二人で歩く道

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二人で歩く道

 病院からの帰り道。  日没近くのパリ市内を歩いていたマコトとアーティが、小道からセーヌ川沿いの遊歩道へ出た。建物の照明が反射する川面に、淡いオレンジ色の光がかかる。太陽の残り火を追いかける空の青がグラデーションになり、美しいマジックアワーが広がっていた。  この光景が見られるのは日没後のほんのわずかな時間だけ。鞄からデジタル一眼レフカメラを取り出したアーティは、川にかかる橋の上まで小走りした。 「綺麗……」  ファインダーを覗く瞳が光を吸収して細かく輝いた。まるで光を閉じ込めた宝石のようだ。  彼女の視界にはいったいどれくらいの色が溢れているのだろう。美しい光景にとろんとした青の瞳に釘付けになり、マコトも自然とシャッターを切っていた。  一瞬を切り取る音が自分へ向けられていることに気づいたアーティが、気恥ずかしそうに首をかしげる。 「マジックアワー、撮らなくていいんですか?」 「それを見てるアーティの方が綺麗だったから」 「…………」  赤らめた頬を膨らませて、惜しげもなく恥ずかしいことを言い放つ絶世の美男を無言で連写した。一種の意趣返しだが、本人は幸せそうに微笑むだけ。悔しいことに没カットはなかった。 「お母さん見て、フェーが飛んでる!」  二人の背後を歩いていた少女が頭上を指さす。つられて空を見上げれば、背中から羽根を生やした二頭身の赤子のようなHITO型の摂食種(イート)が飛び交っていた。最近パリに住み着いた穏やかな群れで、この時間帯になると活動が活発になる。  幻想的な景色に大きな瞳を輝かせる少女に反して、母親はそそくさと家路を急いだ。  興味、憧れ、畏怖、憎悪――関心には、種類がある。全ての人間がデイドリーマーズに肯定的なわけではない。今は、まだ。  早足で歩く母親に引きずられてもなお頭上を見つめる少女とすれ違い様、マコトは「透明な金魚も一緒に飛んでるよ」と小声で告げた。驚き振り返った彼女へ、人差し指を唇に当てて微笑む。少女は美貌の東洋人と目が合った途端に顔を赤らめて、再び期待に満ちた目で空を見上げた。  その様子を見て満足気な表情を浮かべるマコトを、アーティは半目でチクリと刺す。 「先生ったら、またいたいけな女の子の心を弄んで……」 「ただ教えてあげただけだよ」 「マコト先生の微笑みは国を傾かせます」 「じゃあアーティの笑顔で枯れた大地に花が咲くね」 「……熱でもあるんですか? もう不老不死じゃないんだから、風邪にも気をつけないと」  確かに、マコトはもう不老不死ではない。心臓を銃で撃ち抜かれたら死ぬし、タンスの角に小指をぶつけたら痛みで悶絶するし、冬空の下を薄着で歩けば風邪だって引いてしまう。美貌は相変わらずだが、よく見れば皮膚の薄い目元や手の甲には五年分の老いが薄っすらと見られる。フィリップが与えてくれた戸籍上では三十代に突入した。彼は着実に、人の時間を歩んでいる。 「でも……私にそんなこと言ってくれるの、先生だけなので。冗談でも嬉しいです」 「冗談じゃないし、俺以外から言われてても困るんだけど」  本人は何もわかっていないのか、はぐらかすように微笑むだけ。アカデミーの授業なんてリモートにできないのだろうか。できれば一人で外を歩かせたくない。ひどく狭い心は、本気でそんなことを考えてしまう。こちらもユリウスに負けず劣らずな溺愛男属性だ。  愛されることを受け入れたアーティは、日に日に美しくなっている。彼女の魅力に寄って(たか)る男たちを牽制するのもライフワークになってしまった。留守にしている間に誰かに取られてしまわないか、マコトはいつも気が気じゃない。  だから、だろうか。 「ねぇアーティ」 「はい?」 「結婚しようか」  今日の夕飯を語るように、ふと思い浮かんだことを口にした。ユリウスとクロエの夫婦愛を見せつけられた影響もあるのかもしれない。自分たちの関係性にきちんとした名前をつけたいと、不意に思い至ったのだ。  どんな反応をされるのか少しだけ胸を躍らせながら隣を盗み見た。喜んでくれるか、もしくは驚いてくれるか。あの素っ頓狂な悲鳴も久々に聞けるかもしれない。  だが浮足立った想像のどれとも違った反応に、普段から青白いマコトの頬がさらに青褪めた。  終わりかけのマジックアワーに照らされたアーティが、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。 「アーティ……?」 「っあ、ご、ごめんなさいっ! びっくりしちゃって……」  湿った目尻を手の甲で拭い、ぎこちなく微笑み返される。一体何が彼女にそんな表情をさせるのかわからず、マコトは咄嗟(とっさ)に抱き寄せた。 「ごめん、俺また何か間違えた?」 「いえ、あの……」 「言って。ちゃんとアーティの気持ちを聞かせて」  察するとか、空気を読むとか、人間五年生のマコトにはまだハードルが高い。