第14話 邂逅

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第14話 邂逅

 瞬間、俺と彼女、互いの目がかち合った。  海のように深く青い瞳は、こちらを真っすぐに見据えていた。  何度も、何度も眺めてきた顔がそこにあった。  なぜ? どうして?  俺は、目の前の光景を疑った。  線路を挟んだ反対ホームの真向かいに佇んでいる少女は、  シレーヌと同じ姿をしていたんだ。 —————————————————————   泡沫の人魚姫  第14話 邂逅 —————————————————————  初めに感じたのは驚きだった。  無理もない、まるでドッペルゲンガーであるかのようにシレーヌと同じ容姿をしているのだ。異なるのは衣服ぐらいか。ホームの向こうにいる少女は青いリボンの目立つ、ブレザーの制服を身にまとっていた。  一体彼女は何者なのだろう。    そう考え出す前に、身体は動き出していた。  幸運なことに、この時間は通勤ラッシュも落ち着きを見せ、ホームは混雑していない。  俺は改札へと続く階段まで、人通りの少ないホームを駆け抜けた。 「まもなく、電車が参ります。黄色い点字ブロックの内側までお下がりください」  階段に足をかけた瞬間、電車の到来を知らせるアナウンスが鳴り響く。  確か、俺が乗る予定であった電車は、到着まであと5分ほど余裕があったはずだ。  つまり、向かいのホームに電車が来てしまうということだ。    間に合え。  間に合え。  苦し紛れに念を送りながら、向かいの階段を駆け下りた。  ガタンゴトン ガタンゴトン 「はあ……はあ……」  悔しいことに、息を切らす俺の目の前で電車は走り去ってしまった。  もちろん、ホームに彼女の姿は見つからない。 「……くっそ」    重要な手掛かりを逃してしまった悔いを胸に残しつつ、どうしようもない感情の高ぶりをため息に乗せた。 * 「つまりなんだ、シレーヌちゃんっぽい人を昼間に見たってことか?」  カランコロンとグラスに残った氷をストローでかき混ぜながら、上浜は目を見開いた。  夕焼け小焼けのチャイムが鳴る時間帯、俺たちは海辺のファミレスで時間を潰していた。  昨日に引き続き頭を悩ませていた俺の元に、部活の終わった上浜から呼び出しがあったのだ。  無視するという選択肢もあったが、今俺が知りうる情報を一人で抱えるのは、流石にしんどかった。  見つけてしまった小説の結末。  碧の事故現場とシレーヌが倒れた場所の一致。  シレーヌと同じ容姿をした少女の存在。    藁にもすがる思いで上浜の呼び出しに飛びついた結果、二人してドリンクバーを飲み漁っている。  順を追って上浜に説明をした後、最後に今朝の話をしたところだ。    俺は、店に対して申し訳程度に頼んだポテトを一本つまんで食べた。  あの少女は、本当にシレーヌだったのだろうか。  上浜の質問から逃げるように、曖昧に返事を返す。 「多分な」 「多分って……自分で見たんだろ? 自信持てよ」  不思議がる上浜の態度が少し、癇に障った。 「んなこと簡単に言うなよ。じゃあお前だったら、ありえない状況に直面したとき、自信をもって自分の目が正しいって言えるのかよ」  棘を含んだような自分の物言いにハッとして、前のめりになった体勢を戻す。 「……悪い」  カッとなると、すぐにぶつけてしまうのが自分の悪い癖だ。  自己嫌悪の感情が湧き出てくる。  前を見れば、上浜は何やら考え込んでいた。  俺の態度など気にも留めていない様子である。  そんなマイペースな彼の姿に、少しだけ心救われた。  顎に置いていた左手を離すと、上浜は小さな躊躇いを見せて、口を開いた。 「あのさ、凛久はシレーヌちゃんにどこまで話すつもりなんだ?」  そう、そこが一番の問題だ。  神谷碧の事故現場の話は完全にアウトだとして、小説のモデルだという可能性。そして、シレーヌにそっくりな人物が昼間に現れたという事実。  