第15話 真実

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第15話 真実

 口をつぐんだシレーヌの顔色は悪く、彼女が倒れたときの姿が頭をよぎる。  不安になった俺は、彼女の名を叫ぼうとした。 「シレ──」 「ねえ」  透き通った声に言葉が遮られる。  淀んだ空、暗い海、それでも彼女の瞳の青だけは、深く輝いたままだった。  シレーヌは感情の読めない声色で、小さく言葉を紡ぎだす。 「神谷青って知ってるかしら?」  シレーヌは、眉を下げて微笑んだ。 —————————————————————   泡沫の人魚姫  第15話 真実 —————————————————————    彼女の口から出たその名前に、強い衝撃を受ける。  俺と上浜の二人は顔を見合わせた。  知ってるも何も、先ほどまで会話を交わしていた人物だ。  青とシレーヌの容姿が瓜二つであることから、何らかの関連があると予測こそしていたものの、青自身は実在するシレーヌの存在を知らないようだった。  しかしシレーヌがその名を口にするのであれば、彼女と面識があるということか?  いや、一方的に知っているのだろう。だとしたら何故。    考えてを巡らせてはみたが、真実を知るには本人の言葉を聞くのが一番いい。  俺たちが言葉の続き待ちであるのを察したのか、シレーヌは小さく音をこぼす。 「神谷青の話の前に、聞いて欲しいことがあるのだけれど」  俺たちは、無言で頷いた。  意を決した様子のシレーヌは  俺たちの目を見て  深く息を吸って  それから吐き出した。  不安を失くすおまじない。  昔、シレーヌが教えてくれたものだった。  その手順を踏んで少しばかり表情の和らいだ彼女は、ゆっくりと語り出す。 「……最近、海以外の場所で目が覚めるの」 「以前、凛久には記憶の境界について話をしたわよね。ずっと夜の記憶しか無いのだけれど、突然天気や景色が変わっていることがある。きっと前日の夜の終わりから翌日の夜の始まりへの境界部分。天気が変わるのは仕方がないわ。けれど」 「何故、ずっと疑問だった」  確かに違和感を感じた。  それは、即ち。記憶のない間にも彼女は…… 「きっとそれは、知らぬ間に私が『移動している』ということよね。それを踏まえて聞いて欲しいの」  俺は黙って息をのむ。 「今までは、移動と言っても砂浜のどこかだった。けれど、最近になって変わってしまったわ。初めは凛久と再会した日。海へと続く階段の上で気がついた」  これは、喧嘩後初めてシレーヌにあった日のことだろう。  あの日見たシレーヌの表情はぼんやりとしていたが、声をかけた直後に表情に活気を取り戻していた。 「次に、人魚伝説を調べた日。海近くの横断歩道で目が覚めたわ」  あの日もそうだった。いささか彼女の様子がおかしかったものの、聞き出す前に流されてしまった。 「それから、昨日。横断歩道手前の道で、凛久たちの声を聞いて気がついた」  確かに俺たちは、横断歩道の手前で彼女に接触した。しかしシレーヌの存在に気が付いたのは、横断歩道から何十メートルも離れたファミレスにいた時点だ。  つまり、意識を取り戻す前にも彼女の肉体は存在していたという事か。  朝になるとシレーヌは、この世界から姿を消す。ずっとそう思っていた。  しかし、肉体が消えているわけではないのか?  だとすると、考えうる可能性が増えてくる。  その可能性をはじき出す前に、シレーヌが口を開いた。 「気がついたと思うけれど、意識が戻る位置が徐々に海から遠のいているのよ。段々と、意識のある時間が伸びている。私は、ずっと海に居たわけではなかったんだわ。夜になると、どこからか海へ足を運んでいたのかもしれない。私は、日に日にその出発点に近づいているのだと感じたわ」 「それで、今日もまた別の場所で目が覚めた。とても驚いたの」  自嘲気味に、彼女は力なく笑った。 「見知らぬ部屋だった。まるでお姫様の為にあつらえたような、白を基調とした美しい部屋よ」  部屋。  そこで思考が一度固まる。  今まで彼女が意識を取り戻していたのは、道路や海などの公共のスペースだった。  それがいきなり個人の空間で目を覚ましたとなる。そうなると、彼女はその部屋にどう侵入したのか。  