四日目、夏至の庭が暮れるころ

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四日目、夏至の庭が暮れるころ

 息苦しさに耐えきれず呉島は目を覚ました。大きく息を吸い込んで、それから激しく咳き込んだ。  そこは宿坊の布団の上だった。部屋の電気は消えている。呆然としながら自分の身体をさぐってみた。汗みどろだが濡れてはいなかった。  ――それでは、あれは夢か。  ぐったりと布団に伸びかけて、はっと我に返る。枕元のスマホに飛びついた。画面の時計は午前三時を示していた。そして、立花からの短いメールが着信しているのに気づいた。 『すまない。急な打ち合わせが入った』  着信時刻は午後十時過ぎ。まったく気づかなかった。安堵と失望が入り混じって全身の力が抜け、今度こそ布団に倒れこんだ。  夢とは思いがたい生々しさだった。喉の奥に流れ込んでくる泥水の味や、首に絡んでくる水草のぬめりがよみがえって、ぞっと鳥肌が立つ。  立花碧とうりふたつのきれいな顔をした、しかし碧ではない男が呉島を池に引きずりこもうとした。彼が立花紺だったのだろうか。池に入る直前に腕を強く引かれた。呉島は自分の手首を確かめる。  ――ありきたりな怪談なら、ここに赤い手形でもついているところだな。  手首にそんな痕はついていなかった。それでも冷たい手のひらと、キスされたときの冷えた唇の感触ははっきりと残っていた。  疲れきっているのに一睡もできないまま時間が過ぎていく。とうとう雨戸も閉てずじまいで、窓の外がすでに薄明るいのに気がついた。  ――そうか、今日は夏至だ。  呉島は子どものころに読んでもらった外国の絵本を思い出した。  遠い国の、日の沈まない夏至の白夜の話だった。亡き人の幽霊や妖精がひと夜かぎりで現世の人々の前に姿をあらわす。怖くはない。みんなで食卓を囲んだり、夏の花が咲き乱れる庭で踊ったりしながら、陽がのぼるまでを楽しく過ごす。妖しいまでに美しい絵柄と翻訳調の語り口が、幼いころの記憶に鮮やかに刻まれていた。  季節がうつろう境界には、この世ならぬ存在につけこまれやすいのかもしれない。呉島は首筋の汗をぬぐった。思った以上に肌が冷えきっているのに驚いて、身体が震えた。  ◆  薄く曇った朝になった。重い体を引きずって部屋を出ると、廊下の先に住職が立っているのに気づいてぎょっとする。古めかしい磨りガラスの丸いランプの下で、薄い笑みを浮かべてこちらを見ていた。呉島が部屋から出てくるのを待っていたのだろうか。考えの読めない生白い顔を見ていると、すうっと体温が下がっていくような気がする。小さな声で朝の挨拶をされた。 「おはようございます、呉島さん」 「……おはようございます」 「ゆうべ、紺君にお会いになりましたか。彼、あなたに会いたがっていたから」 「……」 「碧君だけが何でもかんでも独り占めするのは、さすがに紺君がかわいそうだ。生まれたときからすべて二人で分け合ってきたのに。碧君だってお兄さんの紺君の存在があったからこそ、成功も人気もほしいままに手にしているんです。そうは思いませんか」  住職は、立花の双子の兄である紺をずいぶん贔屓する。あるいは紺の死にまつわる特別な事情を知っているのかもしれない。夕べ、池に引き込まれかけた夢のことを彼に話してみようかと呉島は迷った。ぼんやりと考えこみ、思い切って顔を上げたときには、しかし、住職の姿はなかった。
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