第5話 引き金

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第5話 引き金

 "シレーヌ(SIRENE):人魚" 「フランス語で、人魚の意……」  俺は、驚きながらも腑に落ちた。  月光に輝く白い肌、真夜中の海を飲み込んだかのような深く青い瞳。おとぎ話から抜け出したかのように幻想的な姿。  幽霊だなんだという話の後だからなのか?  流石の俺も、毒されてきたのかもしれない。  俺は、彼女の正体が人魚であったとしても今更驚けなくなっている。 —————————————————————   泡沫の人魚姫  第5話 引き金 ————————————————————— 「それで、今度は人魚とでも言うのかしら?」  昨日の台風も過ぎ去り、瞬く星がよく見える空の下、俺たちはいつもの海を歩いていた。  昨日、家で見つけた人魚という文字にシレーヌの語源。それらを話したのち、軽い調子で聞いてみたんだ。  シレーヌは鳩が豆鉄砲を食らったようにキョトンとした表情でいたが、俺だって100%信じている訳では無い。せいぜい0.8%くらいだ。  ……つまり、ダメ元だった。  予想通り、人魚の線は薄いらしい。彼女の様子を見る限り、そういった自覚も無さそうだ。  そうなると、残念になってくるのが「手がかり」についてだ。また、無しに逆戻りか。  世の中そんなもんだよな……と諦めの気持ちで息をつき、砂浜へと打ちつける白い波を蹴った。  勢いよく蹴り上げられた波は、裂かれて散って、飛沫となる。そして数秒後、俺は後悔した。  くっそ……  飛沫の一部が、俺への仕返しとばかりに降りかかってきたのだ。腹のあたりがぐしょぐしょで気持ち悪い。 「うっわ、すっげぇ濡れた……」 「人魚……人魚ね……うん」 Tシャツの裾を絞り、波への悪態をつく俺をよそに、シレーヌは未だに何かを呟いていた。  彼女の様子が何かおかしい。  そういえば、幽霊かと尋ねたときには端から笑って否定していたよな?  あの時とは、リアクションもだいぶ違って見える。 「どうかしたか?」  不思議に思った俺が声をかけるも、返事はない。  仕方がない……  気長に待ってみるかと、案外癖になってしまった波蹴りを再開しようとしたその時、やっとのことでシレーヌが声を発した。 「私……人魚なのかもしれないわ……」  確かに尋ねたのは俺であるが、いざ本人の口から聞くと、違和感がぬぐえない。  なんていうか、これがドラマのワンシーンであれば、探偵によって衝撃の内容が判明した!というよりか、脇役の刑事が的外れな推理をしてしまった……みたいなイメージ。  とどのつまり、緊張感がないのだ。  その様子を見て、改めて思った。昨日の俺はきっと疲れていたんだと思う。  流石にないだろ、人魚とか。え、ないよな?そんなこと。  自分の力を持て余してしまった強者のごとく、手をわなわなと震えさせている彼女が、少しばかり滑稽に思えてきた。  しかし、この茶番を始めてしまったのは俺だ。仕方がない、責任を持って話を聞くとしよう。 「へえ、なんか思い当たったとか?」  感情の乗らない俺の質問にも、待ってましたとばかりの勢いを見せた彼女は、自信のある声でこう答えた。 「勘よ」  だからその、謎の自信はどっから来るんだよ。  出会ってから今日までのことを思い返すと、彼女の価値観には謎の『なんとなく』や『勘』が多い気がした。そのフワフワした判断基準は、普段から論理的な思考を好む俺にとって、一番理解し難いものだ。  それでも本人が認めるのだから、もしかして、ひょっとしたら、案外存外人魚なのかもしれない。  推測の言葉が多いって? それくらい、否定の気持ちを込めているんだよ。 「……そこまでいうなら試してみれば?」 「何をする気?」 「……人魚テスト」 * 人魚テスト第一 『下半身を魚にしてみよう』 「はぁ!!!」  この人魚テストとかいう、いかにも頭の悪そうなテストを今から行っていく。 