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第8話 ウォッチャー
沈黙した化け物の背骨を踏みつける『ミシッ』という嫌な音がした。
突然現れて意に介さない言葉を投げつける声色は鋭く張り詰め、融通の利かない性格が滲み出ている。
そこでタイミングよく雲から顔を出した月が、来訪者の全貌を浮かび上がらせた。
男は身体をすっぽりと覆う黒いコートを羽織っていた。
顔はフードの影になっていてよく見えないが、意志の強そうなエメラルドの瞳だけが月光を反射して輝く。
彼がマコトの額に突きつけていたのは、小型のアサルトライフルの銃口だった。
「いつまで黙っている。喋る舌を持たないのか?」
「あそこでスキャンしてるドローンに聞けばいいんじゃない?」
飄々とした色違いの視線の先には、狭い路地を自在に駆け回る小型ドローンが3機。
黒衣の男は銃を向けたまま、耳元の通信機で誰かに連絡を取る。
『――先輩、ヴィジブル・コンダクターのデータベースに、その男の情報はありませんでしたぁ』
「なるほど。なら少なくとも組織所属の監視官ではないな。念のためエネミーアイズのリストとも照合しろ」
『えぇっ!? あれって統括官クラスの権限が必要な極秘データベースじゃ……』
「フランチェスカ統括には後で許可を取る」
『……もうっ、知りませんからね! ユリウス先輩が怒られてくださいよぉ!? あたしあの人ほんっとうに苦手で――』
――ブツッ。
騒がしい通信を黒衣の男――ユリウスが一方的に切った。
そしてマコトに向けていた銃口を這いつくばる化け物の頭へかざし、無表情にトリガーを引く。
セミオートでプシュンッ、と一発だけ静かに放たれた銃弾は、サイレンサー効果で銃声が轟くことはなかった。
だが、異様なのはその後だ。
無抵抗で撃たれた老婆の頭に、内側から次々と瘤のような膨らみが現れる。その直後、限界まで腫れあがった患部が血飛沫を上げて激しく破裂。バラバラになった頭蓋骨や肉片が建物の壁を叩く。
近くにいたマコトは生臭い血を正面から浴びたが、表情筋はぴくりとも動かない。
「顔色一つ変えないか。お前、殺しに慣れているな?」
「怯えて逃げ出した方があんたの好みだった? 悪いね、気が利かなくて」
不自然なほどいつも通りの様子で相手を煽る男に、再び銃口が向けられる。
マコトは手を上げて許しを乞うわけでもなく、顔に滴る血を鬱陶しそうに袖で拭った。
「こいつは俺が手を下す前に息絶えていた。強靭な肉体に人知を超えた身体能力を持つ麦畑の怪物を素手で殺したお前を、このまま見過ごすわけにはいかない」
「麦畑? ここパリのど真ん中だけど」
「だんまりなのかお喋りなのか、どっちかにしろ」
「…………」
言われた通り口を閉ざす。
しかし、目線がわずかに動いたのを目敏いユリウスは見逃さなかった。
神秘的な双眸に銃口を突きつけたまま、後ろを振り返る。
物言わぬ死体が並ぶ暗闇。
通り抜けた先に広がる道路すら見えない。嫌な汗が背筋を伝う。
緑葉の瞳が宙を見上げた瞬間、それまで微動だにしなかった銃口がわずかに揺れた。
「アーティ、行くよ」
「へ、あっ……ぇ、ぇえええっ!?」
「っ!? おい、待て!」
隙を突いてアーティを右肩に担いだマコトが、その場から素早く駆け出す。
ユリウスが慌てて制止を呼びかけるが、止まれと言われて素直に止まるほど愚かではない。
「それを監視するのがお前らの仕事だろ」
そう言い捨てて、二人は夜の暗闇に消えた。
「チッ! カタリナ、データ照合は引き上げだ! こいつら全員、情報転写式具現装置で足止めしろ!」
『えぇーっ!? あたし一人でですかぁ!?』
バディの無茶ぶりにカタリナが不満気な声を上げる。しかし、ごねている時間はない。
後方に一般人には不可視の存在、多数。
浮遊したバスケットボールほどの大きさの白い金魚たち。どれも麦畑の怪物が屠った死体に誘き寄せられた雑魚ばかりだ。
だが危険な空腹状態に陥っていて、原理に背いた暴食を無差別に行う可能性がある。
デイドリーマーズと名付けられた、実態を持たない不可視の存在。
彼らを疑似的に具現化させる技術を、リアライズと呼ぶ。
最初に必要なのは実体化させるための外的情報。ユリウスやカタリナなど、一部の視える人間がその情報収集の役割を担っている。
デバイスに収集したデータを入力し、光源化した情報を照射して実体化させてからは、攻撃に対する反応、動作、肉質等の情報を逐一追加して「本物」に近づけていく。
「上の連中は例のSNS投稿の件でかなり神経質になっている。そこに具現化したデイドリーマーズが人を食らい、そのうえ重要参考人を取り逃がしたとなれば……」
『麦畑の怪物を追ってフランスの高飛車連中に頭まで下げて現地入りしたのに、ドイツ支部の評判はガタ落ちですねぇ……』
「だから、任せたからな」
『……しょーがないですねぇ。ほんっとに、先輩はあたしがいないとダメなんだから』
通信機越しにまんざらでもないような声を聞いて、ユリウスもすぐに走り出した。
例の二人は既にユリウスが視認できる領域の外へ逃げていたが、ドローンが逐一追尾しているので問題ない。
眼球に埋め込んだアイデバイスへ映像と位置情報を転送し、見晴らしの良い屋上を目指して地面を蹴り上げる。
普通の人間ならせいぜい子どもの背丈ほどしか飛べないはずが、ユリウスは下弦の月を背に、空高く飛んだ。
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