どこまでの情報が彼女に拒絶されるのかも分からない。  事実に直面したときの精神面も心配だ。倒れられても困る。  それに、目にしてしまった小説の結末が嫌な予感を加速させている。   「……ちゃんとした事実が分かるまで、シレーヌに話すつもりはない」  上浜は何か言いたそうな顔をしていたが、開いた口を再び閉じた。  少しの沈黙の後、上浜はぎこちなく笑った。 「そうか。なら、さっさと真実だけを見つけるとしようぜ! シレーヌちゃんも驚くだろうな」 「ああ」  飲みかけのアイスコーヒーを一気にあおった。  喉を通る液体は冷たくて、久々に苦さを感じた。 * 「またのご来店をお待ちしております」  頭を下げる店員に向かって、上浜は笑顔で「ごちそうさまでした!」と告げている。  夜の十時も過ぎ、海に向かうことにした俺たちは店を出ようとしていた。  支払いの様子を遠くから眺めていた俺は、会計が終わるのを確認して入り口ドアの方へ向き直った。  一般的なファミレスのドアは透明で中の様子が外からよく見えるような設計をしている。この店も例外ではなかった。つまり、内側からも外の様子がよく見えるのだ。  透明なドアの向こう、そこには裸足で虚ろに歩く、シレーヌの姿があった。 「上浜、あれ……」  俺の指さす方を見つめていた上浜も、同様に驚きを隠せないでいた。 「いや、でもシレーヌちゃんのことだから海から散歩してきたんじゃないのか」  我に返った上浜は、状況を冷静に分析した。確かに、それは一理ある。 「とにかく、本人に話を聞くぞ」  顔を見合わせた俺らは互いに走り出した。  幸いなことにシレーヌの進むペースは遅く、横断歩道の手前ですぐに追いつくことができた。 「シレーヌ!」  彼女の肩を掴む。  振り返った彼女は虚ろな目をしていた。と思ったのもつかの間、彼女の瞳は色づいた。 「……あら、凛久に浜っち? おはよう」  なんてことに無いように返す彼女はどこか異様で、俺は言葉を失った。  この感じ、前にも見たことがある。  人魚伝説を調べたあの日も、横断歩道に佇む彼女に遭遇した。  喧嘩別れの後、階段の上で佇む彼女を見たときもそうだった。  虚ろな姿で現れるものの、声をかけたとたん一気に意識を取り戻したように振る舞うのだ。  意識を取り戻す……?  あと少しで何かがつかめそうなのに、大事なピースが欠けているようなもどかしさを感じる。  黙って考える俺の姿が不審だったのか、頬を膨らませたシレーヌに横腹をつつかれた。 「ちょっと、何すんだよ!」 「何よ! 返事もしない凛久が悪いんじゃない! ほら、お・は・よ・う」  シレーヌのことで頭を悩ませているというのに、理不尽極まりない。  しかし、理由も弁明できない立場の俺は、彼女の指示に従うほかない。 「おはよう、シレーヌ」 「ええ、おはよう!」  彼女が、あまりにも無垢な笑顔で笑うものだから、俺もつられて笑うしかなかったんだ。 *  翌日の午後、俺と上浜の二人は、俺の最寄り駅のホームにいた。  もちろん、シレーヌ(仮)探しの為である。  生憎、部活に塾と二人そろって午前の予定があったため、昨日彼女を目撃した時刻には居合わせることができなかった。  しかし、朝に電車を使ったという事は帰りも駅を利用するはずだ。  あの少女は制服を着ていた。  ここらで青いリボンが目立つブレザーの制服と言ったら、俺たちの高校と反対に数駅先進んだ場所にある、私立女子中学の制服が有名らしい。  ちなみに、この情報は上浜発だ。女子の制服に詳しい理由は聞かなかったものの、少し引いた。  話を戻すが、この学校はそこそこな進学校で、夏休み中も夏期講習のカリキュラムが充実しているという。ジャージでなかったことを考えれば、部活でなく夏期講習に向かった線が高いと言えるだろう。時間割通りであれば下校の時間も終わり、この駅に着くころだ。  ちなみに、この情報も上浜発だ。  何故知っているのかを上浜は言いかけていたものの、全力で止めた。  