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メデューサの首〜その1
私の名は亜蘭芳。
K大に通う学生だ。
朝の乗合バスに揺られながら、私はいつもの日課をこなしていた。
車内に、次の停留所のアナウンスが流れる。
二席前の中年女性が、降車ボタンを押した。
「二回」
私は小さく呟いた。
言った通り、チャイムが二回鳴り響く。
停車し、最後尾からご老人がヨタヨタと前に向かう。
「怒鳴る」
私はまた呟いた。
「おいっ……ちゃんと放送せんか!」
定期券を見せながら、老人が運転手に怒鳴った。
何か言い返したようだが、老人の方はさっさと降りてしまった。
運転手の舌打ちが聴こえる。
発車寸前に、高校生らしき女子が降車口に走った。
定期券を見せ、慌てて降りる。
「戻って来る」
私が呟くと同時に、一旦閉じた扉が慌ただしく叩かれた。
駆け込んで来たのは、先程の女子高生だ。
自分のいた座席から何かを拾い上げると、また飛び出していった。
全勝だな……
全て、予測通りだ。
私はニコリともせず頷いた。
なんで、分かったのかって?
別に魔法でも、超能力でもない。
これは、そう……
言ってみれば、一種の特技だ。
私には、人の行動パターンが読める。
その人の容姿、状況、動作から、次に何をするかが予測できるのだ。
たとえば、最初の中年女性――
車内アナウンスが流れる数秒前から、降車ボタンに手をかけていた。
恐らく、乗り過ごしてしまわないか不安だったのだろう。
よほど焦っているか、心配性なのか……
だから二回鳴らすに違いないと予測した。
老人の方は、横を通る際に補聴器が見えた。
そして、怒りに歪んだ表情──
それで、アナウンスがうまく聴こえていなかったのではと推測した。
あの形相では、何か言わずにはおれまい。
案の定、降りぎわに一喝したわけだ。
女子高生の場合、あの慌てようは直前まで携帯をいじっていた可能性が高い。
だが降りる際、手に携帯を持ってはいなかった。
恐らく、焦って置き忘れたのだろう。
だから、またすぐ戻って来ると予測したのだ。
いずれのケースも、心の変化が無意識に行動となって現れた結果だ。
人の行動の九十パーセントは無意識だと言われている。
え?と思われるかもしれないが、事実だ。
たとえば、今私がこうやって話している内容を、あなたは「さあ、聴くぞ」と意識して聴いているだろか。
恐らくは、『特に何も考えず』に聴いているのではないか。
別に責めているのではない。
それが、ごく自然な状態なのである。
人の心と行動は、必ず連動している。
この心の変化を、私はその人の様子から読み取っているに過ぎないのだ。
「次はK大学前ぇ、K大学前ぇ……」
おっと、着いたようだ。
それでは、私はここで降りるので失敬する。
************
研究室に入ると、すでに先客がいた。
「おはよう。早いわね」
紺色のスーツ姿の女性が声をかけてくる。
「ああ、おはよう」
私は、やはりニコリともせずに応じた。
「相変わらず無愛想ね。たまには、『ちゃーっす!』とか言って、入ってきたら?」
「その行動に、何か学術的意味合いがあるのか?」
怪訝そうに眉をしかめる私を見て、女性は額に手を当てた。
「言った私がバカだった……冗談よ。忘れて」
そう言って、その女性……逢瀬姫華は首を振った。
「あとの二人はまだか、クイーン」
私の問いに、姫華は肩をすくめてみせた。
『クイーン』というのは、彼女のあだ名である。
名前の『姫』をもじっているが、彼女が推理作家のエラリー・クイーンのファンだというのも理由だ。
「けしからんな。ミーティング時間を三十二秒も過ぎてるぞ」
「ちょっと細か過ぎない、ポー」
整った顔立ちの中で、クイーンの目が丸くなる。
ポーというのは私のあだ名だ。
名前を全て音読みすると亜蘭芳〈あらんほう〉となり、往年の怪奇作家の名に似ているためこうなった。
無論、部員の連中が無理矢理付けたのだ。
私自身は、エドガー・アラン・ポーに興味など無い。
「やあ、メンゴ、メンゴぉ!遅れちゃって……」
慌ただしくドアが開き、背の高い男性が飛び込んできた。
「遅いぞ。一分十五秒のロスタイムだ」
「いや、だから細か過ぎるって……」
腕時計を指し示す私を、クイーンが苦笑いを浮かべて諭す。
「ワリぃ!途中でエイリアンと遭遇しちゃって、誘拐されかけたもんだから……ハーハハハハ!」
男性の高笑いが、室内に響き渡る。
私とクイーンは思わず顔を見合わせた。
「あなた明るさは天下一品だけど、ジョークは最悪ね……ドイル」
クイーンが呆れた口調で言い放つ。
ドイルとは、この男性……亘辺計多郎のあだ名である。
特に根拠は無い。
ポーとクイーンがいるのだから、僕はコナン・ドイルでいくよ……と自分で付けたのだ。
超がつくほどお調子者で、なんでこの同好会に入ったのか未だに分からない。
「あら……そんなとこにいたの?」
ふいにクイーンが声を上げる。
見ると、ドイルの背後に女性の姿があった。
恥ずかしそうに下を向いている。
「それが例のエイリアンか?」
「なわけ無いでしょ!ばかっ」
興味深げに呟く私に、クイーンの怒声が飛ぶ。
「ああ、そうだった!部屋の前で鉢合わせしたんだ。一緒に入ろうって言ったら、お先にどうぞって言われたよ。心にチクッと刺さったね。ハチ合わせだけに……ハーハハハ!」
「はい、はい、分かったから……ちょっと黙ってね」
ドイルの軽口を受け流し、クイーンはその女性に微笑みかけた。
「いつもみたいに、一人で入り辛かったのね。大丈夫よ。ほら、来なさい……クリス」
クイーンの優しい口調に安心したのか、クリスと呼ばれた女性は小さく頷いた。
小動物を思わせる瞳が、メガネの奥で揺れている。
この女性、本名は式縞真美という。
今年入ったばかりの、まだ一回生だ。
あだ名はドイルと同じで根拠は無く、アガサ・クリスティからきていた。
皆はさらに省略し、クリスと呼んでいる。
極端な人見知りで、クイーン以外とはあまり喋らない。
それがなぜ、この同好会に入ろうと思ったのか……
これもやはり謎だった。
まあ、兎にも角にも、以上が我が同好会──
【異常心理学研究会】のメンバーである。
異常心理学とは、心理学において主に異常行動を研究する学問である。
古くは神経症、精神障害などの精神病理学のことをさしていたが、近年では夢や催眠状態などの正常人における例外的心理状態も対象とされている。
異常行動をとる者の心理について、その仕組みや発生機構を解明する事が我が研究会の目的だ。
「さて、本日の議題だが……」
全員が席に着くのを見計らい、私は切り出した。
ここからは、部長である自分の役目である。
「この案件を、研究対象にしようと考えている」
そう言って、私は一枚の写真を机上に置いた。
皆の視線が集まる。
「これって……」
クイーンが言葉を詰まらせた。
そこに写っているのは、額縁に入った肖像画だった。
「今噂になってる【呪われた絵】だ。すでに三人が大怪我を負っている」
私は抑揚の無い声で答える。
室内が凍りついたような静寂に覆われた。
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