突然そこに現れた?  今までの話の流れからすると、違和感しかない。  もっと現実的に考えれば、シレーヌ自身がその部屋の持ち主か、持ち主に近しい存在である可能性が高い。  真実が音を立てて迫ってくる。  自分の鼓動が酷く大きく聞こえた。  シレーヌも、俺と同じ驚きと困惑の表情をしているように見えた。 「きっと私はここから海に向かっていたのよ。そうなるとこの部屋は、私の正体に関して何かしらのヒントがあるに違いない、そう思ったわ。とにかく情報を得ようと、部屋の中を見て回ったの」 「クローゼットには私が身に着けているものと同じ、白いワンピースがたくさんあった。それから、戸棚に飾られた小説。たしか、『泡沫の人魚姫』という題名のものね。適当に捲ったページには、私の名前があったわ。驚いてしまって、それ以上は見ていないけれど」 「何かがおかしいこと、それから、この先何かが変わってしまう予感だけはあったわ。部屋をくまなく探せば、私の正体が分かるかもしれない。けれど、自分一人で真実を知るのは恐かった」 「……そのとき、机の上の、一冊の分厚い本が目に留まったの」 「最初の一ページをめくって分かったわ。日記だった。きっと、部屋の持ち主の」 「日記の持ち主と私には、深いかかわりがあるはず。私はその一冊を持ち出して、部屋を出たわ。目の前には玄関があって、そのまま外へ行くことができた」 「建物を出たら、遠くに海が見えたの」 「思わず走ったわ」 「その先に、海へと続く階段の手前の横断歩道を見つけた」 「降りた先には、貴方たちが居た」  シレーヌは、涙ぐむようにして微笑んだ。 「……安心したのよ」  そう告げた彼女の体は、微かに震えていた。 「それと同時に恐くなったの。ずっと、自分の正体を知りたいと願っていたはずなのに、この日記を持ち出してしまったのを後悔している私が居る。貴方たちを見て、変わりたくないと思ったの」 「もちろん、日記や部屋は私になんの関係も無いのかもしれない。けれど、どうしようもなく恐い。何かが変わってしまえば、私の居場所はどうなるのか、貴方たちとの時間がどうなるのか」  シレーヌはぐっと唇に力を入れて、か細く声を漏らす。 「こわい……」  シレーヌの表情は、今にも崩れてしまいそうだった。  何かを堪えるように、口の端を引き上げて作った笑顔はぎこちない。  初めて、シレーヌの心の内を聞けた気がした。  いつもの姿からは想像もつかない彼女の本音は、あまりにも人間らしかった。  人魚でも幽霊でもない、シレーヌ自身の助けになりたい。今はただ、強くそう願う。 「シレーヌは、どうしたい?」  だからこそ、彼女の望みを知りたかった。 「どうしたいって、どういうことかしら……?」  困惑を映す彼女の瞳を見つめる。 「俺たちは、今までシレーヌの正体を探ってきたけどさ。シレーヌが嫌なら、これ以上はもう止めよう。なんもなかったことにして、いつも通りに夜を過ごそう。別に、目の前の真実を知ることが、必ずしも正しいとは限らない。その日記だって見ずに、家のポストにでも入れてしまえばいいんだ」  これは、紛れもない本心だった。  今までのことだって、全てシレーヌの為にやってきたことだ。いくら目の前に真実が転がっていようと、一番大切なのはシレーヌ自身の気持ちである。 「そうだ、別に真実なんて知らなくても何も困りゃしないだろ!」  俺の言葉に上浜も続く。  彼女は動揺したように瞳を揺らすと、涙を堪えるようにして笑った。 「ありがとう、二人とも。とても魅力的な提案ね」  シレーヌの自然な微笑みに、大きく安堵する。 「けれど、ダメよ」 「なんで!」  彼女の言葉に反応するように、口調が強くなってしまった。  シレーヌはまたしても眉を下げて笑った。 「きっともう、変わり始めてるのよ。そのままでなんていられない。今日は一人だったからよかったものの、あの家で誰かに出くわしてしまっていたら……どうなっていたかわからないわ。相手が私を知っている保証も無い」  彼女の気持ちばかりに目がいって、先を考えきれていなかった自分の安直さに恥ずかしさを覚える。 「だから、知らなくちゃ」  シレーヌは前を向き直して、両手を上に掲げた。  彼女の表情に、もう翳りは無い。 「もう、こわくない」 「私には、こんなに親身になってくれる二人の仲間がいるのだもの! 