32人が本棚に入れています
本棚に追加
新たな先導者
まだ薄暗い早朝に目覚めたアーティは、サラダと作り半端のキッシュ液が放置されたキッチンをベッドから気怠げに眺める。指一本動かすのも億劫だ。
(体力つけないと、もたない……)
結局、本能のまま食らい尽くされてしまった。お陰様で肌艶はここ三ヶ月の中で絶好調だが、如何せん身体が悲鳴を上げている。
アカデミーと研究所の往復ばかりで運動不足だし、この際ジム通いでもしようかと本気で悩む。そうでもしないと、いつか彼の愛情を受け止めきれなくなりそうだ。
甘噛みの痕が残る首を捻り、後ろから素肌でがっしりホールドしてくるマコトの寝顔を眺める。眼福、眼福。昇った太陽が沈むまでずっと見つめていたい。
だが今日はラヴィとの面談日。決められた時間にパリ郊外の施設へ行かなければならない。アーティは甘く軋む身体に鞭を打って、どうにかベッドから抜け出した。
出発時間ギリギリに大欠伸をしながら起きた愛しい捕食者と身支度をし、無人水素タクシーに乗り込んで一時間半ほど。マコトは左眼が蘇ったことで鬼門の乗り物酔いも克服することができた――……
「おぇぇえええええええ゛っっっ」
……はずなのだが。
AI操作による自動運転とどうにも相性が悪いらしく、無人水素タクシーが天敵なことに変わりはなかった。ヘリコプターや飛行機には問題なく乗れるのに、不思議だ。道中幾度となく休憩を挟み、アーティは苦笑しながら何度も丸まった背をさする。
気晴らしに備え付けのテレビの電源を入れると、良く知った人物の名前が聞こえてきた。
『フランス時間で本日未明、アメリカニューヨークにて国連総会が開かれました。総会は半日続く予定で、現在は魂魄類生物国際研究所のフィリップ・ライザー所長が登壇し、定期報告が行われています』
ライブ中継に変わったモニターに二人の視線が集中する。
しなやかな身体のラインに合った上等なジャケットを着こなす背の高い男が、カメラに大きく抜かれた。
『――現在、半可視化の状態にあるのはHITO型巨像の派生に限りますが、彼らの生態系をより詳しく、そして正しく理解することで、他四種の魂魄類生物を視認できる人間が増加していく可能性があります』
止まないフラッシュの中心で堂々とスピーチを披露する柔らかくも凛々しい表情は、一切隙を見せない。それは人類存続の使命を一身に背負った頼もしい先導者の顔で、中継を見た人々が安堵する様子まで想像できる。
『研究所には現在HITO型三名、RIKU型、UMI型及びSORA型が二匹、そしてKAMI型一体のアレセイアが合流しています。彼らの協力によって魂魄類生物の生態解明は加速度的に進みました。今は共存の意思を示したHITO型巨像との意思疎通を実現するため尽力しています』
専用食であるエネミーアイズは、始まりの写真を投稿したアカウント名にちなみ「アレセイア」とその名を改めた。敵を意味する名前をいつまでも冠するわけにはいかない。異存は一切出なかった。それに彼らは全てを知る存在。つまり真実そのものだ。
『ここでお話しした内容は、いついかなる時も所属や国籍を問わず誰もが知ることができるよう、研究所の公式サイトに公開されています。地球の歴史を共に生き抜いた隣人により多くの関心が寄せられることを、切に願います。ご清聴ありがとうございまし「センセェーーーーーッ! アマゾンのレポート読んだよ! RIKU型の排泄物を摂食種が食べてたってホント!? 食糞ナマで見たかったよぅ! やっぱり荷物に紛れてついて行くんだったぁ!!」
感嘆をぶち壊す雑言が施設のエントランスに響き渡る。ニュースを見ている間に目的地へ到着した二人を、なぜかニューヨークの国連総会に出ているはずのフィリップが出迎えてくれた。
「やっぱり会見用ヒューマノイドだったんだね。どおりで行儀が良すぎると思った。別人じゃん」
「センセーってばひっど! 限りなくボクに似せて作られたオーダーメイドカゲムシャフィリ丸3号機改修型ヨソイキEXに謝って! まぁ最新AIにも勝るボクの天才的頭脳は再現不可能だったみたいだけどねぇ!」
