第9話 別離

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第9話 別離

「早かったな。乗りなさい」  待ち構えるようにドアの前に立っていた父は、さっさと車に乗り込んだ。  父の行動にしびれを切らした俺は、車内にまで響くように大きく舌打ちをし、黙ってそれに続いた。  父は俺の乗車を確認すると、俺の文句が飛び出る前に車を走らせる。  流石の俺も、ドライバーの集中を乱すことは言い出せなかった。  仕方なく口をつぐんだ俺は、目的地までの道のりを黙って過ごした。 —————————————————————   泡沫の人魚姫  第9話 別離 —————————————————————  潮風を受けて車を走らせる事二十分、父は車を止めた。  場所を確認しようと視線を上げると、細かく整えられた植木に丁寧に舗装されたレンガ道が目に入る。視線を奥へと送れば、開けた丘の向こうには海が広がっていた。  窓から見えたその風景は、嫌になるほど見覚えがあった。 「盆にも、あいつの命日にもまだ早いが……ちょうどいい機会だと思ってな」  レバーを前に倒し、ハンドルに刺さった鍵を引き抜いた父は、早々に車を後にした。  父の真意を未だに掴めない俺は、急いでその後を追ったのだった。 *  整地された区画には墓石が立ち並ぶ。  そこはかとなく感じる重苦しい空気に、思わず俺は顔をしかめた。  湿気を帯びた温い風が、居心地の悪さを助長させる。時折聞こえ始めたセミの声は、不機嫌な俺の脳内に打ち付けるように響き渡る。  その中を、父と俺は歩き続けた。  距離としては少しもないはずなのに、歩いていた時間は途方もなく長く感じた。  ここまでくれば、どこへ向かっているのかも流石にわかる。  目的地は、母の墓だろう。  この五年間、バスを利用して通い続けた俺が言うのだから、間違いない。  見慣れた景色に見慣れた通り道。  その道にかかる影は、いつも一つだった。    俺は葬式以降、父と共に、この場所へ訪れたことなどなかったのだから。  父の、大きいばかりの背中を見つめる。面白みのない白いワイシャツには汗が滲んでいた。  睨みつけるように視線を寄越していると、前を歩く父の歩みが止まった。 「ここへ来たのは……葬式ぶりか」    父は、目の前で哀しげな存在感を放つ「栄家之墓」の刻印に触れ、小さく目を細めた。  浮かべる表情は、今まで目にしたことのないくらい優しげで。俺は、今更どんな顔をして来たのだと、父に対して怒りが湧いた。 「凛久」    墓を見つめたままの父は俺の名を呼ぶ。  俺はうんともすんとも言わないで、父の横顔を見つめ続けた。  父は少し躊躇ったように口を開くと、正面から俺を見据えた。 「話しておくことがある。神谷碧さんのことだ」  俺は、何も言えなかった。  何故、父がその名を口にしたのだろう。  切り抜きのコピーを眺める父の様子が頭にフラッシュバックする。  父の表情は真剣そのものだった。思い出のシレーヌについて、父は一体何を知っているというのか。  俺は顔をこわばらせ、覚悟のできないまま、あの日に起こった出来事についてを知ることになるのだろうか。  唇を強く噛み締めて、続く言葉を待った。  俺の沈黙を了承と捉えた父は、視線を下に落とし、少しづつ言葉を紡ぎ出した。 「そうだな、まずはあいつ……恵子のことから話させてくれるか」 *  ――私は、海が嫌いだ。  何も、初めから嫌いだったわけではない。私の妻、恵子という女は心の底から海を愛していた。  義母の影響だろうか、毎日のように近くの海に赴いては、飽きることなくそれを眺めていた。  昔、何が面白いのかと尋ねたことがある。  あいつは呆れた顔をして 「この良さが分からないなんて、アナタも案外おこちゃまよね」 と言っていたのを覚えている。  結局、彼女の最期を見届けた後も、私が海の良さを理解することはなかった。  私が彼女と出会ったのは、病院の一室だった。  恵子はもともと臓器が弱く、病弱な体質だったため、病院通いが余儀なくされていた。  体を強くするために水泳を習っていたそうだが、それでも普通の人として生きていくのには、少しだけ心もとなかった。  新人の医師として働き始めたばかりの私が、病人に抱えていたイメージといえば、弱弱しく、儚い存在であった。  なのに彼女の見せるじゃじゃ馬っぷりには、凝り固まっていた固定観念までもが覆されてしまう。  彼女との関わりが増えるたび、自由で、けれども芯のある彼女の姿に、私は徐々に惹かれていってしまった。  