凛久、浜っち! そうでしょう?」  から元気にも思えた彼女の言葉は、紛れもない本心なのだろう。  俺たち二人がいるからこわくない、彼女はそう言ったのだ。  俺も、期待に応えたかった。  たとえ事実が判明しようと、俺たちが変わらなければいい。それだけの話だ。 * 「これがその日記よ」  目の前に差し出された日記は、確かに分厚くて年季があった。  裏表を反転させれば、右の隅に黒いマジックで小さく名前が書かれている。 「それで、最初に話したことを覚えているかしら。この日記の持ち主は『神谷青』という名前の子なのよ」  カチリと、足りなかったパズルのピースがハマった気がした。  もしかして、シレーヌは…… 「凛久、浜っち、覚悟はいいかしら? めくるわよ?」  そうだ、今はこっちが先だ。  三人で膝をつき、砂浜に広げたノートにスマホのライトを当てる。  1ページ目を広げれば、子供らしい字で書かれた拙い文章が目に入った。 『20XX/10/10  今日はお父さんに日記をもらいました。  毎日はむずかしいけれど、できるだけがんばります。』  およそ6年前の日付だった。  俺が小学校4年生の頃だろうから、青もそのくらいだろうか。 『12/13  本屋にすてきな本が売っていました。  みどりちゃんとお金を出し合って、いっしょに買いました。  私は妹だから、みどりちゃんが少しだけ多く出してくれました。  ラッキーです。』  日記の中に出てきた『みどりちゃん』の存在。これはやはり、神谷碧のことだろうか。もしそれが事実だとすれば、青は碧の妹だということか。  シレーヌの方を見れば、唇を青くさせていた。 「シレーヌ……」  心配から声をかけるが、彼女は首を振った。 「大丈夫よ。まだ、大丈夫だから」  シレーヌの様子を確認しつつ、再び日記に目を落とした。 『12/27  みどりちゃんが、本の主人公のマネをしだしました。  きおくのもどったシレーヌが、パパママよびをしていたから、みどりちゃんもよびかたを変えていました。  私にも、シレーヌのマネで話しかけてくるけど、全然似ていません。  性格だけは、似てるかもだけど。』 『1/5  おばあちゃんに、青はお父さんに、にているねと言われました。  みどりちゃんはお母さんにらしいです。  私もみどりちゃんたちみたいな、かみの色がよかった。』 『2/4  みどりちゃんが、お年玉で白いワンピースを買いました。  シレーヌと同じ服です。  少しだけうらやましかったけど、私にはそんなかわいい服はに合わないので、やめました。』 『3/15  今日は、クラスの男子に馬鹿にされました。  私のかみと目の色がおかしいって言われました。  ガイジンは悪い人らしいです。自分のこともだけど、お父さんを悪く言われて悲しいです。』 『3/17  最近クラスのみんながよそよそしくなりました。  一緒に話していた友達も、私をさけているきがします。  帰り道に見つけたみどりちゃんは、私とちがって友達にかこまれて笑っていました。  みどりちゃんがうらやましい。』 『3/30  春休み、外に出なかった私を見て、みどりちゃんがふしぎがっていました。  イライラしたので、クラスのことを話して、泣いちゃいました。  みどりちゃんは、私に不安を失くすおまじないをしてくれました。  全部は消えなかったけれど、ひさしぶりに安心できました。  みどりちゃんは、シレーヌみたいでした。』 『4/5  クラスでガイジンとばかにされているところに、みどりちゃんがやってきました。  みどりちゃんは男子に面と向かうと、強く言い負かしました。  男子たちは、私にごめんなさいと言いました。  やっぱりみどりちゃんはかっこいいです。シレーヌとはちょっとちがうけど。』 『5/8  みどりちゃんがいないときに、こっそりとワンピースを借りました。  かがみを見たけど、やっぱり私にはにあいません。』 『6/16  今日も泡沫の人魚姫(漢字あってるかな?)を読みました。  やっぱりシレーヌはすてきです。  私も、みどりちゃんやシレーヌのように自由でやさしい人になりたいです。』 『6/23  シレーヌごっこをしていたみどりちゃんに、青はシレーヌとしゃべり方がにているねと言われました。  とっても嬉しかったです。』 