空腹と、日常

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空腹と、日常

「明日はラヴィに会いに行く日なので、今夜はパリのアパルトマンに帰りましょう」  夕刻。探索報告を終えたマコトと並んで帰路についたアーティがそう切り出した。  日が落ちたドイツの華やかな古都を寄り添い歩く二人には、帰る家が二つある。一つは藤が咲く日本の邸宅。もう一つはパリは第5区カルチェ・ラタンのアパルトマン。アーティが押し掛け女房の真似事をしていた部屋だ。  あの騒動のあと無事保護されたラヴィは、現在パリ郊外にある研究施設で暮らしている。自身を生み出した、言うなれば母のような存在のアーティに心を開いていることもあり、定期的に面会の機会を設けられているのだ。  アーティはすっかり慣れた様子で鍵を使い、買い物を終えたミュンヘンのスーパーの裏口からパリのアパルトマンへ移動した。 「ここに帰ってくるのも久しぶりだね」 「三ヶ月ぶりですもん。先にシャワー浴びます?」 「そうしようかな。しばらく川で水浴びしかできなかったし」  荷物を置いた後ろ姿がバスルームへ向かうのを見送り、アーティは買い込んだ食材をコンパクトなアイランドキッチンに並べた。今日の夕食はマコトたっての希望により、大好物のスペシャル・キッシュだ。もちろん鬼才アーティシェフの腕前は健在である。  壁の向こうからシャワーコックを捻る音が聞こえた。かつての夢見がちな少女なら、音だけで血管がはち切れそうなほど大興奮して素っ頓狂な悲鳴を上げていただろう。五年経った今では、せいぜいルージュを引いた口元がだらしなく波打つ程度だ。……いや、正確には内に秘めた感動と興奮を押し留めるために奇妙な痙攣が止まらない。健康診断時に産業医に相談したら悪性のない不治の病だと言われた。 (それもこれも全部、マコト先生が綺麗すぎるのがいけない!)  ダン! と勢いよく包丁を振り下ろし、ブロックベーコンを一刀両断する。豪胆な包丁裁きは相変わらずであった。  大好きな人が当たり前に隣にいてくれる幸せを噛みしめ、キッチンからコンパクトな1LDKの室内を見渡す。以前は必要最低限な生活用品が煩雑に置かれているだけの倉庫のような部屋だった。今は二人分のカトラリーやコップが並び、寝具を兼ねていたソファの代わりにダブルベッドが置かれている。入室禁止だった現像用の暗室にも自由に出入りすることが許された。  アーティという存在が完全に溶け込んだ部屋には、彼女が望んだ「当たり前の日常」が常に流れている。それが家主にとっても何よりの幸福だ。バスルームから出たマコトは、危なっかしい手付きで野菜を切り刻む後ろ姿を眺め、心からそう思った。 「――それで、先週クロエさんとカタリナちゃんをあっちの家に呼んで、ララさんと四人で女子会をしたんですよ」  並んで料理をしながら、何てことはない幸福な日常を語る。相槌を打ちながら手際よくサラダを用意する隣で、瓶ごと鍋にぶち込まれる適量外の胡椒。「また補充しておかないと」なんて、マコトは何の気なしに考えた。  ところで。クロエは前線から身を引き、今は恵まれない子どもたちを支援する団体に所属して孤児の世話をしている。格差社会のパリには路頭に迷う子どもが多い。自分と同じような境遇の子どもたちを守るため、与えられた時間を費やすことを決めたのだ。  カタリナは研究所の所長になったフィリップの警護を指揮している。唐突に姿を現した未知の生命体との共存を先導する旗印には、様々な理由で敵が多い。特に視えないものを視えないままにしておきたかった輩にとって、フィリップの存在は忌むべきものらしい。おかげでカタリナも毎日退屈しないと語っていた。 「クロエさん、もうすぐ予定日なんですって。女の子らしいですよ」 「楽しみだね。ユリウスはSORA型を追って……今は台北だっけ?」 「ええ。ユリウスが時差も考えないで毎日欠かさずリモート通話してくるから鬱陶しいって、たっぷり惚気られちゃいました」  話すと長くなるのだが、色々とすったもんだした末にようやく結ばれたユリウスとクロエに、もうすぐ新しい家族が生まれる。こんな未来が訪れるなんて、あの混乱の最中(さなか)は考えもしなかった。 「……アーティ」 「はい?」  呼べば当然のように微笑みかけてくれる存在に胸が燻ぶられたマコトは、料理をする手を止めて後ろから抱き(すく)めた。  最近のアーティはマコトと同じくオーバーサイズの服を好む。生活を共にしていると趣味趣向が似て来るのかもしれない。  首元まであるゆったりとしたニットの柔らかさを頬で堪能し、鼻先で敏感な耳元を掠める。 「ちょ、せんせっ……」 「お腹減った」 「……今、作ってますけど」 「先にこっちを食べたいな」  欲望に素直な生き物だった男は、赤毛が緩やかにまとめられた項に軽く歯を立てた。甘く痺れるような痛みに、抱き締めた身体がふるりと小さく震える。  何せRIKU型巨像の調査で三ヶ月も密林の奥地へ放り込まれていたのだ。鍵を使える扉もなかったせいで、アーティが不足している。死活問題だ。  食べたい。一つになりたい。  本能的な欲求に煽られ、料理どころではなくなってしまった。それは背後からニットの上をまさぐる手に熱を灯されたアーティも同じで……。 「明日、朝早いから……」 「ちょっとだけ」 「ほんとに?」 「たぶん?」 「……もう」  絶対にちょっとでは済まない。が、普段は淡白に見えるマコトから甘えられるととことん弱い自覚がある。何度こうして流されてしまったことか。だが翌朝に残る鈍い痛みでさえ愛おしく感じてしまうのだから、仕方がない。  煙を上げて煮え立つ臓物(キッシュ液)の火を止めて、ちらりと背後を見やる。  悩まし気に振り向いた唇が深く(ついば)まれ、重なり合う影が(もた)れた。  いつか本当に食べられてしまいそう。それでも構わない。きっとこの人なら綺麗に食べてくれる。  腹の奥にずくりとした重い熱を宿しながら、そんなことを思った。
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