「ふんっ!!」  テストの内容は単純だ。俺たちの思う人魚っぽいことを詰め込んでみただけである。さっき3分くらいかけて出し合った。ちなみに、項目は3つだ。 「ふんんっ!!! う~~はぁ!!!」  さっきから聞こえてくるこの声は、シレーヌの力み声だ。なんとかして下半身を魚にしようとしている。もう10分が経つが、結果は出ない。なんだか可哀想になってきた。  気を取り直して、 人魚テスト第ニ 『海の仲間とおしゃべりしてみよう』 「ねえ、そこの貴方。元気にしてるかしら」 「ええ、そうなの? 貴方の持っているそれ、食料かしら? 素敵ね」 「少し見せて……あっ、待ってまだ行かないで! ああ……」  そう言って、小さなイソガニを巣穴へと見送ること3回。このテストにもバツを付けておこう。  さあ、次でしまいだ。 人魚テスト第三 『歌声で人間を魅了しよう』 「で、最後のテストなわけだけど……もうやめとくか?」 「いいえ、やるわよやる! やってやるわ!」  だんだんと彼女も意地になってきたようだった。ここまで来たら流石に諦めてほしいとも思うが、残念ながら彼女は逆境に燃え上がるタイプのようだ。  先ほどまでのテストで興奮気味になっていた彼女は、目をつぶり、大きく深呼吸をした。  瞬間、空気が変わる。  思わず俺は息をのみ、目の前の彼女に視線を向けた。そこには、別人のように微笑む彼女が居たんだ。  シレーヌの小さな口が微かに開かれる。  俺は呼吸を忘れ、始まりを待った。  ……最初は、ハミングのような歌だった。  波が揺れるのと同じくらいの心地よいスピードで、彼女の歌は紡がれていく。  徐々に聞こえてくる歌詞は外国のものだろうか、少なくとも日本語や英語ではなかった。単語の意味は分からないものの、彼女の表情が感情を物語っていた。  優しく、切ない。そんな歌だった。まるで誰かへと宛てた手紙であるかのように、思いのこもった歌だった。  その歌声に耳を奪われ、しばし空想に耽っていると、正面から肩を叩かれたのだ。 「どうだったかしら、合格?」  いつの間にか歌は終わっていたようだった。現実に引き戻された俺は、改めて彼女を見つめる。  シレーヌは合格への祈りを乞うように、両手を固く結んでいた。  そんな彼女に、俺は優しく声をかけた。 「……不合格だな」  俺の心のこもった言葉に、すぐさま彼女は崩れ落ちた。 「なんで、どうして……自信もあったのに……」  まるで悲劇のヒロインであるかのように、膝をついて嘆いている。  俺は、落ち込む彼女を慰めるため、肩に手をやり言葉をかけた。 「上手かったけどさ、人魚ってのはなんか違う気がしたんだよな」  キッと睨みつけるような表情で、シレーヌは俺を見つめ返す。 「勘なんかで判断しないでほしいわ!」  お前だけには言われたくない。  しかし、曖昧な言葉で返した俺も悪かったとは思う。けれど、頭の中で一応は合理的に考えていたんだよ。  俺は昨日の夜、人魚について少しばかり調べていた。  セイレーン、マーメイド、ローレライ。各国に伝わる伝承や物語の類を特に多く見ていたが、どの人魚も共通して不吉なものとして描かれていたんだ。第一、人魚の習性自体がなかなかに厄介で、歌声を聞かせ、間接的に死へと誘う類がほとんどであった。  それに比べて、シレーヌの歌声は惹きつけられるものこそあれど、不吉な歌声だとは考えられなかった。人間味があり、真っすぐに感情を乗せた歌声を、俺は人魚の不吉なものとして認めたくなかったんだ。  先ほど、合理的に考えたと言ったが、訂正させてほしい。結局は感情論だった。  さて、俺のその不確かな感情論のせいで、シレーヌは今、いじけたままとなっている。  俺は不貞腐れる彼女の機嫌を取り戻すべく、次の案を講じた。 「シレーヌ、探検とか興味あるか?」  彼女の瞳は光を取り戻した。 *  俺は今日、二つのことを確かめるため、海へと足を運んでいた。  一つは先ほど済ませた通り、シレーヌに人魚であるのかを聞くためだ。