Prologue:田部井 誠治

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「いらっしゃい…… おう、セージか」  ガラスのドアを引いて店に入ると、カウンターの向こうで黒い長袖Tシャツにモスグリーンのエプロンを着けた長身、金髪の男がヘッドフォンを外して首にかけながら言う。彼が神入 光。  申し遅れたが『セージ』と呼ばれた俺は、『ひまわり』のボーカルでリーダーの田部井(たべい) 誠治(せいじ)。生まれも育ちも、ここ横須賀だ。 「ゴメン、も少しかかりそうなんだけど」  大量の買取入庫があったようだ。ヒカリがいるカウンターにはCDの塔が摩天楼のように林立している。これだけの枚数の状態を確認し、値付けをするのは大変な作業だ。 「いいよ、まだ早いし。のいつもの店で待ってるよ」  作業中の手を止めてしまうのも申し訳ないので。俺はそれだけ言うと踵を返して店を出ようとする。  ちなみにとは『ドブ板通り』のこと。地元、横須賀の人には『本町』または基地(ベース)で働く米国人が略してそう呼ぶ『Honch(ホンチ)』と称される場合が多い。 「わかった。店長と大事な話があるんだから、あんまり飲みすぎるなよ」  そんな助言に、俺はヒカリに背中を向けたまま片手を挙げて店を出る。俺ってそんなに酒癖が悪い?…… か。  大通りを横切り『ドブ板通り』へと進み、酒を安く提供してくれるいつもの店に入る。カウンターに座って店員にビールを注文し、ポケットから出したクシャクシャの千円札をカウンターに置く。  この店はいわばキャッシュ・オン・デリバリー。この界隈では米ドルも使えるが、レートは固定で1ドル100円。  以前は俺も恰好をつけて米ドルで支払っていたが円安が進んだ昨今、固定レートでは日本円のほうが得だ。  サーバーから注がれた泡の綺麗なグラスビールを傾け、ヒカリと出会った頃を思い出してみる──  前任のギタリスト、新村(にいむら) (ごう)から脱退を願い出されたのは、もうすぐ平成も終わる頃だった。  ロックバンドにとってギターは肝心要。それにゴーちゃんは大学時代から長きにわたって『ひまわり』に尽力してくれた大切な仲間。  何度か残留は申し入れたけど交渉は決裂。代わりのギタリストを招き入れる算段もままならないまま年号が令和へと変わり、ゴーちゃんが最後の参加となるステージを迎えてしまった。  それがこの『ドブ板通り』から徒歩数分の場所に位置する老舗ライブハウス『harbor view』。終演後、客席で打上げをしている時の衝撃的な出来事によって俺達はヒカリと出会った。  まあ、あれくらいの出来事でイチイチ驚かないのが俺達『ひまわり』の凄いところではあるな。
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