友人が変態である決定的証拠など聞きたくもなかった。 「凛久、電車来るぞ! これが一番いい時間だと思うんだよな」  上浜が言葉にするや否や、電車の到着の音が聞こえる。 「ご乗車ありがとうございました」  来た!  車内アナウンスが鳴り響く中、昨日の少女の姿を血眼になって探す。 「制服の子、見つかったか?」 「いや……っ! いた!!」  昨日と同じ、黒いキャップ帽を深くかぶり、胸元に青いリボンを付けた制服姿の少女が居た。  俺は上浜の方を振り向くことも無く、すぐさま走り出した。    人が多い。電車を降りようとする人、乗ろうとする人、彼らの作り出す流れをかき分けて、少女の元へと進む。 「シレーヌ!!」  思わず彼女の名を呼んだ。  声に出すと同時に、彼女の腕を掴む。  掴んだ腕は、冷たくなんてなかった。  俺の声に反応した彼女が振り返る。  まるでスローモーションのようだった。  深くかぶった帽子の奥から除く双方の瞳は青く。  間近で見ても間違えようがないくらい、彼女はシレーヌそのものだったのに。 「ど……どちらさまですか?」  告げられた言葉には、困惑と恐怖の色が乗っていた。   「どちらさまって……あれ、シレーヌじゃな――」 「ちょっとアンタ! みーから離れなさいよ!」  横から割り込むように、彼女と同じ制服を着た、ポニーテールの少女が俺たちの間に入ってきた。 「ほら、その手を放して!!」 「あ……ごめんなさい」  少女に促されるまま、彼女を掴んでいた手を離す。  少女は彼女を庇うように仁王立ちとなり、大きな瞳を細めて、こちらを睨みつけていた。 「で、そこのアンタはこの子に何の用なの」  少女の怒りをにじませた声色には迫力があり、俺はたじろぎながらも弁解をした。 「ちょっと知り合いに似ていて――」 「それ、ナンパの常套句なの知ってるんだから! どうせ、この子が可愛いからって近づいたんでしょ! 残念でした! みーはあんたなんかに興味ないんだから! せっかく、みーの最寄り駅でだべろうと思ってたのに、こんな変なのに絡まれるし……最悪!!」  すごい勢いで誤解が加速している。    更に不幸なことに、少女の怒る姿を見たホームの人たちが、こちらに注目し始めた。  どうするべきだ?  そうだ、上浜!  あいつは何して……  上浜の存在を思い出したその時、後ろから足音が聞こえた。 「おい凛久、一体何の騒ぎ……って、結葵? なんでお前ここに」  遅れて駆けつけてきた上浜は、ポニーテールの少女を見つめて目を丸くしている。  それは、少女も同様だった。 「え、お兄? このナンパ男と知り合い? っていうか、ゆうきって呼ばれるの嫌って言ったじゃん!」  結葵と呼ばれた少女は頬を膨らませ、上浜をポカポカと叩いている。  呆然と二人のやり取りを見つめる俺に向かって、上浜は愛想笑いをした。 「まあ、なんだ。とりあえず場所移そうぜ」 *  上浜の誘導のもと、俺たちは駅近のコンビニ駐車場へと移動した。  現在は両陣営、互いに向き合う形をとっていた。 「で、お兄は駅のホームでなにしてたわけ? 何、ナンパ?」  ポニーテールの少女は相変わらず、臨戦体制を維持している。 「んなわけないだろ。それよりも、互いを知らないことには話し合いもできないだろ? 軽く自己紹介でもするか」  矛先を向けられた上浜であったが、少女の怒りを軽く流し、うまく話題を変えることに成功した。  少女は不服そうな顔を隠せずにはいたものの、なんとか納得してくれたようだった。 「そんじゃまずは俺だな。俺は上浜薫、そこにいる結葵の兄だ。そんでこいつは栄凛久。俺の友達」 「どうも」  軽く会釈をして二人に向き直る。シレーヌ似の彼女には、未だに不審な目で見られていた。  まあ、仕方ないか。  上浜がついでに紹介してくれたおかげで、自分から名乗る手間が省けただけでもよしとしよう。 「そんで、こいつが俺の妹の──」 「名前くらい自分で言うわよ!」  上浜の言葉を遮るように声を発した少女は、そのままぶっきらぼうに名乗り出した。 