そうして、凛久が生まれた。  私は生まれてこの方、勉学にしか時間を割いてこなかった。  私の父も医者を営んでおり、生まれたときから進むべき道は決まっていた。  しかし、それが苦ではなかった。  自分の興味と親の提示した指針は偶然の一致を果たし、これまでの人生に後悔したことなど、なかったのだ。  だから、私が息子にできるのは 『進むべき道を示してやること』 それくらいだと思っていた。  仕事に忙しかった私は、それ以外の全てを恵子に任せた。  向いていないと割り切って、子育てに一切関わらない私を、恵子は何度も叱咤した。しかし私のような人間が、この小さい命に与えられるものなど、いくらも思いつかなかった。  そういうことは恵子の方が向いている。凛久にとっても、母親との時間がもたらすもののほうが遥かに大きいと。  そんな免罪符を使っては、息子との時間を避け続けていた。 *  ――海は、大切なものを奪っていく。  始まりは5年前の7月だった。  私がいつも通り病院での業務に勤しんでいると、焦った様子の看護師が私の元へと駆け込んできた。 「どうした、何かトラブルが――」 「栄先生、奥様が……」  看護師に案内されて向かった先には、点滴につながれて眠り続ける恵子が居た。  伏せられた睫毛はピクリとも動かず、顔や肌からは赤みの一つも感じられなかった。  目に映った、あまりにも衝撃的な光景に、私の思考は氷のように固まった。  駆け寄って、彼女の肩を揺さぶりたいとさえ思ったが、医者としての矜持がそれを押しとどめた。  彼女を診察してくれたであろう医師は、ベッドの横で苦い表情を浮かべていた。 「容態は?」  私がそう尋ねると、一瞬、医者は顔の強張りを見せた。  しかし、直ちに医者としての仮面をかぶり直し、冷静に状況を語り始めたのであった。 「今は眠っておられますが、身体の衰弱が激しく…… 目覚めはするでしょうが、そこからの回復は何とも」  私は、恵子が病院に運ばれてくるまでの経緯を事細かに確認すると、医師を部屋から下がらせた。  いつか、こうなることは覚悟していた。  病弱な彼女の体は、子供を産めたことが奇跡であったほど弱りきっていた。本来、私は子供を作ることにすら反対をしていたくらいだ。  それでも、あと十数年は共に過ごせると信じて疑わなかった。  その『いつか』が今訪れつつあることを認める覚悟など、できているはずがなかった。    医師の言葉を反芻する。  彼女は数時間前、海に居たそうだ。  凛久は塾の夏期講習があったから、恵子は一人で海を散歩していたのだろう。  そこで、溺れていた少年を助けたらしい。  恵子は普段の運動を禁止されていた。  直接的な死にはならないが、臓器に支障をきたす可能性があったためだ。  なのに、考えるよりも先に体が動いてしまったのだろう。  恵子の性格は私が一番理解している。きっと、そうなのだろう。  体ももう、弱りきっていたはずなのに。  少年を無事に助け、浜へと上がった恵子は、そのまま意識を失って倒れてしまったそうだ。  そこを近くにいた人が119番通報をして、彼女は一命をとりとめた。  しかし、回復の兆しは薄かった。  私は祈るように、恵子の手に自分の手の平を重ねた。  重なった部分から伝わる熱はなく、冷たい彼女の手に、自分の生気ごと体温が吸い込まれていくような感覚すら覚える。  もしも、そんなことで本当に彼女が回復するのであれば、私はいくらでも彼女の手を握り続けたであろうに。    彼女の体が弱くなければ。  彼女が初めから泳げなければ。  彼女が海など愛さなければ。  今でも、その『もしも』を考える。 *      その日はもう上がらせてもらった。  仕事に支障をきたすのは不本意であったため、早退の提案は断るつもりでいた。  しかし、先輩医師はそれを許さなかった。 「その顔で言われても説得力がないよ。お前も、心を休ませてやれ」  そこまで、ひどい顔をしていたのだろうか。  手洗い場の鏡で自分の顔を確認してはみたものの、普段との違いが分からなかった。  やむを得ず上司の好意に甘える形となった私は、入院用の荷物を取りに一時帰宅した。 *  再び病室へと訪れると、塾から急いで向かったのであろう息子がいた。  そして、恵子も目を覚ましていた。  ひとまず意識を取り戻した恵子の姿に、軽い安堵を覚える。  私は、凛久との会話を続ける恵子の姿を入り口から眺め続けていた。  ここが病院であることを除けば、二人は幸せそうなただの親子に見えた。  