第98話 晴れ間に降る雨

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第98話 晴れ間に降る雨

 道路に張った水の上をショートブーツが駆ける。地割れや地盤沈下によって、道のコンディションは最悪だ。  足を取られて何度も(つまず)きそうになりながら、アーティは一心不乱に走った。  トーキョーに来たのはこれで二度目。前に高台の公園から見下ろした大きなドーム球場跡を目印にして、ひたすら足を動かす。心臓が飛び出しそうなほど息が上がる。だが焦りとは裏腹に、目的地との距離は思うように縮まらない。海のように大きな青い瞳にも、自然と水の膜が張った。 「先生……マコト先生……!」  もう見えない背中を追いかけて、最後の温もりが残る唇で焦がれるようにその名を呼ぶ。悲痛な涙声が残骸の街に溶けた。 「またカメラの練習に付き合ってくれるって、約束したのに……!」  色弱の視界が撮る写真に魅せられて、何も知らないまま純粋に恋をした。  最初は浮世離れした色違いの瞳や作り物めいた美貌に惹かれたのだが、今はもうそれだけじゃない。色鮮やかな視界でピントを合わせて、彼の秘められた一面を知るたびに胸が痛んで、掻き乱されて、愛おしくなった。  もっと知りたい。もっと分かり合いたい。何もかもが特別な彼と、何も特別じゃない当たり前の日々を送りたい。 「マコト先生、行かないで……お願いだからもう、置いて行かないで……!」  涙で視界がぼやける。水に濡れた靴が重い。嗚咽交じりの荒い呼吸を何度も繰り返して、それでも足は自然と前に進む。  すると、目尻に滲んだ雫を手の甲で拭ったアーティを、俊敏な黒影が追い抜いた。 「にゃぁあああああんっ!」 「タマキ!?」  可愛らしい雄叫びを上げた暴食猫が飛沫を上げながら駆け抜ける。図体に見合わぬ瞬足に合わせ、でっぷりとした腹が左右にブルブルと揺れた。  驚きで目を見開いたまま走っていると、背後からさらに意外な人物の声がして、思わず足が止まる。 「アネット嬢、はっけーん!」 「え、フィリップさ――きゃぁああっ!?」  しなやかな細身が流れるようにアーティを担ぎ上げ、道先案内猫の後を追う。  ウォッチャー特有の身体能力に加え、痛み止め代わりに強壮剤を三本も注射したフィリップの走力は、車に匹敵するものがあった。荷物のように後ろ向きで抱えられたアーティの目に、あっという間に過ぎ行く寂寞(せきばく)の街並みが流れる。 「二人とも、なんで……」 「野暮なことは聞かないのぉ、おバカさんっ☆ ほーら、舌噛んじゃうぞぉ!」 「きゃあッ!」  行き先を塞ぐ瓦礫(がれき)をひょいっと身軽に駆け上がる。猫による最短距離は道なき道。地震で割れた道路を飛び越え、落ちた橋の残骸を飛び石にして海の上を走る。  日常からかけ離れた光景に、アーティの脳裏にはパリでの逃避行が(よぎ)った。  今のようにマコトに抱えられて、わけも分からず絶叫していたあの夜。  初めて目の当たりにした人の死、初めて向けられた銃口、初めて知った白昼夢――その全てが鮮やかにフラッシュバックして、また視界が潤む。  世界の見え方が何もかも変わってしまった。それでも絶望せず目を背けなかったのは、一緒にいたい人がいたからだ。  猫背気味の後ろ姿を思い浮かべ、とうとう涙が溢れ出す。雫は頬を伝うことなく、風を切って駆け抜ける速度に乗り、辿った道へと飛んで行った。 (絶対に、マコト先生を連れて帰る……!)  しゃくり上げそうになった嗚咽を飲み込み、デニムジャケットの裾で目尻を拭う。涙は再会できた時のために取っておかなければ。たくさん泣いて、たくさん困らせてあげよう。振動で胸元から飛び出たレンズフィルターのネックレスを見つめ、そう決意した。  絶叫アトラクション並みのスリルのおかげで、球場との距離はだいぶ近づいた。今は津波の影響で積み重なったビルの残骸の急斜面を駆けあがっているため、崩落した天井を見下ろすことができる。  身を(よじ)って前方を確認したアーティには、大きな水溜まりのようなフィールドだけが見えた。