巡り廻る命と

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巡り廻る命と

 ユリウスはああ見えて重度の愛妻家である。元から愛情深い男ではあったが、それを遺憾なく注げる相手に恵まれてからは、枷が外れたように愛で尽くした。  一日の始まりと終わりには必ず唇を寄せ、教会へ奉仕に行くクロエをどれだけ忙しかろうと毎朝毎晩送り迎えし、誕生日には毎年年齢と同じ本数の薔薇を欠かさず贈り、下賤な男が欲望を滾らせた指で彼女に触れようものなら人知れずちびらせる。クロエに黙って通信ガジェットのGPSを共有していたことがバレた時には半殺しにされた。  その強面で溺愛男属性(ヤンデレ傾向)だったとは。Web小説を嗜むクロエ(ロマンス・インパクト参照)は「二十年前のテンプレかっ!」と麗しい顔を赤らめて謎にキレ散らかし、「そんなお前も美しい」などと(のたま)う旦那からさらに溺愛されるという、どうぞお好きにやってくれ的な幸福の循環が成り立っていた。  妻のためなら死ねるが妻のために死ねぬ精神のユリウスが出産を控えたクロエを一人残して台北に飛んだのは、台湾上空に出現したSORA型に対処するため。奴は空から戦意を振り撒き戦争を引き起こす。現地の有力者と協力して事態を迅速に収拾する必要がある。東アジアの命運は、経験豊富で作戦遂行能力の高い有能な男に託された。 「一瞬たりとも離れたくない」と妻の膝に泣きついて散々駄々をこねる旦那の尻を蹴飛ばし、台湾行きの飛行機へ押し込んで一ヶ月。関係諸国との息が詰まりそうな緊張感は続いているが、ユリウスの尽力によりどうにか戦争は始まらずに済んでいる。  世界が彼の力を必要としているのだ。出産くらい、一人で乗り切ってみせる。今までもあらゆる修羅場を経験したのだから。  そう意気込んでいたクロエの虚勢を、凄まじい陣痛が跡形もなく粉々に打ち砕いたのだった。 『四六時中ベタベタくっついてくるくせに何でこんな時に限って傍にいないのよぶぁあああああああか!!!! たかだか一万キロくらいの距離、すぐ飛んで来なさいよ!! それでも私の旦那かーーーッ!?!?』 『だ、だから今マコトとそっちに向かって、』 『うっさい! こっちは寝起きからずっとふんばってんのよ! いい、もう産む! 産むから! あんたが来るのなんて待ってられない!! 一人で産んで離婚してやるからぁぁあああぁああああ!!!』 『え、ちょ、クロエ、あ、わ、う……』  これは分娩室とリモートで繋いだ時の記録である。  気が触れるような陣痛に癇癪を起こし、光学モニターが割れそうなほど鋭い眼光で怒鳴り散らす美しくも恐ろしい妊婦。そして我が子の誕生と共に離縁を宣告されて涙目の旦那。いつになく賑やかな出産現場に、助産師たちの朗らかな笑い声が響いた。  台北出張中のユリウスに代わって緊急連絡先となっていたカタリナが病院から連絡を受けてすぐ、一行はその日の予定を全てキャンセルしてクロエの元へ駆けつけた。が、分娩室から響くあまりの絶叫にマコトとフィリップは青い顔でアワアワするだけで、全く役に立たない始末。  しっかり者の女子二人が 「ユリウス先輩のGPSゲットォ! 台北市街北区2キロ圏内! フィリップしょちょー、チート権限でこれから一週間の先輩のリスケお願いしまぁす!」 「マコト先生、今すぐユリウスを拾って来てください! はいこれ、台中行きの鍵! 今からなら五分後発台北行きの新幹線に間に合います! 2番ホームですからね! 急いで!」  と、見事な連携で指示を出し、どうにか事無きを得た。  トラベルガチャを駆使して迎えに行ったマコトと合流し、出産間際の分娩室へユリウスが滑り込んでから数分後。母親に負けず劣らずの元気な産声が響いた。  翌日。母子の容態が落ち着いてから改めて病院を訪れたアーティとマコトは、産まれたばかりの赤ん坊を前に揃って顔をふにゃふにゃに(とろ)けさせた。  仏頂面がデフォの父親の面影を微塵も感じない穏やかな寝顔は、昨日生まれたばかりとは思えないくらい整っている。