『7/4  お父さんの国の歌を教えてもらいました。  お別れのときに歌う歌らしいです。  悲しいけれど、きれいな歌でした。』 『8/20  今日からはおばあちゃん家に行きます。  海が見える場所なので、私もみどりちゃんもワクワクしています。  みどりちゃんは、シレーヌごっこをするきマンマンのようです。』 『8/23  みどりちゃんは、夕方どこかに遊びに行ってしまいます。  昼は私と一緒に遊んでくれるけど、すこしさびしいです。  もっと面白いものを見つければ、私もつれてってくれるかもしれません。』 『8/28  みどりちゃんが死んだ  ごめんなさい、私のせいです』  神谷碧が亡くなった日だ。  日付まで一致しているということは、間違いない。  ここに出てくるみどりちゃんは神谷碧のことだろう。  だとすれば、青は碧の妹であることも間違いない。  このページはしわくちゃになっていた。  まるで水分を吸った紙が乾いた後のようにひん曲がっている。  よく目を凝らせば、鉛筆で書かれた文字も小さくにじんでいた。 「み……どり……ちゃん?」  シレーヌの方を向けば、頭を押さえて蹲っている。 「シレーヌ!!」  あの日、公園で見たのと似た状態だ。かろうじて意識はあるのだろう、目を強く閉じ、歯を食いしばっている。呼びかけに反応しないシレーヌの肩を、俺は強く掴んだ。  鼻先が触れ合うほどの距離で、もう一度彼女の名を呼ぶ。 「シレーヌ!!!」 「……凛久」  焦点を合わせようと、虚ろな目でシレーヌがこちらを向いた。  ひとまず、安心した。  しかし、これ以上は彼女の心がもたない。  俺は日記に手をかけ、ページを閉じようとした。が、か細く白い手がそれを阻んでいた。 「シレーヌ、なんで……」  彼女は額に汗を流しながら、俺の手を掴む。 「もう少し……もう少し耐えれば、全てが分かりそうなのよ」 「それでもっ……」  無理に笑う彼女は、既に限界を通り越しているようにも見えた。 「凛久、お願い」  シレーヌの頼みを聞きたいのは山々だが、本人に倒れられたら元も子もない。  返事ができずに黙り込んでいると、上浜が助け舟をよこした。 「じゃあさ、万が一シレーヌちゃんの状態が危なくなったら、俺たちが病院に連れていく。それが嫌ならシレーヌちゃんはここでやめてくれ」 「……わかった、それで構わないわ」 「だってさ、凛久。これなら心配ないだろ」  上浜が、こちらに視線を送る。  心配ないと言えば噓になるが、その条件があるならまだマシだ。 「ああ、続きを読もう」  再び視線を預けた日記には、碧の死後の話が綴られていた。 『8/30  ごめんなさい  ごめんなさい  あやまっても、みどりちゃんは帰ってこないってお母さんに言われたけど。  ごめんなさい』 『9/2  学校はお休みして、みどりちゃんのおそう式をした。  みどりちゃんの顔はなにかでかくされていて、見えなかった。  頭から落ちたからこうなったんだって。  みどりちゃんに会いたい。』 『9/5  今日もお父さんとお母さんはけんかをしている。  リビングからすごい音がいっぱい聞こえる。  自分の部屋にいたけれど、こわかった。  みどりちゃん助けて。』 『1/23  お父さんが家を出るらしい。  私はお母さんとこの家に残る。  お父さんは私を抱きしめて泣いていた。』 『6/5  お父さんのいない生活も、もう慣れた。  お母さんと二人だけど、なんとかやっていけそうだ。  よかった。』 『11/19  お父さんと久しぶりに会った。  やっとお母さんから許しが出たんだって。  プレゼントに黒いキャップ帽をもらった。  私が髪の色を気にしてたのを覚えてくれたらしい。  嬉しかった。』 『7/1  お母さんの方のおばあちゃんが、病気になってしまったらしい。  不安そうなお母さんの背中をさすって夜を明かした。』 『3/18  おばあちゃんの状態はどんどん悪くなっている。  それと同時に、お母さんはお酒をよく飲むようになった。  たまに、お母さんが知らない人に見える。こわい。』 『5/4  おばあちゃんが亡くなった。  お母さんはどんどんお酒にはまっていった。  夜中トイレに起きたとき、碧……と呟いているお母さんの姿を見た。  少しだけ、それが不気味に思えた。』 