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ベッドへ男をわざわざ乱暴に放り投げてやる。エアコンのボタンを押して松浦はシャワーを浴びにいった。本当に迷惑な男だ。けれど巻き添えを食ったことで、いつの間にか自身の辛さがどこかへ飛んで行ってしまった。
松浦は今日、付き合っていた女から、一方的に別れを告げられた。とりつくしまもなかった。自分のどこがいけなかったのかわからないが、もう、彼女の中では松浦とのことは終わってしまっている。声が冷めていた。諦める他、なかった。
寝室に戻ると、男はぼんやりと天井を眺めていた。声も出さずも泣くその姿に、さすがに同情心が芽生える。
「少しは酔いが冷めたか」
「ここは天国ですか……?」
「バーカ。自殺した人間は天国には行けないんだってよ?」
「だって……白い……」
「……水でも飲むか?」
「あなた……誰ですか?」
「ほんとにむかつくヤツだな。おまえ、死にたいってわめいて、死に場所へ連れてけって言うから、成り行き上、仕方なく、俺の部屋に連れてきてやったのに」
「すみません……」
「さっきの勢いはどこへ行ったやら」
松浦はベッドの端に腰をかけて、男を見つめた。随分ときれいな子だな、と思ったと同時に彼女のことが脳裏をよぎる。華やかで美しく性格も申し分なかった。松浦のことを理解してくれていると信じていた。それなのに……。
「まぁ、今夜はここで休んでけ」
「……待って」
立ち上がろうとすると男の細い手が腕にかかる。仕方なく、松浦はもう一度、腰を下ろした。
「……捨てられたんです」
「捨てられた?」
「……恋人に」
松浦は返す言葉もなかった。
「ずっと一緒にいたかった……。だから大学卒業したら一緒に住みたいって思ってた……。でも、別れようって……」
「……なんで」
「他に好きな人ができたから……って」
新たな涙がまたひとすじ、頬を伝う。
「高校から、ずっと一緒。もう、七年ですよ?……ずっとこの先も一緒だと思ってた。なのに……こんな……こんなことって……」
松浦は男の柔らかな髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。何も言えなかった。
彼女に、聞きたかった。なぜいきなり別れたいと言い出したのか。他に好きな男ができたのか。それとも松浦に非があったのか。もう、彼女に会うつもりはないので、それは永遠の謎だ。明確な理由があれば、松浦もこんなにうちひしがれたりはしなかっただろう。結婚を考えた女だ。
「……泣けば」
「うん……」
「それでも死にたかったら、死ねば」
「……うん……」
男は初めて松浦を見る。曇りのない、澄んだ美しい瞳に胸が痛んだ。
「……許してくれて、ありがとう……」
「許すつもりはないけど、許さない理由もない」
「……名前……」
「名前?」
「あなたの……」
「松浦」
「……松浦さん……」
「ん?」
「あなたは?」
「え?」
男の指が松浦の指を探る。
「あなた……泣いてる……」
「……俺が?」
松浦は無理をして笑った。だが、すぐに音を上げる。こんなことは珍しかった。
「……振られたんだよ、恋人に」
「泣かないで」
「泣いてなんか、ないよ」
子供に慰められている。なんて情けない、と頭を振る。男がゆっくりと上半身を起こした。そして、ゆっくりと松浦の身体を抱きしめる。優しいその腕に松浦は顔を埋めた。
「理由がわからない」
「……理由?」
「急にさよならだって。それだけ」
「好きなら……」
「ん?」
「好きなら、ちゃんと理由を聞かなくちゃ……」
「もう、会うつもりはないよ」
「でも、それじゃ……あなたの気持ちに決着がつかないでしょ」
「……わからない」
「好きなら、どんなことをしても引きとめなきゃ。ダメだよ」
「そういうおまえはどうなんだよ。どんなことしても、引きとめればよかっただろうに」
「泣いたよ。喚いたよ。死ぬって脅したよ。でも……ダメだった」
「……そうか」
自分にはできない。それほどまでには彼女を愛していなかった? いや、そんなみっともない真似はできない、というのが、本音だ。この男の言う、死にたくなるまで人を愛する、そんな想いはいつまで経ってもわかりそうにない。
「ほんとは、お酒、あんまり飲めなくて。でも勢いがあれば死ねるかと思って。無茶して飲んでみたけど……」
閉じた目から涙があふれ出た。
「なんにも変わらない……」
「急には、変わらないさ」
松浦は優しい気持ちになって指で、その涙を拭った。
「ただ、おまえよりちょっと長く生きた経験からして……それは、もしかしたら、時が経つことによって緩和されていくことかもしれないと思う。今は、ぼろぼろだったとしても。それでもダメだと思った時に……死ねばいいんじゃないかと、俺は思う」
「松浦さん……」
自分にも、そう、言い聞かせてみる。時に任せてみればいい。もしかして、何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。しかし、決断を急ぐことはないのだ。
人は自分の意思のみで生きているわけではない。さまざまな力が動いて、その中でもがきながら、なんとか今を過ごしている。そしてそれが積み重なり、道になっていく。それは途中で絶たれるかもしれない。絶つかもしれない。しかしこの男も、そして自分も、今はそのどちらでもないように思う。
松浦はシーツに腕をつき、そっと被さった。男がいぶかしげに松浦を見上げる。
「……松浦さん……?」
「ゆっくりおやすみ。……よい夢を」
松浦は男の額にできるだけ優しく口づけると、部屋を出ていった。
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