だがそこに息衝(いきづ)く存在を、確かに知っている。 「花が開いてるねぇ。もしかしたらもう接触してるのかも」 「そんな……何とか間に合わせてください!」 「しょーち(ヤヴォール) ! ってなわけで、ちょ~っとお口閉じててねぇ~!」 「へっ!? ちょ、ま――」  嫌な予感がして前方を見ると、先頭を走っていたタマキが瓦礫(がれき)の頂上から見事な大ジャンプを披露していた。技術点芸術点共に世界トップレベルの美しい放物線を描き、天井が崩落したフィールドへ真っ逆さまに落ちていく。  生身のフィリップもそれに続き、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく足を踏み抜いた。途端に強烈な浮遊感が襲い、豪快な悲鳴が空に(とどろ)く。 「ぎゃぁぁああああああああああっ!?」  目が回るような落下の最中(さなか)、激しく揺れる視界に小さな人影が見えた。  さらりと風に揺れる濡れ羽色の瞳と、すらっとした体躯。この距離からでも美しさを損なわない顔。会いたくてたまらなかったその人を見つけ、アーティの鼓動がいっそう跳ねる。  だが刹那、フランチェスカの仮面を頭上に掲げたマコトの肢体がぐにゃりと歪んだ。比喩ではなく、物理的に。  押し潰された内臓からせり上がった喀血を浴びた不可視の存在が、鮮血によってその姿を間接的に浮かび上がらせた。ひゅ、とアーティの息が詰まる。  デイドリーマーズが視えるフィリップの目は、マコトがHITO型の手に握り潰される様子をまざまざと映した。巨大で強大な存在は獲物を両手で上下に引っ張り腰骨を砕くと、食べやすいように背中側へ二つに折り畳む。  極上の食事を運んだのは正面を飾る顔の口ではなく、十の頭がぐるりと生えた首。  すると、一本の緩やかな曲線を描くよう、首元に亀裂が入る。重そうな頭を後方へ逸らして露わになったそこに、頑丈そうな歯がびっしりと生えた口が現れた。 「やばっ……!」  冷や汗を浮かべたフィリップの眼下で、首が裂けそうなほど口が大きく開かれる。この世の全てを吸い込みそうな奈落へ、マコトはフランチェスカ諸共(もろとも)放り込まれた。 「マコト先生!!!」  泣き叫んで手を伸ばすアーティを抑え込んで、フィリップが着地の体勢を整える。その間にもHITO型は味わうように何度も咀嚼し、余すところなく噛み砕いた。  千切れた手足、砕ける骨、飛び散る内臓。デイドリーマーズが視えないアーティの目には、粉々になっていく肉体だけが残酷にも色鮮やかに映る。  永遠にも思えた浮遊感が終わり、二人は天井に潰された観客席へ降り立った。先に辿り着いていたタマキはその光景を前に為す(すべ)なく立ち止まり、耳をぺたりと垂らしている。  アーティはフィリップの肩から飛び降りると、制止も聞かずフィールドへ駆け出した。 「マコト先生っ……!」  溜まった海水に足を取られ、ふらつきながら近づく。  HITO型はもう元の姿がわからない食糧を、それはもう丹念に咀嚼した。巨像が視えない者には、まるで肉片が形を変えながら宙を漂っているように見える。  呆然と頭上を見上げるアーティの目の前で、マコトだった肉塊が嚥下(えんげ)された。  底なしの胃袋へ向かう道中、肉塊は淡い光を放ち――……やがて、消えた。 「い、や……」  力なく水中に膝を着く。涙を流すことすら忘れた青い瞳は光を失い、ただ虚空を見つめるだけ。  すると久々の食事に満足したHITO型が、大きな噯気(げっぷ)を吐き出した。排出された空気は突風となり、フィールドの海水をいとも容易く吹き飛ばす。  抗う気力もなく波に流されたデニムジャケットの襟をタマキが咥え、どうにか浅瀬へ引っ張り上げた。  青い晴れ間が覗く崩れた天井から、吹き飛ばされた飛沫が雨となって降り注ぐ。スコールのように激しい海水の雨は、アーティの悲痛な慟哭さえも掻き消した。
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