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これまで何百回と通った守永詠治の下宿へは目をつむってでも行けた。私は本屋を出ると一番近い駅から電車に乗り、四十分後には目的地に到着した。
二カ月ぶりの町はどこも変わっていなかったが、雰囲気が違っていた。うまく言葉では言い表せないが、見ず知らずの場所に来てしまった…… そんな違和感がしてしょうがないのだ。
彼がいないとこうも印象が変わるのか―― この事実に戦きながら、私は先を急いだ。人の往来を交わしながら商店街を通り抜け、彼がよく利用した銭湯を横切り、二つばかり角を曲がったところで大きな柿の木のある平屋に行き当たる。ここが彼の下宿先の母方の叔母宅だった。
門扉から中を覗きこんだ。いつものように玄関の脇には青々したアオキと石灯篭が静寂な雰囲気を漂わせていたが、その時ふと思った。
―― あとに残された老婦人は、どのような日々を過ごしたんだろうか?
自分のことで精一杯だった私は、この時になって彼女の存在を思い出し、すぐに駆けつけなかった薄情さを悔やんだのだが……
「あれ、そこに居るのは三戸さんかい?」
聞き覚えのある声に振り返ると、当の本人―― 安田コトが目の前に立っていた。太ネギが刺さった袋を手にした至極普通な光景に、思わず目を疑ってしまう。
「久しぶりだねぇ、元気だった?」
彼女は、不自由な足取りで近づくと私を見上げた。
「相変わらず背が高いねぇ。ちょいとそこまで買い物に出てたんだけど待たせちまったかね」
「いえ、今来たところです。それよりコトさん、この度は突然のことで何と言ってよいものか……、心からお悔やみ申し上げます」
「最近ようやく落ちついてきたところさ」
彼女は門扉を開けるとポケットを探った。そして一本の鍵を取り出すと、付けた鈴を忙しげに鳴らしながら解錠した。
一ヶ月ぶりに訪れる家は懐かしい匂いがした。靴箱の上の京人形も その下の敷物もなんら変わってないが、三和土に並ぶ靴の数が減っていたことに胸が痛んだ。
「どうぞ、どうぞ」と言われるままに上がった私は、廊下の途中の襖の前でピタリと足を止めた。そこは守永詠治が生前使っていた部屋で、ここから多くの話題作が世に出され、私も何度となく訪れた場所だ。
思わず立ち竦む私に気づいたコトさんが、そっと襖を引く。
「……!?」
八畳の部屋にはポツンと文机が置いてあるだけで、あとは何もなかった。ずらりと資料が並んでいた本棚も、三つ折りにして部屋の隅にあった布団も、編集者が打ち合わせに使っていたちゃぶ台も何もかも……!
「綺麗に片づいてるだろ? 聖ちゃんが全部始末しちまったのさ」
「聖ちゃん?」
「詠ちゃんの双子の弟。気持ちの整理がついてからゆっくり片づけようと思ったのに『一人でするのは大変でしょう』ってぜ~んぶ始末しちまった」
「……」
「わたしゃね、あの子が死んだってことが未だに信じられんのよ。『損傷が激しいから』って遺体に逢わせてはもらえなかったし、荼毘に付されたあとの遺骨を見せられたって これがあの子のなれの果てだなんて思えなかったし。いつかひょっこり現れて『ちょっと出掛けてたんだ』なんて言いそうじゃないか?」
コトさんの瞳に涙が滲み、私の目頭もじんわりと熱くなってきた。
「私も同じ気持ちです。でも、私宛に届いた遺書を見ると やはり認めざるをえなくて……。ねえコトさん、彼は亡くなる前日どんな様子でしたか? 自殺をほのめかすような言動や行動はありましたか?」
「普段通りだった。いや、むしろ機嫌が良くて、早めに起きて布団を干すのを手伝ったり一緒に買い物に付き合ってくれたり……。三戸さん、わたしゃ あの子が死ななきゃならない理由が見当つかんの。そりゃあ一年前に母親が死んだ時はかなり落ち込んでたし『小説が書けない』ってぼやくこともあったけど、それが自殺するきっかけになるのかね?」
「実は最近、詠治さんは……」
そこまで言うと、私は閉口した。彼女に話して良いものか迷ったが、彼無きいま秘密にしておく必要はないと思い真実を明らかにした。
「付き合っていた女性と別れたばかりだったんですよ」
「えっ…」
「そのことで凄く落ち込んでいました。その前には小説を書く原動力だったお母さんも亡くされてスランプ気味だったし。色々辛い出来事が重なったからではないでしょうか?」
「だからと言って、自分で命を絶つなんて絶対しちゃならんのに。あの子、前の戦争で犠牲になった人たちの無念さを何にもわかっちゃいない!」
コトさんは口惜しそうにこう言うと、重たい足取りで奥へ歩いてゆくのだった。
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