もう一つは、この街を彼女に見せることで、何かしらの記憶を取り戻すのか検証をするためだった。  俺が幼少期に彼女と出会っているのであれば、彼女自身もこの街と、何らかの関わりを持っていようと不思議じゃない。俺が彼女との記憶を思い出したときのように、思いもよらない出来事が、記憶の引き金になる可能性だって十分にある。  現時点で彼女の正体を知る為の手掛かりは、残念ながらゼロに等しい。  彼女の正体を確かめるといった決意をした手前、なんとかして有力な情報を掴んでおきたかった。 「じゃあこれとこれ、あとそれも着て」  持ってきたトートバックから、サンダルとTシャツ、キャップ帽を取り出した俺は、シレーヌへと放り投げた。  3つのアイテムを見事キャッチした彼女は、戸惑いながらも支度を始める。 「先、行ってる」  俺は道路へと続く階段を駆けあがり、止めていた自転車に跨った。空になったトートバックはカゴへと突っ込んでおく。  俺は今日、自転車で海に来ていた。もちろん、この後の冒険のために。  道路上から様子を伺うと、シレーヌはまだTシャツを着るのに苦戦しているようだった。 そうして待つこと1分弱、ようやく階段を駆けあがってくる。  崩れた呼吸を整えながら、彼女は姿を現した。  目立つ色の髪を帽子の中にうまいこと隠し、オーバーサイズのTシャツはワンピースの上から被せるように着こなしていた。足元のサンダルだけは、やはり少しぶかぶかだ。  しかし、これで変に目立つことも無いだろう。 「準備できたら、後ろ乗って」  そう声をかけると、シレーヌは迷いなくサドルの後ろに乗っかった。 「準備オーケーよ」  その声を皮切りに、自転車は風を切って走り出した。 * 「風が気持ちいいわね」 「おい、乗り出すなって」  自転車の後輪近くに足をかけ、姿勢を変えようとしたシレーヌを制止する。  俺たちは今、海沿いの道路をこぎ進めていた。  この道は観光客向けの昼の店が多く、真夜中の今は人通りもほとんどない。だからこそ探検向きで、俺達には都合もいい。  第一に未成年が夜中にうろついているとバレたら大変だし、二人乗りも法律違反だ。俺はよく年上に見られるし、大学生でも通せるかもしれないが、彼女はダメだろう。あどけなさがまだ残っている。  こいつは法律とか分かってないんだろうなと、後ろの同乗者へと視線を配る。 「今はどこに向かっているの?」  俺の呆れた視線をものともせずに、嬉しそうに声をかけてきた。 「内緒」  返答に不満を持ったであろう彼女は、頬を膨らませて抗議する。 「ケチね……まあいいわ。それなら凛久、」  ぐ~ぎゅるるるるるる~  シレーヌの言葉を遮るかのように、腹の音が鳴り響いた。  残念ながら俺のじゃない。音の方向から察するに、彼女のものだ。 「あら、おなかが空いているみたい……」  別に恥ずかしがるでもなく、不思議そうお腹をさする彼女に、俺にも疑問が浮かんだ。  そういえば、食事はどうしているのだろう?  とりあえず何か買うかと、丁度目についたコンビニの方へとハンドルを切っていく。道路に面した広い駐車場の端へと自転車を止め、二人そろって乗り物を降りた。  そこで、先ほどの疑問を口に出す。 「シレーヌは、普段何食べてんの?」 「……」  困ったように頭を悩ます彼女の姿に、まさかな……と思い至る。  困惑の表情が表に出ていたのだろうか。シレーヌは親に悪事を白状する子供のように、丁寧に前置きを付けて答えを述べた。 「怒らないで聞いてほしいのだけど……ご飯を食べた記憶がないのよ」  やっぱりか。どんな体をしてるんだこいつは。  俺の中で、人魚や幽霊説が再浮上してきた。  俺は彼女にここで待つよう伝えると、急いでコンビニのサンドイッチとジュースを買ってきた。目を輝かす彼女へと手渡すと、本当にいいの!と言葉通り跳ねて喜んだ。  嬉しさが収まらなかったのか、くるくると回り出した彼女は、そのままどこかへ駆けてった。  おい、どこに行くんだよ。  俺は即座に自転車のストッパーを外し、大慌てで追いかけた。  