「私は上浜結葵。この人の妹」  睨みを利かせた顔で、上浜を指さす。 「そして、この子は友達の神谷──」  神谷?  その名を聞いた途端、思わず口からこぼれだしていた。 「神谷碧?」  あたりがしんと沈みかえる。  神谷と呼ばれた少女は、目を丸くしていた。 「はあ? みどりって誰よ。また人違い?」  空気を戻したのは上浜妹の一言だった。  確かに、神谷碧なわけがない。彼女は、既にこの世を去っている。  条件反射的にその名前を挙げてしまったが、余計な不信感を高めただけな気がする。  ほら、上浜妹の視線が痛い。 「この子はみどりじゃなくて、神谷(あおい)よ! 私はみーって呼んでるけど」  神谷青……  シレーヌの姿で碧と同じ苗字を持つこの少女。本当に、シレーヌとは何の関係も無いのだろうか。  聞きたいことは山ほどあるが、今聞くのは余計に怪しまれかねない。  ところで、「みー」の由来は何なのだろう。「あおい」とは一文字も被っていない。 「みーって、どっからとってきたんだよ」  俺の心を代弁するかのように、上浜が質問した。 「そんなのも分かんないの? 「かみや」の「みー」よ!」 「いや、謎すぎんだろ……」  上浜の意見はごもっともだ。  しかしこの二人を放っておくと、喧嘩になりかねないからいったん止めよう。 「あのさ、結葵さん?は――」 「ゆうきって呼ばれるのは嫌だから、呼ぶならゆきって呼んでください」  警戒が解かれてきたのか、上浜妹の俺への言葉遣いが敬語になった。  いや、寧ろ距離感ができた気がしなくもない。 「まだそんなこと言ってんのかよ」  火に油を注ぐように、呆れた声を上浜が出す。 「はあ? かおるなんて可愛い名前を貰ったお兄に、この気持ちは分からないでしょうね!」 「何言ってんだよ?」  結局、兄妹喧嘩が始まってしまった。  困惑の表情を浮かべる上浜に、デリカシーのカケラも無いと憤る上浜妹。  二人の言い合いはヒートアップしていくばかりで、残された二人は蚊帳の外だった。 「貴方も私に……ちゃんを重ねるのね……」  青と呼ばれた少女は、向こうで小さく何かを呟いていた。  風の音にかき消されて、大事な部分が上手く聞き取れない。 「……何か言ったか?」  恐る恐る尋ねた俺に気づいた彼女は、ちらりと俺を見て視線を逸らした。 「いえ、何でもないです」  無表情のまま、上浜兄妹の喧嘩を眺める彼女は、駐車場のアーチ型ポールの端に腰かけた。  収まる気配のない喧嘩に呆れつつ、俺も彼女の横に人ひとり分空けて座った。  しばらくは、兄妹の言い合う声だけが聞こえていた。 「あの……シレーヌって、小説の主人公の名前だったりしませんか」  隣で無言を貫いていた少女が口を開いた。  急な会話の始まりに驚きつつも、俺は言葉を返す。 「ああ、「泡沫の人魚姫」って本の主人公もその名前だよな。もしかして、知ってる?」 「ええ、もちろん! 貴方……凛久さんも、知ってるんですか?」  急に彼女の態度が変わった。  心なしか口角が上がり、目が輝き始めている。   「私、あの小説が好きなんです。特に、シレーヌの存在が好きだわ。何物にも縛られない自由な彼女は、美しくて。時折見せる大人びた姿も、彼女の優しさも。ああ、あのエピソードも好き。シレーヌが砂と海の境界線をなぞる様に歩いていたんだけれど、そこで……あ、ごめんなさい……」  好きなものを楽しそうに語る彼女は生き生きとしていて、楽しそうだった。  途中までは夢中になっていたようだが、横に座る俺の存在を思い出したのだろう。  彼女はハッとするように委縮して、しまいには口を閉ざしていた。  少しだけ、それが残念に思えた。  嬉しそうな笑顔を浮かべる青の姿は、いつものシレーヌによく似ていた。  同じ服を着て横に並んでいれば、判別すらつかないだろう。  そのせいか、もっとその姿を見ていたいと思った。 「謝る事じゃないし、続けてもらって構わない。寧ろ、俺が聞きたい」  その言葉を聞いた青は、花がほころぶような笑顔を見せた。 