『7/27  お母さんが、私の部屋を模様替えしようと言い出した。  ほら、白いレースとか好きだったじゃない?と言ってくるけれど、それを言ったのは私じゃない。  否定しようとしたら、強く睨まれた。』 『11/30  最近、お母さんが私のことを碧と呼ぶ。  青だよと訂正すると、お母さんは泣き始めた。  私が碧ちゃんの名前を受け入れると、お母さんは笑顔になった。  もしかしたら、神様が私に罰を与えたのかもしれない。』 『5/21  お母さんは夕方ごろになると、お酒を飲みに行くようになった。  毎日夜になると私を見て、碧ちゃんを返せと叫び出す。  ごめんなさい  ごめんなさい  全て私のせいです。』 『9/14  今日もお気に入りの小説を読む。  自由なシレーヌに憧れを重ねる。  私も、彼女のようになりたかった。  碧ちゃんのようになりたかった。  ごめんなさい』 『3/8  昼間、お母さんにこの家を売り払うと聞いた。  お金が無くなったと言っていたけれど、お父さんから貰ったお金全部をお母さんがお酒に使ってしまっているのを知っている。  4月からは、おばあちゃんが住んでいた家に行くらしい。  あそこは碧ちゃんを失った場所だ。  どうしても、あの公園を思い出してしまう。  お母さんも、大丈夫なのだろうか。』 『4/15  久しぶりにお父さんに会いたいと言ったら、お母さんにビンタされた。  頬がとても痛かった。  変なことを言ってごめんなさい。』 『5/17  どんどんお母さんがおかしくなってる気がする。  ごみ箱に捨てられてたお父さんからの手紙と、お酒の領収書。税務署からも手紙が来ていたみたいだ。  最近は、どんどんお母さんの機嫌も悪くなっていく。  昨日は酒瓶を床に叩き落として割っていた。  近所からは騒音の苦情が来るけれど、私にどうしろというのだろう。  碧ちゃんはもういないのに。助けなんてないのだから、諦めるしかない。』 『6/3  制服を残して、私の服が全て捨てられていた。  代わりに入っていたのは全て同じデザインの白いワンピース。  碧はこういうのが好きでしょうって、お母さんは笑ってた。  私は黙って頷いた。』 『7/1  最近は我慢してばかりだ。  夜はお母さんが騒ぐから、なるべく早く自室に逃げて布団をかぶる。  自室に居ても来るときは来るけれど、だいぶマシだ。  早くこの家から逃げ出したい。  自由になりたい。  時間ができたときは、小説を読んで心を落ち着かせる。  これだけが、私の救いだ。』 『7/9  朝起きたら、身体が少しべたついていた。  足の裏もひりひりする。  違和感を感じてシャワーを浴びた。』 『7/18  酔ったお母さんが事故を起こしたらしい。  幸い怪我人はお母さん以外に出なかったけれど、本人は足を怪我して入院したみたいだ。  数日は病院で面倒を見なきゃいけないのだろう。  酒を飲まないのなら、まだマシかもしれない。』 「これ……」  上浜が声を出した。   「そうだ……昨日見た青ちゃんのお母さんが、あの酔っ払いだよ! 俺が凛久を海で見つけた日の!」  シレーヌが公園で倒れたあの日、サイレンの音が鳴り響いていた。  後日図書室にて、原因が酔っ払いの起こした事故だと知ったが、そういえば上浜は野次馬をしていた。  ……酔っ払いが青の母だったというのか。  その事故から数日間、シレーヌは海に姿を現さなかったが、青が母親の面倒を見るために、病院に居たのだとすればどうだ?  それもこれも、    とすれば、辻褄が合うのだ。  シレーヌは、日記を見て何か思い出しただろうか。  期待と共に振り返れば、無言で涙を流す彼女が目に入った。 「あれ、どうして……待って」  自分のことなのに、まるで他人事のように驚いた反応を見せた彼女は、不思議そうに涙をぬぐっていた。 「……大丈夫、なのか?」  突然の涙に戸惑っている男二人を諭すように、シレーヌは優しく微笑んだ。 「ええ、もう平気。断片的だけれど、彼女の記憶が流れ込んできたの」 「青が碧と過ごした日々の憧れと喜び」 「碧を失ってからの後悔と絶望の日々」 「それに今、彼女の心を占める、諦めと苦しみの感情も」 「すべて、日記の内容と一致していたわ。ということはつまり、」 「つまり?」  ひとり首をかしげる上浜を見て、シレーヌは穏やかに微笑んだ。 