当の彼女はというと、クローズ中の飲食店のテラス席で優雅にくつろいでいた。  何してんだ。  そもそも、ここって入ったりして怒られないのか?  一瞬、俺の善意が顔を出すも、すぐさまそれは投げ飛ばされた。 「こっちよ、凛久!」  嬉しそうに手招きする彼女の姿に、俺はいろいろと諦めた。  まあ、いいか。  彼女の自由人具合に毒されてしまったのだろうか。これはだいぶ危ないとは思いながらも、体はそちらへと駆けていく。  テーブルを挟んで向かいの席へと座ると、嬉しそうにパンを頬張る彼女を観察した。小さな口のサイズを考慮せず、大きくかぶりついたせいか、両頬には沢山のパンが詰まっており、口の中は咀嚼に忙しそうだった。  ほんと、せわしない奴だな。 「随分と物欲しそうな顔ね。凛久も食べる?」  気づかぬうちに、よほど視線を向けていたのだろうか。食べ物への羨望と勘違いをしたシレーヌは、サンドイッチの先っぽを俺へと向けていた。 「ああ、ありがとう」  一瞬、驚きはしたものの、ありがたく受け取った。深夜に食べるツナマヨの味も悪くない。  あれ、ツナ……?  目の前の彼女へと目を向けると、顔を青くさせてわなわなと震えていた。 「そういえば、この味……」  どうやら彼女も気づいてしまったようだった。 「私が人魚なら、これって共食いじゃない……」  絶望した顔で、残りのサンドイッチを俺へと譲るシレーヌは、なんだか可哀そうに見えた。 * 「着いたぞ」  気を取り直して自転車で走り続けること約5分、俺たちは目的地である公園へとたどり着いた。  ここは、近辺に住む子供の遊び場として有名な場所だった。少し入り組んだ場所を抜けた先にある、秘密基地のように小さな公園。白い手すりの向こうには、大きく広がる海も見える。近くで見るのとも、また違った海の良さが感じられるんだ。  もし、シレーヌがこの街で育った人間であれば、ここで遊んでいた可能性は高い。幼少期に遊んでいた場所なら尚更、何かを思い出すきっかけにもなりやすいだろう。  そういった経緯で、彼女をここへと連れ出したのだ。 「何か、思い出さないか?」  着いてから一言も言葉を何も発さないシレーヌの様子が気になり、振り向きざまに声をかける。何だか、様子がおかしい気がした。  俺の予想は、見事に的中していた。  シレーヌは今までに見たことがないくらい冷静に、ある一点だけを見つめていた。  視線の先を辿っていくと、見えるのは……海? いや、その手前の白い柵?  一体なぜだろう。  何かを思い出すきっかけでもあったのだろうか。  真意を確かめるべく、彼女に声を掛けようとしたその時、遠くでサイレンが鳴り響いた。  一瞬、警察に見つかったかと思い、身構えたが、流石にそれはないだろうと思い直した。未成年の夜間外出や二人乗りごときに、ここまで大げさに動くはずがない。それに、救急車のサイレンも混じっていた。近くで事件が起きたのだろうか。  中々鳴りやまないな。少しばかり心臓に悪いからやめてほしいとか、暢気なことを考えていた俺は、改めてシレーヌへと向き直った。  彼女の、様子がおかしい。 「シレー……!!! おい!! 平気か!!」  先ほどまで立ちあがっていた彼女は座り込み、苦しそうに口元に手を当てていた。  ふらついて倒れたのだろうか、帽子は転がり落ちており、肌には土埃がついていた。 「おい!!! 何があった!!!」  動揺から冷静さを失った俺は、彼女の肩を勢い良く掴み、大きく声をかける。 「あ……ああ……やめて、行かないで……」  どこか遠くを見つめ、うわごとを口走るシレーヌの目には、俺が映っていないようだった。  正気じゃない。  とにかく意識を取り戻そうと、肩を大きく揺さぶった。  効果はない。  寧ろ、どんどん具合が悪くなっていくようにさえ見える。 「おい、大丈夫か…… なあ! ……っとにかく、救急車!!」  焦った俺は、安直な考えに至った。  スマホを取り出し、すぐさま電話を掛けようとする俺の手を、白い手が遮った。 