一日目、立花植物園

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「呉島さん」  声をかけられて振り返ると、寺の住職が立っていた。三十代半ばに見える若い住職は髪を剃っておらず、作務衣を着ていなければ僧職だとわからない。色白の細面で舐めるようにこちらの様子をうかがってくる。いい男の部類には入るだろうが、呉島は彼がなんとなく苦手だった。 「今日からお世話になります」  呉島は立ち上がって、できるだけ事務的な口調で挨拶をした。密着取材の期間、呉島と撮影クルーは寺の宿坊(すくぼう)で寝泊まりさせてもらうことになっている。住職は、呉島が供えたテッポウユリをちらりと見やった。 「呉島さんにお参りしてもらって、(こん)君も喜んでいますよ」 「そうだといいんですが」  呉島はあらためて、墓石に刻まれた名前に目をやった。  立花紺、享年二十五歳。  立花碧の双子の兄は十年前に亡くなっている。双子の美貌ガーデナーとして華々しくデビューした矢先の衝撃の死だった。なぜ亡くなったのか詳しいことは公表されておらず、いまもさまざまな憶測が飛び交う。  呉島が黙って立ち尽くしているので住職がまた口を開いた。 「碧君の取材は明日からですよね。紺君が見にくると思いますよ」 「そうですか」  呉島はごく自然に相槌を打った。亡くなった兄の魂が、遺された弟の活躍を見守っているとする宗教観に違和感はない。ところが住職はつづけて奇妙なことを口にした。 「碧君がずいぶん呉島さんを気に入っているようだったから、申し訳ない、私は紺君に入れ知恵してしまったんですよ。つい、お節介でね。呉島さんが気になるのだったら、アプローチしてみてはどうかと口を滑らせてしまった。紺君はぜひあなたに会いたいと言っていましたよ」 「えっ?」  呉島は困惑した。住職はまるで紺が生きているかのような口ぶりでしゃべり続ける。 「呉島さん、碧君のことが好きなんでしょう? でも紺君が生きていたら、あなたが好きになったのは碧君ではなくて紺君だったかもしれない。だって二人とも同じ顔、同じ才能を持っているのだから。彼に会ったら、ぜひ優しくしてあげてください」 「……」  ――もしかして、立花紺の幽霊が出るなどといって俺をからかっているのか。しかも立花碧が……立花先生が俺のことを気に入っているなんて、嫌味だとしたら腹立たしい。  住職は黙りこんだ呉島の様子を面白そうに眺めながら、さらに不可解なことを言う。 「ああ、ご心配なく。紺君にはちゃんと足がありますよ。私たちと同じように歳も重ねています。触れようと思えば触れられるし、温もりもある」  呉島はますますわからなくなった。そして混乱して呆然としている間に、うすら笑いを浮かべた住職は呉島の前から姿を消してしまったのだった。  ◆  寺の墓地で住職に話しかけられたせいで思わぬ時間をくってしまった。呉島は急いで植物園に向かった。  敷石の回遊路をたどって母屋へ行くと、立花碧の姿があった。先に到着していたディレクターや撮影クルーと談笑している。くっきりと鼻筋の通った端正な横顔をしていて、姿勢がいい。白いシャツにアースカラーのワークパンツというシンプルな服装も小憎いほど決まっている。  立花が呉島の気配に気づいてこちらを振り返った。その途端、それまで彼の口元に浮かんでいた笑みがすうっと消える。このあからさまな態度が、いつも呉島の心を小さく打ちのめす。 「すみません。遅くなりました」  想定より遅くはなったが、集合時刻に遅れたわけではない。それでも立花のこんな冷ややかな顔を見てしまうと、詫びる言葉が先に出てしまう。立花は大げさなため息をついて呉島に背を向けてしまった。 「こういうときは、担当編集者が一番乗りで来るものじゃないのか」 「申し訳ありません」 「もういいよ。早く打ち合わせをしよう」  現場の空気が、立花の豹変ぶりに凍りついたようになってしまった。ぎこちない空気のなかで、呉島は冷や汗をかきながら打ち合わせを進めた。   ――「二日目、あなたの香り」に続く
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