「! やっぱり凛久さんもこの本が大好きなのね!」  そうじゃないけど、否定もできない。  ここで「青さんの笑顔を見ていたいから」と気持ち悪すぎる理由を述べようものなら、上浜妹が飛んでくるわ、青にも怯えられるわで、想定する上で最悪な結末になりかねない。  俺は適当な相槌を打ちながら、彼女の話を聞き続けた。 * 「それで、後半に判明するのがシレーヌが『人魚』だという真実なのだけれど」  今さらっと重大な真相を知ってしまったのだが、十中八九俺が悪い。  それに、題名で盛大なネタバレをしているのだ。そこまでのダメージもない。  話を聞き続けているうちに、どうやら俺が未読の部分にまで突入したようだった。  しかしながら熱量の籠った目で見つめてくる彼女に、今更途中までしか読んでないなどと、どの口が言えようか。  そうこう考えている間にも、彼女の話は進む進む。 「作中の事故で亡くなったと思われていた姉が姿を変え、人魚として海の世界で生きていたというのがシレーヌの正体だったでしょう? シレーヌは人間だった時の妹と恋人の存在を思い出して戻ってこようとしたのに、その途中で海流に巻き込まれて全ての記憶を失うじゃない。けれど、彼女は悲しい形で記憶を思い出してしまうのよ」  そうこうしているうちにどんどんネタバレが加速していった。  彼女は一息ついて深刻そうに、更なるネタバレを呟くのだ。 「シレーヌの妹と恋人、彼らが結ばれて暮らしているのを発見してしまうの」  思いのほか、ドロドロとした話だった。反応に困った俺は、眉間に皺を寄せる。  彼女を失った者同士で慰めあった結果。なのかもしれないが、この話の何処に青は惹かれたのだろうか。  もしかして、昼ドラが好きとか?   まさかこの年で?  それに、シレーヌはこの光景にショックを受けて、海に消える選択肢を選んだのだろうか。  俺は、彼女の言葉を黙って待つ。 「けれどね」 「けれどシレーヌは、二人を見て安心したのよ。これで心残りが消えたって。私はもうお役御免だって」  青は、眉を下げて悲しそうに微笑んでいた。シレーヌに感情移入しているのだろうか。  確かに、作中の彼女は健気だった。マイペースな性格に見えて、本当は慈悲深い。 「だから、消えたのか」  思った以上に低い声が出た。  ハッピーエンドを望んでいただけあって、落胆の気持ちが声に乗ってしまったのだろうか。  青の方を見れば、彼女は首を横に振っていた。 「いいえ、シレーヌは消えてなんていない。あるべき場所に帰ったんです」  彼女の瞳はどこまでも真っすぐな思いを宿していた。  理解の及ばない俺に教えるように、青は説明を続ける。   「シレーヌは人魚になってしまったから。もう陸の世界に案ずることはないと思って、海に帰っただけ。本当は妹たちと居たかっただろうけれど、自分の存在の異質さを認めて、身を引いたんです」 「最後の一文は、多分比喩。……確か、最後の方にも海に帰るって書いてあったと思うけれど、まさか凛久さんが読んでないなんてこと……」  ハッとした青は、顔色を悪くした。  このままだと、彼女に無駄な罪悪感を与えてしまいかねない。 「いや、昔に読んだ本だから内容を忘れてしまって」    自然な笑顔を浮かべてはいるが、背中は冷や汗をかいていた。  夏だと言うのに、心なしか寒さを感じる。 「それなら、良かったです」  苦し紛れの言い訳が功を奏したようだった。  危ない。何とか危機を乗り越えることができた。  ほっと息をつく横で、青は再び微笑んだ。 「シレーヌは私にとって、憧れの象徴なんです。ずっと彼女やみたいに、自由で、優しい人になりたかった」  碧ちゃん?  それは、神谷碧のことを指しているのだろうか。  今の流れなら聞き出せる。  そう思った俺は、彼女へと体を寄せ、碧との関係性を聞き出そうとした。 「あの、碧って──」 「おーい!! こんなところで何してるのよー?」  意を決した俺の声は大きな音で塗りつぶされた。  