「やめて……お願い、聞きたくない……」  今度はしっかりと目の合った彼女に、少しばかり安堵の息を零した。  しかし、そう安心してはいられない状況だ。シレーヌの震えは収まらない。  一体、何を聞きたくないんだ?  力なさげに耳をふさごうとする彼女をよそに、先ほどの状況を整理してみる。  思い当たるものが一つあった。 「もしかして……サイレンの音?」  様子を伺いながら尋ねる俺に、シレーヌはゆっくりと頷いた。 「そうよ、あれ……あの音が嫌いなの」  唇を真っ青にして、彼女は怯え続けていた。  もしかして、彼女が警察を嫌がった原因はこれなのだろうか。  サイレンと彼女との関係性は気になるものの、悠長に考え込んでいられる状況でもなかった。まずはシレーヌを守ることが優先だ。  そうだ、あのおまじない。  俺は彼女の耳を両手でふさぐと、自分の額を彼女に寄せた。俺の声は耳をふさいだせいで、届きはしないだろう。それでも、きっと伝わるはずだ。 「目を見て」 「深く息を吸って」 「そして吐き出して」  俺たちは、サイレンが鳴りやむのをじっと待ち続けた。 *  どれくらいの時が過ぎたのだろうか、遂にサイレンは鳴りやみ、静かな夜が戻ってきた。 「シレーヌ、大丈夫か?」  両手を彼女から離すと、気遣うように声をかけた。 「ええ、もう大丈夫よ。そうだわ、そろそろ海に戻らないと」  先ほどよりは回復したものの、誰が見ても大丈夫とは言い難い様子の彼女は、何かに急かされるように立ち上がった。足元はふらつき、なんとも心もとなくて。  このまま一人にしてはおけないと思った。  俺は、彼女の腕を掴み、声をかけた。 「シレーヌ、今日は俺の家に泊まろう。変な意味じゃなくて、純粋に心配なんだよ」  この言葉は紛れもない本心だった。初めて会った時とは違い、彼女の友人として心配を感じていた。  そんな俺の心情を知っては知らずか、優しく腕が振り払われる。 「そんなの、申し訳ないわ」  遠慮したように距離をとる彼女に、無性に苛ついた。 「そんなこと気にする性格してないだろ。とりあえず必要なものを買ってくるから、そこでじっとしてろよ」 「待って」  俺は一方的に言葉を言い放つと、彼女の制止も聞かずに自転車を漕いでいた。  そして、後悔するんだ。  急いで戻ってきた公園には、彼女の姿が見当たらなかった。  彼女の痕跡も、跡形もなく消えていた。  いや、それは間違いか。彼女が先ほどまで身に着けていた、帽子とTシャツ、サンダルだけが落ちていた。  俺は震える手でそれらをかき集めると、自転車の存在も忘れて、走り出していたんだ。 *  俺は、全速力で海へと向かった。  もしかしたら、シレーヌは先に戻っているのかもしれない。  さっきも、海へ戻ろうと急かしていたじゃないか。  不安な気持ちに蓋をするかのように、自分自身に大丈夫だと言い聞かせるように、海への道を全速力で駆け抜けた。 *  居ない。  彼女はどこにも居なかった。  砂浜の端から端まで。もちろん、洞窟の中だって探したのに、彼女を見つけ出すことはできなかった。  きっと、俺が目を離したせいだ。  自分の愚かさに、悔やんでも悔やみきれないでいた。あの時一緒に連れていけばよかったと深く後悔をする。  一体どこへ消えたのだろうか。  どうか、無事であってほしいと思う。  不思議な彼女のことだ。明日の夜には、何食わぬ顔でひょっこり現れるかもしれない。  俺はもう、祈ることしかできなかった。  しばらく立ち尽くしていた俺は、重い足取りで帰路へとついた。  そんな心情でいたから俺は、遠くからこちらを見つめていた、あいつの視線にも気づけなかったんだ。  海全体を広く見渡せる場所に位置する道路の上、遠くを見渡すようなポーズでこちらを伺う青年がいた。 「あれ、凛久じゃね?」  そしてまた、物語は動き出していく。
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