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第10話 空腹の三ツ目デメキン
両脇は壁、大通りは数十メートル先。逃げ込めるような場所はない。
「どこの欠陥業者よ! 訴えてやるーーーッ!」
土煙が上がる路地にアーティの怒号が響き渡る。
後方スレスレに降り注ぐ鉄筋が容赦なく地面を抉った。下敷きになれば、間違いなく骨まで砕かれるだろう。
ついでに崩れた足場が破壊した外壁や、巻き込まれた外付け階段まで飛んできた。こんな大盤振舞は求めていない。
鉄の雨が降り注ぐ背後を振り返ることなく、マコトはひたすら走り続ける。
この騒ぎではドローンを撃墜してもすぐ居場所は割れるだろうが、視界不良で銃弾が飛んでこないのは不幸中の幸いだ。
だが、それ以前に気がかりなのは――。
(こんなに都合よく事故なんて起こるわけがない。だとすれば……)
鉄筋が舞う空を見上げたオッドアイが、白昼夢に住む生き物を捉えた。
それは三日月を背にして宙に浮かぶ、巨大な白いデメキン。
尾は薄く、月光が透けている。ウロコは爬虫類に近い。
そしてなにより異質なのは、ギョロリと飛び出た両眼玉の中央。ちょうど額にあたる部分にニョキっと生える、人型の上半身。身体は白いウロコと同色だ。
人型の顔部分のほとんどを占める大きな一ツ目が、逃げる獲物を見下ろしている。歯のない大きなおちょぼ口から、滝のように唾液が滴った。
デイドリーマーズの主食は、死んだ人間の魂である――。
平時であれば天寿の循環内で大人しく食事をしているが、飢餓状態になると人間の生死に干渉する。実体を持たないので直接殺すことはない。偶発的な事件事故、疫病を振りまいて、無差別に死を齎すのだ。
作業員が偶然ボルトを締め忘れ、倒壊事故に巻き込まれて男女が死亡――。それが、頭上の三ツ目デメキンが描いたシナリオだろう。
「悪いけど、俺を食う奴はもう決まってるんだ」
最後の鉄塊が土煙を上げながら路地に雪崩れ込む。
マコトは思いっきり地面を蹴って、デメキンの真上まで飛んだ。
突然の浮遊感に大きな悲鳴を上げるアーティを落さないように、片腕に担いでいた彼女の膝裏にぐっと力を入れる。
「急いでるんだ、邪魔すんな」
フリーの左手で拳を作り、身体の捻りに重力を加えた一撃を人型の一ツ目めがけて振り下ろす。
相手は特に避ける動作もしない。デイドリーマーズは一部の人間に視認されるが、触ることはできない。それが定則だ。実体を持たないのだから当然ではあるが。だからこそ複合現実に引きずり出すためのリアライズが開発された。
しかし……。
メリメリッ、バキィッ――!
風を切った鋭い拳は大きな眼球を抉り、水晶体まで粉々に破壊した。
初めて体感する痛覚。
デイドリーマーズは耳を劈く不協和音の絶叫を上げて地に落ちていく。
そして落下地点には、本日のメインディッシュを待ちわびる暴食猫が一匹。
「タマキ、食っていいぞ」
「うんみゃぁおぅ♡」
巨大デメキンにうっとりと目を細めたタマキが、大きく口を開けて鋭い牙を光らせる。
生意気にも食通な猫は、飛び出た目玉の硝子体に食らいついた。
本物であればゼラチン質でビタミンB1とDHAたっぷりの珍味だが、この不可視の化け物に栄養はない。あるのは、今まで喰らって生きてきた魂の残滓だけだ。
白いウロコごと綿飴のように食い千切る大食らいは、自分よりも何倍も大きな化け物をものすごい勢いで食い潰していく。
フードファイターも青褪める食いっぷりである。
脇目も振らず怪魚を貪るタマキの数メートル先に、マコトが身軽に着地した。
「先生、今なにかいました……?」
「空飛ぶでっかい三ツ目デメキン」
「ふざけてます?」
いつもと変わらない声色の男を、アーティがじとりと睨む。
それもそうだ。彼女には何もない空間に拳が振りかざされた瞬間に突風が吹き、下で待機していたタマキが気狂いしたようにしか見えないのだから。
あの老婆の怪物が視認できたことの方がイレギュラーなのであって、この状況が普通だ。
市街で頻発している凶悪事件と実体化した麦畑の怪物、そして空腹で気が立っている者たち――。
この特異な状況に、マコトはある結論を導き出した。
何らかの理由で現実世界に顕現した麦畑の怪物が食物連鎖を破壊し、既存のデイドリーマーズたちが飢餓状態に陥った。
飢えた者たちは天寿を無視した殺戮を敢行。
それが最近の凶悪事件に繋がっているのだろう。
おそらくこれからもパリの治安は悪化し続け、疫病や災害が頻発する。
生命の循環と食欲の均衡が保たれるまで、不幸な死は続くのだ。
(本当にいつの時代もろくなことをしないな、ヴィジブル・コンダクターは……)
老婆の頭を砕いた弾丸の驕りに、マコトは静かに目を細めた。
「ところで、タマキはさっきから何をしてるんですか?」
「夜食タイム。あと尾びれだけだからもうちょっと待っ――」
――パンッ!
突如、風を切るような小音が駆け抜ける。
直後にバランスを崩したマコトが前方へ傾き、担いでいた教え子に覆い被さるような形で地面へ倒れ込んだ。
「う゛っ……!」
押し倒されて腰と背中を強打した痛みに、くぐもった声が漏れる。
タマキも咥えていた尾びれを口から離し、ポカンと顔を上げた。
いくら細身と言えど成人男性だ。アーティは脱力したマコトの下から何とか這い出して、彼の名前を呼ぶ。
「マコト、先生……?」
声が震えた。
指一本動かない彼の背中を揺さぶる。その手に感じる生温い感触に、頭が真っ白になった。止まらない鮮血が石畳の溝を伝ってどんどん広がっていく。
狼狽えるアーティの背後に、執拗な追跡者が迫った。
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