声のする方へ視線を向ければ、四十代に見える女性がこちらに手を振っていた。  俺の知り合いではないから、彼女の知人だろうか。  女性は明るい雰囲気を身に纏い、遠くからこちらを呼んでいる。 「ねえ、みど──」 「お母さん!!!」  女性の声に意図的に被せるような大きな声が、彼女から発せられた。  この女性は、青の母親なのだろうか。  彼女本人が言うのだから間違いないのだろうが、それにしては違和感が強かった。海外の血が入っていそうな彼女の容姿と比べ、母親は美しいものの、日本人としての範疇を超えていない。  加えて、青が母親に向けるその目に、俺が父親に向けていたそれと似たものを感じたのだ。 「凛久さん、ごめんなさい。先に帰るので、ゆきたちにも伝えてもらっていいですか」  上浜たちがいた方を見れば、いつの間にやら消えていた。  仲直りをした結果、コンビニで妹にたかられているのだろうか。 「じゃあ、お願いしますね」  何かを押し殺したような表情で、彼女は微笑む。 「あ……ああ」  なんとも情けない返事を返した俺は、彼女たちの後姿を黙って見送る事しかできなかった。  自分の不甲斐なさに、小さくため息をつく。   「何ため息ついてんだよ、これでも食うか?」  急に目の前に差し出されたアイスに驚いて、身体がのけ反った。 「うおっ、ビビるなって。ビビった凛久にビビッて、アイス落としかけたじゃねぇか……ビビった」  上浜の声でビビるがゲシュタルト崩壊をしかける。  ……こいつ、そういうとこあるよな。  俺の予想通り、二人はコンビニで買い物をしていたようだ。  上浜妹の手には、上浜の物よりも高級そうなアイスが握られていた。 「それは知るか。自業自得だろ」 「うわぁ……そういうこと言うならアイスやらねぇぞ」  目の前のアイスをひっこめた上浜は、口をへの字に曲げてムカつく顔をしていた。  殴りたい、その顔面。 「お兄、ガキくさいよ」  俺の表情が崩れる前に、妹の制止が入った。  上浜は、悲しそうな顔で俺にアイスを手渡した。 「それで、みーは帰っちゃったんだ」  上浜妹は、つまらなそうにアイスを食べている。  俺が何も告げていないというのに状況を知っているという事は、先ほどのやり取りを見ていたのだろうか。  俺の疑問を解消するように、上浜が説明を補足する。 「実はコンビニ出るときに、ちょうど青ちゃんの後姿が見えたんだよ。それでさ、あの青ちゃんと一緒に帰っちゃった人……どっかで見たことある気がしたんだよな……」  女性はだいぶ遠くにいたが、上浜の位置からも顔が見えていたのだろうか。  俺も視力はいい方だと思うが、上浜は……確かに良さそうだな。勝手なイメージではあるが。 「ううーん」  頭を抱えて唸る上浜を放置して、その日は解散となった。  上浜、必死の説得の結果、上浜妹の誤解も解けたらしく、寧ろ青のそっくりさんに興味を持たれたらしい。  流石に、中学生を夜中に連れ出すのは危ないからと却下した。  俺と上浜は、いったん自宅へと戻り、今日も海に行くことを決めた。 *  今日は月が見えない夜だった。  空は雲で覆われて、どんよりとした空気が充満している。  心なしか海の青も、いつも以上に暗く感じた。 「おはよう、シレーヌ」  いつも通り、シレーヌに声をかけたはいいが、今日の彼女の様子はおかしかった。 「どうしたんだ、シレーヌちゃん」  様子のおかしいシレーヌに、上浜も駆け寄った。 「……」  口をつぐんだシレーヌの顔色は悪く、彼女が倒れたときの姿が頭をよぎる。  不安になった俺は、彼女の名を叫ぼうとした。 「シレ──」 「ねえ」  俺の言葉が遮られる。  淀んだ空、暗い海、それでも彼女の瞳の青だけは、深く輝いたままだった。  シレーヌは感情の読めない声色で、小さく言葉を紡ぎだす。 「神谷青って知ってるかしら?」  シレーヌは、眉を下げて微笑んだ。      
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