6.呼び止められた健太

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6.呼び止められた健太

 帰路の途中で恭介に呼び止められ、健太は頭が真っ白になっていた。  いつもの道を、二人並んで歩く。  だがそれはいつもとは全てが違う光景だった。  健太は、言葉を選びながら話した。  最後まで話を聞かせると、恭介は笑いながら怒った。それから恭介と別れ、健太は再び一人になった。もう急ぐことはやめた。急いでも意味がない。 「何だよ、結局、全部お前の勝ちかよ」  話を終えたときの恭介の言葉である。彼は口を尖らせた。 「健太の言うことが、全部信じられなくなってきたなぁ」  彼は安堵したのだ。健太が嘘つきだということに。そしていつものように、じゃあなと言って別れた。  だけど、彼は知らない。  健太がついた嘘は、二つだけだ。  一つは、岩国先生へ。  今日のことだ。朝一番で健太を呼び止めたその担任教師は、昨日かかってきたいたずら電話の内容を口にした。健太はこう答えた。「あれが恭介の悪いところなんだなあ。味をしめちまったんだ。恭介は、まだ先生を騙す気なんだよ」  もう一つは、恭介へ。  同じく今日のことだ。ついさっき、帰路の途中で健太を呼び止めたその親友は、岩国に問い詰められた謎の電話のことを口にした。健太はこう答えた。 「俺が言ったんだ、そういう話をすれば恭介はビビりますよってね。先生はお前を騙したのさ」  健太がついた嘘はそれだけだ。  二人に、結局は何も起きていないのだと伝えたかった。  ふと空を見ると、唸るような音が聞こえた。夕立が来るのだと思った。家に着くと、健太は母親と言葉を交わすこともなく二階へ上がり、自分の部屋に入ってドアを閉めた。  心の底から、恐ろしかった。  つい昨日のことである。自分の体を氷の槍のようなものが、まっすぐに貫く音を聞いた。「お前のせいだ」と断罪されたあの瞬間に、ズブリと、深く、鋭く。  健太の体を貫いた氷の槍は、まだ抜けないままでいる。 「健太!」  階下で、母が呼ぶ声が聞こえた。 「友達だよ、恭介くんがきてるよ!」  母の言葉を聞き、健太は強く目をつぶった。  階段を下りる。 「あの子、大丈夫?」  母は眉をひそめ、小声でそう言った。  恭介とはさっき話したばかりだ。また訪ねてくるなんておかしい。訪ねてくるとしたら、その恭介は―― 。 「健太」  玄関の先に立つその少年がそう言った。痩せこけた体に薄汚れたシャツを纏い、強烈な悪臭を放っている。髪はぼさぼさで、垂れ下がった前髪の奥で目をぎょろつかせていた。妖怪のようなその姿から、健太は目を背けた。 「やっぱり、助けてくれないんだな」  彼は言う。 「お前しかいないのに」 「俺には、何もできないよ―― 」  視線を外したまま健太は答えた。恭介を助けたかった。だがその恭介とは、目の前に立つこの妖怪ではない。受験を控え、不安におぼれながらも前途輝く、あの親友のことだ。彼を守るために、何としてもこの妖怪のことは知られたくなかった。知らぬまま、葬り去ってしまいたかった。 「お前が邪魔をしなければ、俺は過去に戻ったんだ。そうしたら、一人になれたはずなのに。お前のせいで、俺が余分な存在になった」 「待てよ」  居間には母がいる。聞かれたくない、見られたくない。健太は玄関の扉を閉めた。 「この世界で、俺だけが余分だ。世界に、ひとつだけ(、、、、、)多い(、、)んだ」  健太は後悔していた。どうしてあのとき、恭介に声をかけてしまったんだろう。どうしてクスノキが光り出すまで、待つことができなかったんだろう。  健太は、恭介に、苛立ったのだ。  それは自覚していた。くだらない思いつきで人を嘲笑おうと企む彼の思惑に。半端な知識で世界を知ったような口を叩く彼の浅ましさに。日本を動かすなどという妄言を吐き、受験生と成り変わって自分から離れていこうとする彼の薄情さに。  ―― 寂しさに。  あのとき、健太は、恭介を殴った。  恭介の嘘を暴きたかったから、咄嗟にあんな提案をした。岩国先生を騙してやろう、などと。恭介は目を輝かせた。そして、彼が嘘などついていないことを確信した。彼は本当のことしか言っていなかったのだ。 「お前のせいだ」  恭介の目が健太を捉えた。そのまま呪い殺されてもおかしくないような、鋭い眼光だった。気づけば、雨が降り出している。見る見るうちに、雨は激しくなった。 「8月17日から、俺は塾へ行ってない」  恭介は言葉を続ける。  あの日、彼は自分が塾へ行くつもりだった。それは至極当然であったのだ。もう一人の恭介は、過去へと消えてしまうはずだったのだから。 「だけど、あの日塾へ行っていたのは、俺でも良かったんだ」 「……どういう意味だ」  健太には、彼が何を言おうとしているのか、本当に分からなかった。  雨が、恭介の髪を撫でつける。健太も濡れていた。 「例えば二人が存在したままだとしても、塾へ行くのは、俺で良かった。どっちでも良かったんだ、たかが24時間なんだからな。それをぐずぐずして、一ヶ月近くも時間を無駄にしてしまった。受験生にとって、一ヶ月がどれだけ貴重なものか実感したよ」  まだ恭介の言葉の真意が分からないままだ。それなのに、健太の足は震えた。  遠くの空で、雷鳴が聞こえる。 「最初にお前に話したあの日から、昨日まで、俺がどうしてお前の前に姿を現さなかったか分かるか?」 「……分からない」 「お前に話しても、意味がないと思ったからさ」  恭介は、薄汚れたズボンのポケットから、何かを取り出した。 「お前は、俺が消えたものと思っただろう。もう一人の俺が嘘なんかついていなかったことを知ってもなお、お前は、俺の存在を記憶から消し去った」  それは、真っ赤に濡れている。 「簡単なことだったんだ」  再び雷が響き、稲妻が光った。  恭介の手にしっかりと握られたナイフが、鈍い光を放つ。 「ついさっき、俺は余分じゃなくなった」  健太は唾を飲み込んだ。 「応援してくれるよな。俺は、受験生に戻ったんだ」  恭介は笑った。嘲笑でも冷笑でもない、それは嘘のない本当の笑顔だった。
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