目を惹く輝かしい銀髪も見事だ。ノエル家の遺伝子、強い。 「はうぅぅぅっ……! きゃわいい……! 聖母マリアの生まれ変わりですか? お布施あげちゃうっ! 札束持ってきたんです!」 「新生児に何てこと言うのよ、普通に怖いわ」  相変わらずのアーティ節に呆れ果てるクロエだが、ベッドの上で我が子を抱くその表情は出産前よりも柔らかく、穏やかだ。自然と沸き上がる母性がそうさせるのだろう。腰まであった銀髪は肩にかからない程度に切られ、微笑む口元の近くで猫っ毛の毛先がくるくると表情を変える。三十代に突入しても衰えぬどころか魅力を増す美貌が末恐ろしい。 「名前はまだ決まってないの?」 「それは……」  マコトに悪気は一切ない。だがなぜかクロエは急に口ごもり、瞳に影を落とした。  ベッドの柵に掲げられた新生児の名前を入れるプレートは、誕生から一日経っても空欄のまま。まさか何も決めていないはずはないだろう。  するとリモートで何かの手続きをしていたユリウスが立ち上がり、伴侶の腕の中で眠る我が子を撫でる。サイドテーブルの上に投影された光学モニターには、新生児の名前が記された出生届が表示されていた。 「ミカエラだ。性別がわかってすぐ、二人で話し合って決めたんだ」  その名を告げると、赤子を抱く肩がびくりと震える。黄金の双眸は今にも泣き出してしまいそうなほど潤み、何かから耐えるように(うつむ)いた。  ミカエラはヨーロッパで広く使われている女性名で、守護聖人として様々な教典で語り継がれる大天使ミカエルに由来する。――フランスでは、男性名で『ミシェル』と呼ぶ。  フランチェスカのアトリエに弟の亡骸を迎えに行った際、僅かに残されたミシェルの魂を食べてくれとタマキに頼んだのは、他でもないクロエだ。あと数時間遅ければ魂は自然消滅を迎え、生前の不浄を抱えたまま第二の不幸な人生が始まるところだった。アマネやマリーのように……。  目を逸らし続けた弟の死と向き合った彼女にとって、その名は大きすぎる意味を持つ。 「……本当に、いいの?」  二人で決めたはずなのに、クロエはどこか怯えたようにユリウスへ問う。  未だに弟の存在に囚われていることを後ろめたく感じているのも事実だ。そもそもクロエには結婚するつもりも、ましてや子どもを授かる気など一切なかった。あらゆる概念がひっくり返った世界には彼女を裁く猶予はなく、罪はうやむやにされてしまったから。  せめてもの償いのために教会に属して社会奉仕を始めたのだが、どれだけ子どもを飢えや虐待から救っても、あの日見た仲間たちの死に顔を夢に見る。終わりのない贖罪だ。クロエは死ぬまで罪を償い続ける。こうして五体満足に生きていること以上の幸せは望まない。  そう意固地になっていた彼女を口説き落としたユリウスの愛情深さを、簡単に見くびってもらっては困る。 「お前が弔ったミシェルの魂も、いずれ新しい命に生まれ変わる。だが、大切だった存在を想い続けるのは悪いことじゃない。だからミシェルの存在ごとクロエという人間を愛そうって決めたんだよ、俺は」  ユリウスは今にも泣き出しそうな妻を抱き寄せ、絹糸のような麗しい銀髪を指先で梳いた。  たとえ魂が生まれ変わろうと、残された者が何もかもを置いて前に進むことだけが正しいわけではないだろう。過去を過去として葬れる人間の方が少ない。クロエが犯してしまった過ちからどんなに自分を責めようと、大切な存在を想い続けることを負い目に感じる必要はないのだと、ユリウスは一生をかけて証明していく覚悟だ。 「それに過保護なあいつのことだ。クロエを心配して、生まれ変わっても案外すぐ近くにいるかもしれない」  ミカエラの名前には未練や後悔ではなく、そんな願いが込められている。  冗談交じりで言うユリウスの胸の中でとうとう肩を震わせたクロエを見て、アーティも瞳を潤ませた。  クロエには未来を共に生きる娘と、彼女の弱さごと愛してくれる人がいる。だからもう、きっと大丈夫だ。
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