第97話 原点回帰

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第97話 原点回帰

 始まりの写真を彩っていた翼のある虫の群れが頭上を飛ぶ。影のない群れは音を立てず、薄く張った水の鏡面に映ることもない。  瓦礫(がれき)の山を越え、津波に()し折られた橋を飛び――道なき道を縦横無尽に突き進み、潰れたドーム球場跡を最短距離で目指した。仮面の形で具現化したフランチェスカを握り締めながら。 『放せ! たかだか二百年生きただけの分際で、私の全てを理解した気になるな!!』 「時間は関係ない。あんたが何千生きようと理解できなかったってだけの話だよ」  喚き散らす亡霊へ、マコトはすげなく言い返す。  折れた電柱や潮風に錆びた車を軽く超え、より速度を上げて走り抜けた。足音に合わせて水が跳ねる音だけが無人の都市に響く。  しばらくして、距離を詰めたドーム球場がその全貌を現した。  天井は無残にも崩れ落ち、液状化の影響で全体的に半分ほど海へ沈んでいる。ぽっかりと口を開けた天井を押し潰すように咲いた巨大な蓮の花を見上げて、オッドアイがいっそう細められた。  あの中に、HITO型巨像がいる――。  胸の一番奥が疼いた。不安や恐怖が一切ないと言えば嘘になる。だがそれ以上にマコトを突き動かしていたのは、使命感だ。  この穢れきって壊れた亡霊をHITO型巨像へ還す。アーティの生きる世界が少しでも美しいものになるように、祈りを込めて。  幾千年の呪いは、ここで絶対に終わらせる。 『ああ……死をも恐れないと。美しい自己犠牲です、まるで脆弱な人間のようではないですか』 「煽っても無駄だよ。あんたをこの世から葬り去れるなら後悔なんてしない」 『お前はそうだとしても、あの娘はどうでしょう』  冷え切った呪いは、心の一番柔らかい部分を的確に突き刺した。 「さようなら」ではなく「行ってきます」と告げたのは、聞き分けの悪い本心によるささやかな抵抗だったのかもしれない。  アーティはきっといつまでも待ってくれるだろう。たとえ帰って来ないとわかっても、命を終えるその時まで帰りを待ち焦がれる。  彼女の記憶に残り続けたいという自分勝手な欲求で、けして抜けない(くさび)を打ち込んだのだ。 『人間の短い生を言葉一つで縛り付けるとは、私よりもお前の方がよっぽど化け物でしょうに』  凹凸のないのっぺりとした仮面が嘲笑うように吐き捨てる。  誰かに見つけてほしい、存在を認めてほしい、分かり合いたい。そんな欲望で時には命さえ奪う、危険な承認欲求の化け物。今までのマコトは自分のことをそう思っていた。でも――……。  ――お腹が空くのも、誰かを愛そうとするのも、普通のことじゃないですか。自分を理解してほしいと思うのも自然なことです。先生は化け物なんかじゃありません。  アーティが紡ぐ言葉の一つ一つが、マコトを人間へと変えた。残酷で美しいこの世界に生きる一人なのだと思わせてくれた。 「……死ぬのは怖くないけど、死ぬ気はないよ」  帰りたい場所がある。隣にいたい人がいる。  だから「行ってきます」の後は、この世界で最も大切な人に「ただいま」を伝えなければ。何度だって、必ず。  自重で(ひしゃ)げた正面ゲートを潜る。液状化で沈んだフィールドに進むにつれ、水嵩(みずかさ)は膝まで達した。水圧で歩きにくいはずだが、終着点へ向かう足取りは変わらず力強い。  そしてとうとう、目的地へと辿り着いた。  かつて人工芝で覆われていた広大な水辺へ、遮るものがない天井から晴天の日差しが降り注ぐ。瓦礫(がれき)の下敷きになって潰れた観客席がまるで平伏しているかのようで、妙に神々しい。  その中心に浮かぶ巨大な薄桃色の蓮の花。日照時間に合わせてちょうど満開に咲いた花弁の中に、奴はいた。  雌蕊(めしべ)が生え揃った薄緑色の花托(かたく)の上に胡座をかき、二十本もの腕を複雑に組み合わせて膝の上で頬杖を着く白い影。首をぐるっと囲む十の頭には、顔のあるものとのっぺらなものが入り交じっている。  異質な千手観音を思わせるHITO型巨像を前に、マコトは正面から見て左前にあるを見上げた。 「マスターピース……」  眉目秀麗な顔立ちを両断する憎らしいほど高く美しい鼻筋。肉厚な口元は記憶の中と同じ笑みを浮かべていて、懐かしさに胸が締めつけられる。  専用食の数に合わせて(あつら)えられた十の頭に浮かぶのは、フランチェスカが食わせた者たちの顔だ。これからそこへ六つ目の顔が加わる。  侵入者に気づいたのか、頬杖をついて穏やかに瞳を閉じていた正面の顔がぴくりと反応を見せた。その巨体に見合った緩慢な動作で体勢を起こすと、全ての瞳を閉じたまま、正面をじっと見据えて動かない。  緊張でじっとりと汗が浮かぶ背を向けることなく、マコトも一歩踏み出した。 「お前の食糧を届けに来た」  マコトが接触した巨像は、彼が受肉した直後に舞い降りたKAMI型だけ。まともな意思疎通を図る前に再び成層圏へ飛翔したため、それが叶うのかどうかもわからない。柔和に微笑むばかりで腹の底が読めない様子が恐ろしくもある。だが、歩みは止めない。  水を掻き分け巨像の膝元まで近づき、真白の仮面を頭上へ掲げた。  それまで散々毒を吐いていたフランチェスカは、HITO型を目の前にして一言も発することはなかった。己の命運を受け入れたと言うよりは、思考が追い付いていないようだ。  巨像が引き起こした災禍によって命を落とした数多の人間たちの怨念と、無知な人間たちを啓蒙するほど心酔していた絶対的な存在への恍惚。二つの大きな濁流に意識が混濁し、穢れた自我が薄まっていく。 「欠片も残さず食べて。マスターピースの時みたいに」  果敢に言い放つマコトを見下ろした顔は、やはりどれも穏やかで――。  刹那、冷や汗で濡れた背筋にゾッと悪寒が走り抜けた。  抵抗できないような威圧を感じて立ち(すく)んだ細身を、巨大な手が無遠慮に鷲掴む。  骨が軋む音と内臓が破裂した感覚を最後に、マコトの意識は遠くへ飛んだ。
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