第1話  トレビアン・ムッシュ

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第1話  トレビアン・ムッシュ

 花の都、パリ――。  その中でも第5区は名門大学が連なる学生街で、カルチェ・ラタンと呼ばれている。  歴史のあるムフタール通りには庶民的な商店街が並び、北を流れるセーヌ川周辺は文化的施設も多い。  シャンゼリゼ通りほどのラグジュアリー感はないが、比較的住みやすい街と言えるだろう。  そんな5区の一角に、学生人気の高い文房具店を一階に構えるアパルトマンがあった。 「マコト先生~! おはようございまぁ~す!」  赤茶色のポニーテールを快活に揺らす少女が、とある一室に向かって溌溂(はつらつ)とした声をかける。  彼女はアネット・フォン・ペルティエことアーティ。ここで暮らす日本人カメラマンにほぼ一方的に弟子入り志願した、若きフォトグラファーの卵である。 「……ははーん、まぁた寝過ごしてるな、先生。もしかして私のモーニングコールを待ってる? ふふっ、それも悪くないわね」  そばかすが印象的な頬を染めて、何やら一人でご満悦の様子だ。  無言を貫く冷たい扉を前に諦めるどころか、レザーのリュックから通信ガジェットを取り出して鬼電を始める。  十秒呼び出してはかけ直す行為を絶え間なく続けて五分ほど。固く閉ざされた木製の扉がついに開いた。 「おはようございます、マコト先生っ!」 「おはようアーティ。そしてさようなら」  つれない扉は3センチほど開き、またすぐに閉じようとした。が、すかさず女性物のショートブーツの爪先が滑り込む。恐るべき反射神経だ。  平日の昼間にまだ寝ていたい師匠(仮)と起きてほしい弟子(自称)の拮抗した攻防戦が繰り広げられる。どちらも全く譲らない。  ドアノブを引っ張り玄関を死守する男に対し、アーティは扉に手と足をかけてこじ開けようとする。  そしてとうとう、決着の時。  家主は手汗でドアノブに嫌われた。  軍配はアーティに上がり、扉は反動で思い切り外へ開く。その勢いのまま蝶番(ちょうつがい)を破壊。外れた扉は派手な音を立てながら、静かな午前のエントランスに転がった。 「…………」  「ほら、ドアも『おはよう』って言ってますよ」  デニムジャケットに包まれた細腕からは想像できない怪力を見せたアーティが、この状況に不相応なほど可憐に微笑む。  天真爛漫(物理)な彼女にとっては些細な出来事である。  そんなことよりも、だ。  ようやく顔を見せた師を前に、マリンブルーの大きな瞳が一瞬でとろけた。  尊敬と恋慕の入り混じった複雑な熱視線が、細身の男に惜しみなく注がれる。 (ふぁあああットレビアーン! 寝起きのアンニュイな表情もス・テ・キ! 今日も生きててよかった!)  アーティは心の内で、今生の師と仰ぐ男のご尊顔をこれでもかと拝み倒す。  センター分けの癖のない濡れ羽色の髪は短く切り揃えられ、青白い肌をより引き立てている。  すらりと伸びた手足はどちらかと言えば貧弱な印象だ。『たくましい』よりも『美しい』と形容したくなる部類だろう。  しかし本人は自分の容姿に無頓着なのか、首元がよれたVネックのシャツに糸がほつれたオーバーサイズのカーディガンを羽織っている。  そしてひときわ目を惹くのは、美しい顔に嵌められた世にも珍しいオッドアイ。海と月を模した作り物めいた瞳が、彼のミステリアスな雰囲気を助長させた。 (普通の人ならスタイルが台なしになる猫背も、ひっどいクマも、全てが魅力的だわ……! マコト先生は今日も世界一よぉおおっ!)  今日もアーティは通常運転である。けして違法ドラッグをキメているわけではない。一般人よりもほんの少しだけ、色恋の考え方がナナメ気味なだけだ。 「はぁ……とりあえず、入りなよ」  しぶしぶ、と言った様子で招かれたアーティは有頂天になって気づいていない。背後から大家であるマダムの鋭い視線が突き刺さっていることに。  扉を閉める前に『マコト』と呼ばれた男は、人たらしの営業スマイルで会釈する。  恰幅の良い大家はぽっと頬を染め、そそくさと部屋へ戻った。主人に先立たれた彼女はしっかり者で色々と口うるさいため、できれば良好な関係を築いておきたい。落ち着いたらミートパイでも差し入れて許してもらおう。  自由奔放なマドモアゼルに振り回されながら神経質なマダムのご機嫌をうかがう色男は、壊された扉を申し訳程度に玄関の木枠へ立てかけ、深い溜息を零した。
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