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第32話 フィルター越しに見た世界
白浜に静寂が満ちる。血染めの衣装にお色直しをした花嫁が、怪物の腕の中でその命を終わらせようとしていた。
「ヴァ、……ク……」
血は海へと流れ出し、リアライズされたヴァイクの青い疑似血液と共に海面に広がる。人とデイドリーマーズの関係のように、けして色が混ざり合うことはない。
マリーは朧げな視界の中で、最愛の怪物に手を伸ばす。
二人の幸せを写真に残したいという気持ちに、嘘はなかった。だがマリーは道を誤った。人知を超えた存在と心を通わせているうちに、彼女自身が怪物になってしまったのだ。
最初に手をかけたのは「気味が悪い」と言って自分をぶった両親。
「だいきらい。死んじゃえばいいのに」と嗚咽混じりに言うマリーの言葉を真に受けて、ヴァイクは両親が乗った漁船を渦潮で沈めた。
その時マリーが感じたのは悲しみでも罪悪感でもなく、愉悦と興奮だった。
虐げられ孤独に悲嘆するだけだったマリーは、それをねじ伏せる圧倒的な力を手に入れたのだ。
対人関係が希薄なマリーを唆して風俗の仕事を紹介した同級生の女。
そこで雇われ店長をしていた倫理観が著しく欠如したパワハラ男。
加虐趣味の最低な客。
ホテルのセクハラオーナー。
酔っぱらって絡んできた観光客。
このビーチに迷い込んだサーファー。
それから、それから……。
みんな、ヴァイクが始末してくれた。
マリーが言うのだから、それが彼の行動理由だ。そこに善悪の判断はない。自分を傷つける人が皆いなくなれば幸せになれると、マリーは本気で思っていた。
でも、二人の幸せは――。
「ヴァ……ぃ、ク……、ごめ、な……さ……」
マコトの言ったとおり、心優しい彼を正真正銘の怪物にしてしまったのは、自分だ。
そんな彼女の血に塗れた手を、白く逞しい手が手繰り寄せる。
(触れる……)
サメ肌のようにざらついた皮膚の感覚を、マリーは死の間際で初めて知った。実体を持たないヴァイクとは、いつも水を使ってコミュニケーションを取っていたから。
その存在を確かめるように、疑似的に具現化した身体を小さな手が撫でる。まだ外面的なデータ入力しかできていないので、白い上半身や鱗で包まれた表皮に熱はない。それでも確かにそこにいるヴァイクの存在を感じて、光を失いつつある瞳の縁から涙が溢れた。
(あ、れ……? 前にも、こんな風に……)
割れた天井。
快晴の空。
石造りの壁。
嵐の夜。
海の色。
不揃いな情景が脳内に次々とフラッシュバックする。
切り抜き写真のようにバラバラな記憶の中に、ヴァイクはいた。
まるで親に置いていかれた子どものように、そのどれもが寂しそうに微笑んでいる。
そして彼女は全てを思い出したのだ。
「ヴァイ、ク……あなた……」
――ずっと一緒。
――会いたいから、食べない。
そう言って巡り巡った時の中で、何度二人は愛し合ったのだろうか。
「ああ……そう、そうだったわね……」
マリーは最後の力を振り絞って、涙で濡れた頬をヴァイクの耳元へ寄せた。
血で染まった赤い唇を震わせる。
そして二人にしか聞こえない声で、懺悔を囁いたのだ。
一方、最後の別れを交わす二人を前に、ユリウスの銃口は下を向いたままだ。
「彼女、もう意識が……」
「ユーリ、手伝ってあげな」
「……はい」
片手では支えきれないほど重く感じる銃を、未だ死にきれずにいるマリーのこめかみ向ける。だが――。
「待ってください」
アーティの凛とした声が二人を制した。
「まだ、私たちのお仕事が残ってます」
彼女は血だらけのマコトを支えて立ち上がると、マリーとヴァイクの元へ歩み寄る。
手足の末端を震わせながらも、目の前の光景から涙が張る瞳を逸らそうとはしなかった。
