80人が本棚に入れています
本棚に追加
メデューサの首〜その5
「どうだ、反応は?」
私は、立ちすくむ少女に問いかけた。
「まだ……何も……」
ぎこちないクリスの声が、室内に木霊する。
数日後、私たちは再び展示ドームに来ていた。
閉館間際の室内に、人気は無かった。
帰宅や遊びに忙しい学生らは、もうやって来ない。
彼女が立っているのは、『呪われた絵』の前だった。
その手には、携帯が握られている。
「別の周波数……試してみます」
消え入りそうな声で、携帯に指を這わせる。
チラリと覗くと、画面に波長らしきものが波打っていた。
彼女が操作しているのは、一種の【周波数探知機】のようなものだ。
近年、個人情報保護の規制はより厳しさを増していた。
それに付随し、従来は業者頼みだった盗聴・盗撮への対応が、個人でも対処できるようになってきた。
発見機や探知機が、ネットで容易に手に入るようになったのだ。
特に最近では、盗聴探知器のアプリまで出てきた。
今クリスが使っているのは、このアプリを自分でバージョンアップしたものだった。
ソフトウェアの小難しいプログラムを、この少女はいとも簡単に組み替えたのだ。
そう。
これが、クリス──式縞真美の特技であった。
彼女には、桁外れの情報処理知識と技能があった。
この少女の手にかかれば、あらゆる電子機器が、全く別のものに変わってしまう。
警察のサイバー捜査官すら凌ぐ技量を持っているのである。
「反応……ありません……ごめんなさい」
謝り口調で、クリスが囁く。
「いいのよ。別にあなたのせいじゃないんだから」
離れた場所から、クイーンが優しく声をかける。
「そうか……無いなら仕方ない」
私はクリスに小さく頷いた。
「誰にも気付かれず聴覚に作用させるには、人の聴こえる可聴領域外の音を使うしかない。この絵、もしくは部屋のどこかに、その音源があると踏んだんだがな……」
そう言いながら、私は室内を見回した。
「可聴領域外の音って……?」
ドイルが、よく分からないといった顔で首を傾げる。
「……一般に、人が聴こえる周波数は二十ヘルツから二万ヘルツまでと言われています。前者より低い音は低周波、後者より高い音は超音波と呼ばれています」
こちらへ振り向きざまに、クリスが語り出す。
「この両方を探知できるよう、アプリのプログラムを組み直したのです。記憶されている盗聴周波数データを拡張し、広帯域受信機能を携帯に組み込む事で……」
唖然とする三人をよそに、クリスの解説は続く。
「なんか……急に饒舌になったね」
ドイルが驚いたように、クイーンの顔を見る。
「この子……自分の得意分野の事になると、なぜかスラスラ喋れるのよ」
そう言って、クイーンは苦笑いを浮かべる。
「へえー……そりゃ面白い!」
嬉しそうに声を上げ、目を細めるドイル。
「ねぇ、クリス……コンピュータウィルスって、今どれだけあるの?」
一人喋り続ける少女に、ふいにドイルが問いかける。
「機能で区分するなら、現在確認されているだけで四種類です。増殖機能を持つ『ワーム型』、アプリを介する『トロイの木馬型』、マクロ機能を利用した『マクロ型』、ファイルに感染する『ファイル感染型』です。感染経路は主として、不正サイトへのアクセスやメールですが、最近ではIoTの普及により、テレビなどの生活家電が感染する事例も増えています」
考える素振りを全く見せず、即答するクリス。
「ところで……君はどうして、オシャレしないの?」
「それは……わ、わたし……みが……なく……て……」
軽快だったトークが、見る見る失速する。
「ねぇ、クリス……『メトカーフの法則』って知ってる?どっかで聴いた言葉なんだけど」
またドイルが質問する。
「……イーサネットの開発者、ロバート・メトカーフが提唱した法則です。【ネットワークの価値は、接続されているシステムのユーザー数の二乗に比例する】というものです。現在では、ネットビジネスの戦略策定などで活用されています」
水を得た魚のように捲し立てるクリス。
「ちなみに、君はどんなタイプの人が好みなんだい?」
「……そ、そんな……こと……わかり……」
また失速……
「じゃあ、じゃあクリちゃん、ついでに君のスリーサイズおしえ……」
バシっ!!
クイーンの鉄拳が、ドイルの後頭部に炸裂する。
「いい加減になさい、ドイル!クリスで遊ばない!」
うずくまるドイルを見て、当のクリスはオロオロと狼狽えるばかりだった。
************
「いよいよ、可能性が最後の一つになったな」
研究室に戻るなり、私は厳しい口調で言った。
「あなたの言ってた、視覚面での作用ね」
クイーンの言葉で、全員の目が私に集まる。
「やっぱり、あの絵の色彩に秘密があるのかしら?」
「分からん……だが、目を通して得られるものと言えば、色、形……あとは、あの女性から受ける印象くらいだ」
眉をひそめて呟くクイーンに、私は言った。
「もう一つあるぞ」
突然響いた声に全員が飛び上がる。
振り向くと、戸口に誰か立っていた。
ボサボサ頭に無精髭の、見るからに貧相な風体の男性だ。
ヨレヨレの白衣には、薬品の染みが幾つも付いている。
「神楽坂!」
私は声を上げ、立ち上がった。
「来てくれたのか」
「まあ、レポートも書き終わって、丁度暇だったからな」
そう言って、その男性は頭髪を掻きむしった。
私は、不思議そうに見つめる仲間を顧みた。
「こいつは神楽坂尚文。私の友人で、医学部の二回生だ」
「ほう……これがお前の言う、【異常心理学研究会】の精鋭か」
そう言いながら、その男性──神楽坂尚文は、興味深げに全員を見回した。
その射るような視線に、皆の顔に緊張が走る。
「こいつは、医学部で臨床心理学を学んでいる。ある事に詳しいので、今回協力を依頼した」
「ある事……?」
クイーンがオウム返しに呟く。
「今回の一件は、全て被害者の自己責任によるものとされている。たまたま、あの展示室で絵を眺めている時に体調が急変しただけ。因果関係など無く、全て偶然に過ぎない……これが、大学側の見解だ」
私は、室内を闊歩しながら語り始めた。
「だが、本当にそうだろうか。もし、偶然で無かったとしたら……一連の事故が、全て意図的なものだったとしたら……」
「あなたは……誰かが仕組んだと言うの!?」
興奮したクイーンの声に、私は大きく頷いた。
「一か月も展示されているわりには、被害者の数が少な過ぎる。もし、あの絵に細工がされているなら、もっと沢山いてもおかしくないはずだ。誰かがコントロールしているとしか思えない」
その場の全員が、食い入るように私を見つめる。
「今回の事故……いや、事件の裏には犯罪者の影が見え隠れしている。何者かが、絵を介して観客を狂わせ楽しんでるんだ……そう考えた時、私はある可能性に気付いた。彼を呼んだのは、それを確かめるためだ」
そこで言葉を切ると、私は神楽坂尚文を指差した。
聞いていた全員の脳裏に、同じ思いがよぎる。
絵を観る事により人を狂わす細工……
臨床心理学を学ぶこの男の助力を要するもの……
「まさか……それって……!?」
言葉を詰まらすクイーンに、私は囁くように言った。
「そう……催眠誘導だ」
最初のコメントを投稿しよう!