ドヤァァアア……とふんぞり返るフィリップだが、所長就任初の記者会見でその天才的かつ狂気的な頭脳ゆえに要らぬことまで全世界発信電波でベラベラとしゃべくり明かした前科がある。会見用ヒューマノイドの製造が最優先急務になるくらいには、相変わらずのイカレっぷりだ。
すると、腰に手を当てドヤる長身の後ろから桃色の髪がひょこっと現れた。
「一応警護も兼ねてるんですけどねぇ。しぶちょ……じゃなくてしょちょーってば、物騒な連中に命狙われまくってますしぃ」
フィリップの背後から顔を出したのは、チャームポイントだったツインテールを下ろして大人っぽい印象に変わったカタリナだった。所長専属の警護班を率いる指揮官はトランシーバーで施設内部の管理室へ連絡を取り、厳重な警備の門を開けさせた。
ヴィジブル・コンダクターが情報の秘匿と汚職による引責で解体されて五年。後継組織のトップに就いたフィリップを逆恨みした旧本部の連中が、今なお休みなく暗殺者を送り込んでいる。信念のない落ちぶれた集団に成り下がった者たちは手段を選ばない。そろそろニューヨークで定期報告を終えたフィリ丸3号機改修型ヨソイキEXが襲撃されている頃合いだろう。
「ほんっと毎日スリリングで飽きないよね! 昨日なんて水の槍を頭から降らされて、危うく串刺しになるところだったんだから!」
水の槍。
アーティの脳裏には、ビンツでのウエディングフォトが鮮やかに蘇る。
「ヴァイクさん……」
「無事にUMI型のアレセイアとして受肉したっぽいねぇ。旧本部の連中に飼われてるのかはわからないけど、花嫁の仇討ちが目的なのは間違いない。カタリナ、二人にあれを」
白を基調とした清潔感のある施設内を先導して歩くフィリップが指示し、カタリナの両目が白亜の床に映像を投影する。彼女のアイデバイスが録画した戦闘記録の中に、海の色の長い髪を一つに束ねる男の姿があった。堀の深い精悍な顔立ちは憎しみに染まり、迸る水の隙間からこちらを鋭く睨みつけている。
「お二人のガジェットにも情報共有しておきますねぇ。一応忠告しておきますけど、話を聞いてくれるような感じじゃありませんでしたよぉ」
「だとしても、殺し合う理由にはならないね」
「はい。マリーさんのことも、ちゃんとお話ししなくちゃ」
ヴァイクが愛ゆえにマリーの魂を食べず輪廻に留まったことで不浄が強まり、彼女の人生をより過酷なものへ変えた。不浄な魂は持ち主の悪性を高め、さらにはその人自身に稀有な困難を強いたりもする。マコトと何度も別れを繰り返していたアマネのように――。
人間がようやく歩み寄りを始めた今、対話を放棄したくはない。マリーを怪物に変えた多くの要因を知ったからこそ、ヴァイクと話がしたいと強く思う。
「二人ならそう言うと思って、カタリナが見逃してくれたんだよねぇ」
「今回だけですぅ。あたしは自分の宝物に手を出されてもやり返さないお人好しにはなれませんから」
「キャッ♡ 宝物だってぇ!」
「ふふっ、オッサンは自重してくださ〜い♡」
宝物に向かって毒を吐く年頃のカタリナに撃沈し、アラフォーには見えない若々しい背中を丸めて力なく歩く。
透明性のある組織のトップとしてメディア露出が増えたことで一部から「老いを忘れた美魔男所長」と謳われているが、その中身はむしろ老いを知らない子供心の塊だ。若々しさとは新鮮さである。いくつになっても底が尽きない探究心がある限り、彼は同じ量のエネルギーを燃やし続けるだろう。
「それを忠告するためにわざわざここで俺たちを待ってたの?」
「ノンノン! もちろんそれもあるけど、今日はラヴィの定期アプデの日だからねぇ。あの子の処遇はボクの預かりだから、監督責任をぜーんぶ押し付けられてるの!」
だってお前が生かしたんだろうが、と周囲を慌ただしく行き交う職員たちがキッと最高責任者を睨みつける。ここの施設は組織の枠組みから独立しており、フィリップの私的所有物でもある。所長発案の無茶な研究題材や突飛な実験は日常茶飯事だ。つまり、ユーモラスでデンジャラスでファンキーなイカれた職場である。
最初のコメントを投稿しよう!