「マリーさんがしたことは、確かに許されないことです。納得はできないけど、今はこうするしかないってこともわかりました。でも……先生にウエディングフォトを依頼してきた二人の気持ちは本物だと、私は信じたいです。マコト先生だってそうでしょう?」
血に染まる海も、死にゆく花嫁も、そんな彼女に寄り添う海蛇の怪物も。残酷で美しいその全てが、アーティの瞳には鮮やかに映る。それでも彼女は両手で顔を塞ぐことはなかった。
そしてマコトの手に銃ではなくカメラを握らせ、そっと背中を押す。
アーティはマコトが思うよりも、ずっとずっと強い。
そんな彼女に見送られ、血を流しすぎて覚束ない足取りで波打ち際に立ったマコトは、意を決してファインダーを覗く。
二人の悲しみを代弁するように、白波を立てる海面をヴェールが泳ぐ。
指先しか動かせないほど弱りきった手が、ヴァイクの頬に触れた。慈しむように輪郭を行き来するそれを白い手が包み、花婿は血を零す伴侶の唇へ顔を寄せる。
内部破裂で肉片が飛んだヴァイクの身体から流れ出る青い血液が、波に乗ってマコトの足元まで届いた。
――カシャ。
シャッターの開閉音が、花嫁の命と共にさざ波に乗って海へ攫われる。
マコトがフィルター越しに見た世界は残酷で、けれども鮮やかな愛を写した。色の少ない視界が滲むほど鮮烈に、美しく。
この世界のありのままを切り取る筐体の中で、マリーとヴァイクは確かに愛し合っていた。
「……遺体を回収して、手負いのデイドリーマーズを施設へ移送する。応援が来る前にお前らはさっさと消えろ」
ぶっきらぼうに言うユリウスをマコトが振り返った。
「見逃してくれるんだ」
「約束は守る。次に会ったときは必ず捕まえるからな」
規律や規則を重んじる生粋のドイツ人であるユリウスは、銃をホルダーに戻して支部へ連絡を取り始める。
マコトもアーティも少し休息が必要だ。今回はその言葉に甘えさせてもらおう。
だが海に背を向けようとしたその時。
視界の隅に新郎新婦の最後の姿を捉えたマコトは目を見開いた。そしてフィリップも。
「ユーリやばい……こいつ、魂を食ってる!」
――もう、夢から醒めないと。
――今度はちゃんと食べてね、ヴァイク。
愛する人の最後の願いを叶えるため、ヴァイクは口付けをしたままマリーの魂を貪っていたのだ。
デイドリーマーズの主食である魂は、怪物の力の根源である。
青い血をとめどなく流していた傷口はたちまち塞がり、蛇の半身は隆々とした筋肉で覆われて太さを増した。
マリーを殺された怒りに支配されたヴァイクは、荒波に轟く雷光のような激しい雄叫びを上げる。
「やばいやばいやばい! ユーリ! 情報更新、急いで!」
「クソッ! 今やってます!」
「ヴァイクさん……」
悲痛な慟哭に胸を痛め、少女はか細く彼の名を呼ぶ。
慌ただしくなった戦場で、今度は続けざまに通信ガジェットの警告音が台数分鳴り響いた。
聞いたことのない不穏なアラートにアーティが慌てて電源を入れると、『Warning』の黄色い警告表示の下に緊急速報が流れる。
「大西洋で海底火山噴火……!? 津波警報が出てます!」
「……まずい」
中央海嶺を住処にしている存在が、マコトの脳裏を過った。もともと青白い顔面からさらに血の気が引いていく。
奴が本当にここへ来るなら、こうして思考している時間すら惜しい。
マコトは咄嗟にヴァイクと対峙する二人へ向かって叫ぶ。
「二人とも逃げろ! 巻き込まれるぞ!」
「え……――」
フィリップがマコトの方を振り向いた瞬間、海が裂けたように爆発した。正確には大型船十隻ほどの水柱が上がったのだ。
驚いて頭上を見上げたウォッチャーの目に映ったのは、ビーチを丸ごと飲み込みそうなスケールの、巨大な鯨だった。
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