「私は、神谷青の別人格じゃないのかしら」  しんと、あたりが静まり返る。  確かに、シレーヌは青なのだろう。  容姿の一致に加えて、記憶までもを共有した。  青とシレーヌが互いを認識していなかったことを踏まえて考えられるのは、彼女の言う通り  二重人格という可能性だ。  なんともドラマのような話であるが、幼少期のトラウマや防衛機制の一種として生まれる事例も多くある。  解離性同一症。  無意識に外を歩き回っていたのだから、夢遊病との併発かもしれない。高校生の知識から推測できるのは、こんなところだろう。  それにしても驚いたのは、シレーヌが冷静だったことだ。  自己の存在が揺らぐこの状況で、いつもの彼女に戻っていた。 「不思議ね……もっと、不安になると思っていたわ。けれど、どこかすがすがしいの」  シレーヌが言葉を口にした瞬間、淀んだ雲の隙間から月が顔を出した。  月の光に照らされた彼女は、まるで物語の中から飛び出してきたかのように幻想的に見えた。 「きっと私は、青を助けるために生まれてきたんだわ」  風に揺られて微笑むシレーヌの瞳は、眩いほどの輝きを持っていた。   「青の苦しみを知って、彼女を助けたいと思ったの。もちろん二人とも、協力してくれるわよね?」  当然でしょう?と笑い、自由な振る舞いをする彼女。  優しく、ただ慈しむように青を助けたいと願っていた。  日記の中で垣間見える、青の憧れをそのまま形としたシレーヌの姿に、眩しさを覚えた。 「もちろん」 「ああ!」  俺たちは大きく返事を返す。  その声量とは裏腹に、小さな不安がよぎる。  青が無意識に発したSOSでシレーヌが生まれたとして、青が助かってしまったその先に、果たしてシレーヌは存在できるのだろうか。  お役御免などと言って、消えないでほしい。  胸をかすめた恐怖には、気づかないふりをした。 *  時刻は深夜の二時を過ぎた頃。  未だに俺たちは海に居た。  真にシレーヌが青であるのかどうか。それを確かめるためだけに彼女の動向をみはり続けていたのだ。  全員が話し疲れて一息ついたころ、突然シレーヌが立ち上がった。 「シレーヌ?」  声をかけるも返事はない。  虚ろな目をしたシレーヌは、そのまま階段へと向かっていった。  すぐさま俺たちは後を追う。  シレーヌは危なげも無く階段を上りきると、横断歩道を渡り、住宅街を突き進んだ。  数十メートル進んだ先で、彼女はぴたりと立ち止まる。  ある一軒家を目に留めると、シレーヌは一歩踏み出して、迷わず玄関ドアを開いた。    バタンッ  彼女はあっけなく、扉のその先へと消えていった。  表札を確かめれば、『神谷』と書いてある。 「やっぱり、そうだったんだな」  力の抜けた表情で、上浜は表札を見つめていた。 「あまりにもぶっ飛んだ話でさ、いまいち信じ切れていなかったけど。シレーヌちゃんは、本当に青ちゃんなんだな」 「ああ」  ずっと求めていた真実を目の当たりにして、俺は不思議な心持ちでいた。  あっけないような、やっと進めたような。  けれど、嬉しさは感じない。 「まあ、ここからが頑張りどころなんだけどな。青ちゃんを助けるには、まずは本人の意思を確認しないと」  上浜の言うことはごもっともだった。  青が受けているのは立派な虐待であった。  虐待はなにも、肉体だけにとどまらない。  精神的な苦しみを与えるような人格否定、恐怖を与える威圧行為、それらにも当てはまる。  しかし、虐待を訴えるのには、被害者の意思が不可欠である。  助けるにしても、青の協力無しでは証拠集めや通報ができない。  青自身が自らの境遇を諦めている節があるのは気がかりだが、話せばわかってくれるだろう。  そう安易な考えをしたのが、間違えだったんだ。 * 「放して! これ以上、ひとの事情に突っ込まないでください!!」  真昼間の道路の真ん中で、掴んだその手を振り払われた。  大人しい彼女らしからぬ拒絶の姿勢に、俺は大きく狼狽える。  涙目の青は、こちらを睨みつけていた。 「ハッキリ言って、迷惑だわ」  お前には、分からない。    明確な拒絶を突き付けられた俺は、黙って彼女を見つめていた。    
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