三日目、秘密の庭

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三日目、秘密の庭

 結局、呉島は三日目も植物園にとどまり、予定どおりに撮影の立ち合いを続けた。立花も呉島も、互いに対するふるまいは大きくは変わらない。しかし二人の雰囲気がどこか和らいだことをディレクターや撮影クルーも敏感に察したようで、取材現場の雰囲気は明るかった。    撮影の合間、立花がすばやく呉島の上着のポケットにメモ用紙を押し込んでいった。呉島はメモに走り書きされた場所に、指定された時間に行く。  秘密のやりとりを交わすとき、ビジネス用のメールを使うのは危険だ。その点、紙のメモならリスクが低い。宛名も差出人の名前もなく、場所と時間が記されただけの紙きれだ。万が一どこかで誰かの目に触れたとしても、それが立花から呉島に宛てたものだとはわかりにくい。  メモを受け取った呉島は、立花と二人だけの重要な暗号を共有されたような気持ちになる。浮きたつ心をぐっと抑えた。  ◆  来るように言われたのは、植物園の奥にある事務棟の一室だった。事務棟へは打ち合わせで毎月出入りするが、指定された部屋には入ったことがない。人に見られないように用心しながら部屋を探し当て、小さくノックした。中からの返答を待って、ドアを開ける。  そこは窓の大きな明るいアトリエだった。  部屋の中央には作業台があって、ビーカーやフラスコ、顕微鏡、試験管などの実験器具や書類が無造作に置かれている。その周りを無数の鉢植えや園芸用品が囲んでいた。壁は一面に造りつけた本棚になっていて、その前で立花は何かの資料に目を通していた。 「よう、お疲れ」  顔を上げた彼は穏やかな笑みを浮かべていた。 「一年も担当してもらってるのに、俺は呉島君のことを何も知らなかったな」  立花の親しげな態度に、呉島は泣きたい気持ちになる。促されてアトリエに面した小さな庭に出た。石造りの塀にみっしりとノイバラが咲いている。淡い黄色の小さな花から強い香りが立っていて、呉島はその見事さに息をのんだ。 「これは、原種のノイバラですか」 「いや、さすがに原種じゃない。父が原種に近いものを遺していたから、それをちょっと交配改良したんだ。この時期まで長く咲くように」 「いい香りのバラですね」 「そうだろ。鼻の利く呉島君と、香り当てゲームをしたくてね」  立花がバラに顔を寄せて香りを嗅ぐ。  あまりにも絵になる横顔に呉島は見とれた。 「さて、これは原種のノイバラに何系統のバラをかけ合わせたと思う? わかるかな」 「俺、品種にはそれほど詳しくないんですが」 「いいよ。香りの系統を当てたらお手柄だ」  呉島はそっとバラの一輪をつまんだ。棘のない茎は細くてやわらかい。花弁に鼻を近づけて匂いに集中する。  呉島の知るノイバラ本来の香りより、もう少し青い匂い――すぐに答えは分かった。 「これは簡単。アニス系ですね」 「正解」  顔を上げると立花と目が合った。微笑みを向けられて思わず身体が疼く。さらに、手を取られて舞い上がった。 「じゃあ、次はもう少し難しい問題」  立花は呉島の手を引いてアトリエに入っていく。  親指ほどの小さな試薬瓶をたくさん並べた木函(きばこ)を持ってきた。 「俺が今、ブレンドしてる精油の試作品」  それぞれの瓶にはラベルが貼られている。呉島が覗きこもうとすると、立花は思わせぶりに木函を()けた。そして呉島に大判の白いハンカチを手渡す。 「目隠しして」 「えっ」 「ラベルが見えるだろ」  呉島は立花の言葉にしたがって、細く巻いたハンカチで目を覆った。
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