特に色恋に関してはてんで駄目だ。以前クロエから「アネットじゃなかったらとっくに見限られてるわよ」と言われて、ぐうの音も出なかった。  何か自分本位な行動で傷つけたり、不安にさせてしまっていたのだろうか。でも、言葉にしてくれないとわからない。肩に埋めた鼻がスンと鳴ったことで、抱き締める腕の力を更に強めた。 「……マコト先生は恋人とか、夫婦とか、家族とか、そういう名前がついた関係性にはあまり興味がないんだって思ってたから……」 「どうして?」 「だって……」  口ごもるアーティの頬を両手で包み、濡れた瞳を至近距離で見下ろす。だがフイッと外された視線は、自信なさげに宙を彷徨(さまよ)った。 「――……私、マコト先生から『好き』って言われたこと、ないですもん」 「は?」  被せるように口を突いて出た大きめの「は?」に、青い瞳がさらに気まずそうに泳ぐ。マコトも冷や汗をダバダバ垂らしながら「いやいや、いくら何でもそんな馬鹿な」と半信半疑で記憶を辿る。  最初に身体を重ねた時。  命運を共にしたトーキョーでの一幕。  一緒に暮らし始めたここ五年間。  記憶の中のアーティはいつも「先生、大好き」と甘く囁いてくれるが、同じ言葉を返した記憶がなぜか出てこない。 (あれ……?)  眉間の皺はいっそう深まり、背筋を冷たい冬の風が叩く。 「せ、先生の愛情を疑っているわけじゃないですよ? だけどわざわざ言葉にしないってことは、恋人とか夫婦とかそういう小さな括りじゃなくて、もっとスケールの大きな何かに分類されたのかなって勝手に思ってたんです。ほら、先生って色々と規格外じゃないですかっ」  罰が悪そうなアーティが矢継ぎ早に弁明する。この状況で気を使われているのも心底情けない。  スケールの大きい何かって何だ。規格外な愛って、何だ。  マコトは自分がやらかしていた事の重大さにようやく気がついた。  ただ傍にいることに過大な幸せを見出していたアーティにとって、彼の提案は突拍子もないものだったのだ。 「ごめん、本当にごめんアーティ」  自分を『特別』から『普通』に変えてくれたアーティが当たり前に手にするはずの幸せを遠ざけてしまっていた。多くの女性が思い描くであろう幸せな未来を、諦めさせてしまっていた。 「い、いいんです。怖くて先生に確認できなかった私も悪いですし」 「良くないし、アーティは何も悪くない。……もう一回、ちゃんと言わせて」  固い抱擁を解き、潤んだ青い水面を見つめる。口下手だなんて言っている場合じゃない。もう時間は動き出している。通り過ぎる風のように思っていた人間の短い一生を生きているのだ。弁明の時間すら惜しい。それ以上にたくさん伝えたい想いがあるのだから。 「アーティのことが世界で一番好き。幸せにしたい。誰にも取られたくない。ずっと一緒にいたい。だから……俺と、結婚して」  指輪なんて用意しているはずもなく、格好悪いったらない。クロエとカタリナにバレたら散々に弄られるだろう。ユリウスは呆れ、フィリップは腹を抱えて大爆笑するに違いない。どこかの誰かに生まれ変わったマスターピースが「そりゃねぇわ」と快活に駄目出しする顔すら目に浮かんだ。アマネにはきっと「情けない!」と怒られるだろう。  それでもアーティと共に生きていきたい。ただ、それだけだ。  火が燃え移ったようにじゅわっと染まった目元が柔和に(とろ)ける。緊張で強張ったマコトの左手をおもむろに取り、指を交差させた。その仕草の一つ一つに胸の奥が狂おしくなる。 「先生に似合う指輪、探さなくちゃ」 「……逆じゃない?」  以前にもこんな会話をした気がする。ビンツ有数の高級ホテルの前だったか。おかしくなって吹き出した二人が微笑み合い、額をすり寄せ合う。あの日、水の中へ生まれ落ちた瞬間のように。  至近距離で見上げる二つの美しい月に、どうしようもなく胸が高鳴る。気づけばつま先に力を入れ、ぐっと背伸びをしていた。そうすれば簡単に唇が重なる距離にいることを望まれている事実が、この上なく嬉しい。 「マコト先生、好き、大好きです。初めて会った時からずっと。……先生の残りの人生、全部私にください。絶対幸せにしますから」  触れるだけの可愛らしい口付けをそっと解いて、一言ずつ噛みしめながら届ける。目を逸らさずに、ただ一人だけを見つめて。  自分よりもよっぽど様になるプロポーズがどこかへ飛んで行かないよう、今度はマコトが幸せそうにはにかむ唇を本能的に塞いだ。すると近くの教会から夕礼の鐘の音が響き渡る。新たな門出を告げる福音が続くあいだ重なり続けた二つの影は、やがて同じ方向に向かって再び歩き出した。帰るべき場所へ一歩ずつ、お互いの時を刻みながら。 「お帰りなさいませ、お二人とも」 「ただいま」 「ねぇララさん聞いて、あのね……!」 「にゃ~ん」 『デイドリーマーズ』―完―
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