うちの親、許すまじ……今度の買い物で高い服でも買ってもらうか」  ぷっくりと頬を膨らませる彼女の怒りは半分冗談でできているのだろう。彼女の会話の節々に感じられる家族仲の良さが、少しだけ羨ましく感じた。  しばらくの間、ぶつぶつと買い物計画を呟いていた彼女であったが、何かを思い立ったのだろうか。  嬉しそうに私の方を見ると、軽く両手を叩いた。 「そうだ! 名前ついでにさ、神谷さんのことも『みー』って呼んでいい?」 「みー?」  急な彼女の提案に、私は目を丸くする。どこから由来がきたのだろうか。 「そう! 神谷だから、かみーって思ったけどそのうち呼びづらくなりそうだから、みー!」  瞬間的に簡略化されたあだ名に、思わず吹き出してしまう。  それにしても、変なところから名前を取ってきたものだ。どうせなら下の名前から持ってくればいいのに。 「ふふっ、気に入ったわ。なら、私は貴方を何て呼べばいい?」  私の問いに対して、彼女は目を輝かせた。 「みんなに『ゆき』って呼ばれてるからそれで!」 「結葵とたいして変わらないじゃない……」 「いやいや、各段に女の子らしさが増したでしょ! とりあえず、ゆうきは禁止!」 「……ふっ、わかったわ。ゆき」 「あ、今馬鹿にしたでしょ!」  またしても頬を膨らませる彼女の姿に、私は何度も笑みをこぼした。  最近の昼間は本当に楽しい。私にとって、現実で唯一とも言える安らぎの時間だ。 * 「ただいま」  学校から帰宅した私は、靴をそろえて帽子を壁にかける。  母の靴はまだなかった。  母が居ないのをいいことに、私は自室へと向かった。  部屋のドアを閉めて、静かに鍵をかける。  鍵は十円玉があれば簡単に開けられるタイプの物だから、単なる気休めに過ぎない。それでも、安心感が違う。  私は部屋を見渡した。  視界に入るのは、私の好みとは違う、まるでどこかのお姫様みたいな白を基調とした西洋の家具ばかり。クローゼットには、たくさんの白いワンピースが掛かっている。  着ていたシャツを脱ぎ、スカートを床に落とす。  クローゼットから一着選び取ると、被るようにしてそれに着替えた。  母が帰宅するまでの数時間は自由だ。  私は、本棚に立てかけられた一冊の本を手に取った。  これは、小さい頃から読み続けていたお気に入りの物語。今でも心の支えになっている。  指先を使って丁寧に、パラリと音を立て、本のページをめくった。  私はその物語に浸るようにして、長い事読みふけっていた。 *  シャワーを早めに浴び、食事を丁度済ませた頃、玄関ドアがガチャンと開いた音がした。 「……帰ったわよ~」  抑揚のない掠れた声が、こちらの方まで聞こえてくる。  もう、そんな時間か。  急いで食器を片付け、自室に戻ろうとしたが、既にリビングには母が居た。  母の口が大きく開く。 「……アンタ、誰よ」  顔を真っ赤にして、ふらつきながらもこちらへと進む母の形相に思わず足がすくんだ。  目を逸らせないままでいる私の元に、母は一歩ずつ、確実に歩みを進めている。 「私の碧をどこにやった!!!!」  ドン、と勢いよく音を立て、後ろの食器棚に拳がぶつかった。棚の向こうでは、その振動からガチャガチャと食器のぶつかり合う音が聞こえてきた。物を使った威圧に、私の恐怖心が増す。  母と食器棚に挟まれるようにして動けないでいる私の両腕が、強い力で掴まれた。 「返せ!!!! 碧を返せ!!!!」  近距離で叫ばれる甲高い音が耳に響く。  両腕を揺さぶられるように動かされ、精神的にも肉体的にもきつい状況が続く。  痛い。  怖い。  悲しい。  間近にある母の顔は、怒りで歪みきっていた。  今日も、どこかで酒を飲んできたのだろう。数年前から母は変わってしまった。  毎日と言っても差し支えない頻度で、酒を浴びるように飲み続けている母は、父から貰った養育費のほとんどを酒代で失くしていた。  母の身に起きたことを考えれば、今の状態に至ってしまったのも仕方がない。  それに、この状態の母から、私が直接暴力を受けたわけでもない。  だから、助けを求めることなどできやしない。そもそも、助けを求める相手もいない。  私が諦めるしかない。  子供の私は、あまりに無力だ。 「おい!! 聞いてんのか!!」  激高した母は、私の髪を掴んで上へと持ち上げた。  地肌が突っ張り、強い痛みを感じる。  耳の横で叫ばれる言葉に、もはや形などない。伝わるのは激しい憎悪だけだった。  目をつぶってこの場をやり過ごすように、今日の出来事を思い浮かべた。  ゆきとの朝の会話  担任教師が語った思い出話  帰り道に咲いていた綺麗な花  お気に入りの本のストーリー  痛い  痛い    うるさい    嫌だ  パリンッ    何かが割れた音に、思わず目を開けた。  いつの間にか私から離れていた母は、割れた酒瓶を持ったその手をじっと見つめている。  母の足元を散らばる破片には、真っ赤な血が入り混じっていた。  手元に目を移せば、割れた瞬間の破片で切ったであろう傷跡から、たらりと血が流れている。 「ごめんね……ごめんね、碧……」  ガラス片を食い入るように見つめる母の目に、怒りの色はもうなかった。  両の瞳から涙を流し続ける母をよそに、私は棚から消毒液と絆創膏を取り出した。  手慣れた手つきで手当てを終えると、ようやく母は私の存在に気づいたようだった。 「あれ、碧……私、どうして」  私はいつも通り、母の背に手をまわす。 「大丈夫よ、お母さん。私が居るわ」  私の肩越しにすすり泣く母の様子を確認する。  今日はもう大丈夫だろう。  母が落ち着きを取り戻し、シャワーを浴びに行ったのを確認すると、私はガラス片を片付けた。  床には、新しい傷跡が増えていた。 *  時刻は既に夜の八時を回りきっていた。  私は自室へと戻ると、今日の出来事を日記に書き記した。  この小さなノートの中でなら、私の気持ちを素直に吐き出せるから。  これは、私の日課だった。  一通り日記を書き終えた私は、大きく伸びをして、それからベッドにダイブした。  やっと今日が終わる。  眠りは私にとっての救いだ。  嫌気のする現実から、私を解き放ってくれる。 「おやすみ、○○○」  夜の訪れを言い聞かせるように、私はゆっくりと意識を手放した。
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