この幸せが、長くは続かないことを一人知る私には、二人の幸せな会話に終止符を打つことが躊躇われた。  また出直すか、と踵を返そうとしたその時、ベットの上で体勢を整えようとする恵子と目が合ってしまう。  恵子は、勘のいい女だった。  何かを察したかのように悲しく微笑んだ彼女は、私を呼び寄せて財布を受け取ると、そこから凛久に小銭を渡した。 「凛久、下にコンビニがあるから、お母さんの大好きなフルーツゼリーを買ってきてよ! もちろん、凛久の分も良いわよ」  その言葉に喜びの表情を見せた息子は、一目散に部屋を後にした。  凛久が居なくなるのを見届けた恵子は、浮かべた笑顔を崩していく。  彼女は体を起こし直すと、窓の外に広がる大海原を黄昏るように見つめていた。  静寂の最中、彼女の薄い唇がゆっくりと開いた。 「ねえ、アナタ。私、長くないんでしょう」  その瞳はいつになく冷静で、何かを悟ったようにさえ感じた。    私は、患者に対して努めるように、淡々とした語り口調でその言葉を否定した。  すぐにお前は回復する。  何も心配などするな。  検査でも問題はなかった。  だから、 「アナタの嘘くらい、分かるわよ」  それでも恵子は、私の優しい嘘になど騙されてはくれなかったのだ。 「それに、これは私の体だもの。誰よりも、自分が一番分かっているはずよ」  そう返す恵子の表情は、窓から差し込む日差しに隠れて曖昧に溶けた。  彼女が胸の前で強く握りしめていた両手は、微かに震えていた気がした。 *  それからの日々は早かった。  恵子は、自分の死んだ後のことで困らないように、諸々の手続きや知り合いへの遺言など、所謂『終活』を行っていた。  その傍ら、彼女の死後に家を預かってくれる家政婦探しにも勤しんでいたようだった。  入院から数日経って、恵子の助けた少年やその友人達からの面会希望もあったそうだ。しかし、彼女はそれを断った。  理由は、彼らに罪悪感を感じてほしくないからだと笑顔で言っていた。  後日、お礼の手紙を沢山貰ったらしい。  恵子はとても嬉しそうにしていた。  一方私はというと、いつも通り医者の仕事に励んでいた。  メンタル上の問題からと、重要なオペなどの担当を外されはしたが、それ以外の仕事は通常通りに行った。  変わった事と言えば、恵子との時間が増えたことだろうか。  同僚が気を使ってくれたためか、近頃は定時で上がれるような日が多い。昼間の凛久のお見舞いと入れ替わるようにして、仕事終わりの私が顔を出す。 「アナタ」  私の顔を見て、嬉しそうに微笑む彼女の美しさを。この目が焦げるまで焼き付けておきたいと思った。  恵子はもう、いつ死んでもおかしくない。  この時間は、私に残された最後の猶予だ。  私は、恵子の死を受け入れることができるのだろうか。   *  8月18日、恵子が死んだ。  愛しい息子に手を握られたまま、微笑みの中横たわっていた。  顔は不自然なまでに青白く、身体にはもう、ヒトの持ちうる熱のカケラも残ってはいなかった。  病室に漂うのは、強い消毒液の臭い。  耳に聞こえるのは、息子の泣き叫ぶ大声だけ。  今の私は、彼女の死を悲しむ余裕も、息子を慰めてやる余裕も持ち合わせてなどいなかった。  今でもこの光景が脳裏に焼き付いて離れない。記憶に焼き付けたかったはずの彼女の笑顔は、もう何年も思い出せてはいない。 *  ――海は、大切なものを幾度も奪う。  2日後、恵子の葬式が行われた。  生前、彼女が大方の内容を決定していたおかげで、滞りなく式を執り行うことができた。    彼女は皆から好かれるような人だった。  今になって、その事実を強く実感する。  高校、大学の友人に、地元の昔馴染み、更には私の職場の看護師までの多くの人が、彼女の最期に別れを告げていた。  誰もが涙を流し、嗚咽を漏らす中、私一人だけが泣くことすら出来ずに立ち尽くしていた。  式が終わった後の私は、恵子の遺骨が入ったハコを両手で抱きかかえていた。  私は数日後、再び恵子を手放さなくてはならなくなる。  彼女たっての希望で、遺骨は海洋散骨で弔われるためであった。 『私ね、亡くなった後も海をずっと見ていたいの。だから、私は海に還りたい』  真っ直ぐにこちらを見据える彼女の希望を、今更拒絶できるはずがなかった。  どのような形であっても、私の手元に残っていてくれればと何度思ったことだろう。  しかし今にも死に絶える人間、最期の願いと、自分の為だけに願った独りよがりなそれ。  どちらを優先すべきかなど、明白だった。  