第1章 1

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 翌朝、出勤してきた編集長が帽子と上着をコートハンガーにかけて机につくや否や、私は昨日の封筒を持って彼の所へ向かった。 「取材旅行お疲れさん。成果のほどはどうだった?」と、飲酒の名残がある充血した まなこで尋ねてくる編集長に 「現地の方のご協力で予想以上によい資料が集まりまして、大木先生もすごぶる満足されています。整理がついたらすぐ執筆にかかるとおっしゃってました」 「それは良かった。フェリーも旅館も奮発して豪勢な所にしといて良かったな。メシはどうだった?」 「海が近かったので魚介類が旨かったです。それから……、守永先生の件、ご連絡いただきありがとうございました。昨晩こっちに戻ってすぐ手紙を読みました」 「そうか……」  編集長は、小さくため息をつくと 「検死のあと、遺体はすぐ荼毘に付されて弟さんが連れて帰られたよ。立つ前に挨拶に来られて君あての遺書を置いていかれた。でも、なんでこんな早まったことをしちまったんだろうな。スランプ気味ってことは聞いてたけど、まさかこんなことになるなんて……」  私は俯くと、手にした封筒を差し出した。 「いいのか、俺が読んでも」  彼はそれを受け取り便箋を広げた。そして、最後の文面に行きつくと目を見開いた。 「『未発表原稿の著作権を貴方に譲渡します』って……、遺稿をウチの雑誌に掲載してもいいってことなのか?」 「恐らく、そういうことでしょう」 「こう言ったら不謹慎だが、これを載せたら話題になって部数が伸びるだろうな。これって君に対する最大級の謝礼じゃないか」 「……」 「守永先生の弟さんも凄く感謝していたぞ。『三戸さんにはよくしてもらった。海のものとも山のものともつかぬ兄を作家として育てていただいて』と言って。遺書は全部で四通あったそうだが、担当編集者に向けて書かれたのはこれ一通だけなんだ。あとの三通は家族と各出版社宛で『それだけ三戸さんのことを信頼していたんでしょう』と、弟さんがおしゃっていた。そういえば、実家の住所と電話番号のメモを預っている。『何かあれば連絡して下さい』とのことだった」  編集長は引き出しから一枚の紙きれを取り出すと私に渡した。そして、それをじっと見入る私に言葉を続けた。 「双子というだけあって守永先生と瓜二つだった。まるで彼がそこにいるかのようにね……」  それから私は、守永詠治の死という現実から逃れるため精力的に仕事をこなした。  企画を立てて作家に原稿を依頼し上がってきたゲラに朱を入れた。座談会の会場を設営し司会進行をこなし謝礼の受け渡しを行った。その合間、知り合いの作家から頼まれた新人の原稿に目を通し……、そんな多忙な日々を過ごしていた矢先、取材の帰りに立ち寄った書店で息が止まった。店内の一角に設置された守永詠治の追悼コーナーに遭遇したのである。  【追悼】という文字に、私の動揺は極限に達した。彼の全ての書籍が整然と並ぶさまに声も出なかった。  逃げるようにその場から立ち去ったが、その後 身の置き場の無い深い悲しみに襲われると路地裏に飛び込み むせび泣いた。  あの ずらり並んだ本の中には、私が担当編集者として かかわった連載小説の文庫本があった。生前、彼と一緒に行った本屋で この本を手に取り『僕の小説が文豪たちと同じ棚に並ぶなんて夢の様だ」と無邪気に笑う姿が瞼の裏に蘇ってきたが、もうあの笑顔を見ることは叶わぬのだ。  しかし数週間後、そのコーナーは跡形もなく消え去り 代わりに話題の新人作家の新刊が平積みされていたのには閉口してしまった。  彼の死は、もはや過去の出来事に変わりつつある。年月とともに風化され 思い出されることも少なくなるのだろう。そう思ったらやるせなくなってきた。棚を見ると単行本や文庫本の何冊かが品切れになっており、店員を呼びつけると本の取り寄せを頼んで店を出た。  彼の死を遠ざけていたくせに、人々の記憶から彼の存在が薄れていくことに心の底から湧きあがるような寂しさを覚えた私は、知らず知らずのうちに彼が下宿していた叔母の家へ向かっていた。
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