そうして私は、海を嫌った。 *  恵子が亡くなったその日から、10日間の忌引きをもらった。葬式も終わり、今日からあと7日間。今の私には長すぎる暇だった。  仕事をしていれば、余計な考え事をせずに済む。  だから恵子が入院した後も、私は働き続けていた。  私は臆病なのだろう。彼女の死に向き合うことから逃げ続けていたのかもしれない。  それで今は、この有り様だ。  恵子のことを想うには、時間は十分すぎるほどにあった。  出会ってから今日にいたるまでの記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。  気づけば、押しとどめていた感情が瞳から溢れ出していた。 *  恵子の死後に雇った家政婦は、優秀だった。  しかし、その秀でた料理を口にする気力もないほどに、私は無気力になっていた。  今日は、朝からずっと非生産的な時間を過ごしてしまっていた。このような一日は、人生初と言っても過言でない。  ふと時計を確認すると、午後6時を過ぎる頃だった。  リビングを見渡すと、軽い違和感を感じる。  そういえば、凛久が見当たらない。  息子の部屋の戸を開いたが、そこには誰も居なかった。  しかし、塾に行っているわけでもないだろう。  恵子が入院した日から、しばらく休む旨を伝えておいたはずだ。  不審に思った私は、自宅付近の道を捜索し始めた。 「……レーヌ!」  あたりを見渡しながら歩くこと数分、海の方から子供の声が聞こえた。  凛久の声だ。  堤防の上から浜辺を覗き込むと、そこには息子と見知らぬ少女の姿があった。  黒髪を短く切り揃え、白いワンピースを身につける少女は、不思議な空気感を纏っていた。  息子は少女の腕を掴み、縋るように強く引き留めている。  あたりは暗くなり始め、ここからでは彼らの言葉や表情がうまく観察できない。  それでも私は目を凝らして、二人の様子を伺った。  数秒の沈黙の末、凛久が口を開いたようだ。  凛久は悲しげに何かを尋ねると、少女の返答を待ち続けている。  すると少女は、溌溂とした声色で言葉を返した。  その言葉を受け、凛久は納得したのだろう。  少女を掴んでいた手を離すと、嬉しそうに笑って指切りを交わしあっていた。  二人は、互いに大きく手を振ると別々の方向へと歩きだした。    少女の足音が自分の方へと近づいてくる。  咄嗟のことに驚いて、思わず携帯を弄るフリをしてしまった。  すれ違いざまに見えた少女の顔は、よく覚えている。  はっきりとした目鼻立ちに凛とした表情。  そこから垣間見える年相応のあどけなさ。   彼女が、母親の死に折れそうだった凛久を、支えてくれたのだろうか。  私は未だに少女の顔を忘れられない。  いや、忘れてはいけない。  この先もずっと、忘れることはないのだろう。 *  私は、バレないように凛久の後を追った。  小学生の小さな歩幅に追いつくことなど、大人にとっては容易いことだ。  凛久の足音は軽く、背筋は真っ直ぐに伸びていた。   「早く明日にならないかな」  一人嬉しそうに呟く凛久の後ろ姿に、私は安堵を覚える。  今更どんな顔で、彼の父親ヅラしているのだろう。自分自身に疑問が湧いた。それに私たちの関係性が、もう手遅れなのも分かっている。  それでも、今の息子の姿を心の底から嬉しく思った。  母親の死後、蹲るように泣いていた少年はもういない。  息子を放っていた自分にそんな資格などないことも分かってはいるが、あの少女には礼を言いたくなった。  私も、恵子や彼女のように凛久の支えになれるのだろうか。 *  8月28日、とうとう忌引きが終わった。  同僚の心配する声を押し切って、私は白衣をその身に纏った。    何ら問題はない。恵子のことも割り切れているはずだ。  私は、通常通りの業務に勤しんだ。  少し足元にふらつきを覚えるが、何ら支障はない。  その甘い考えが、一人の少女を死に追いやると、誰が知っていたのだろう。    すっかり日が沈みきり、仕事もあと少しで片付く頃のことだった。 「栄先生、急患です!」  長い廊下の向こうから、一人の看護師が走り寄ってきた。 「容態は?」  私は彼女の誘導に従って足を速めながら、患者の詳細を尋ねた。 「が一人、崖からの転落により頭部を強打し、重傷です」   「そうか」  怪我人の手術を執り行うべく、私たちは急いで患者の元へと向かった。
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