第35話 見下ろす者

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第35話 見下ろす者

 樹齢二百年はあろう巨木に(つる)を巻いた見事な山藤が、日暮れを運んできた風に揺れる。  舞い散る花弁(はなびら)が事切れた女性へ降り注いだ。赤く染まった胸元には、肋骨(あばらぼね)を砕いた斧が深々と突き刺さっている。その周囲を彩るのは、両の目玉の落ちた十数名の死体。  (むご)たらしい地獄絵図に立つのは、年端もいかぬ少年だった。  彼は添え物には目もくれず、(つたな)い足取りで女性の(かたわら)へ寄る。  流れ出た血の海に膝を着いても汚れることはない。  すっかり温度を失った頬に手を(かざ)しても触ることができず、冷たさすらわからない。  ないものばかりなのに、こんなにも胸が苦しい。  少年は開くことのない(まぶた)を見つめる。  瞳が閉ざされた理由は死ではない。彼女が幼い頃に巻き込まれた大火が(まぶた)を焼きつけ、二度と開かなくしたのだ。  ろくな手当てもできず痛ましく残った火傷の痕は、皮膚を引き()らせ輪郭(りんかく)を歪ませる。たまに山を登って来る(ふもと)の村の子どもたちは、盲目になった彼女を醜いと笑って石を投げた。本当に醜いのはどちらだろうか。  女性の両瞼(りょうまぶた)の上に幼い指を(かざ)すと、そのまま目玉をくり抜いた。正確には肉体ではなく魂の方を。  手の平に乗った目玉はじとりと彼を見上げる。長らく太陽光を浴びていなかった虹彩は薄らぎ、(ほの)かに灰色がかっていた。  彼は小さな口へ目玉を乗せた手を近づける。  魂を食べるのは自然の(ことわり)だ。。今までだってそうしてきたじゃないか。  だが口に含む直前でひくりと嗚咽(おえつ)が込み上げて、身体が硬直する。頬を伝う何かが目玉に落ちた。  ――嫌だ、食べたくない、食べられない……!  少年は背中を丸めて、その場に力なく(うずくま)った。  目玉を包み込むように重ねた手の平をこめかみへ押し当てる姿は、祈りにも似ている。  そんな明けない悲しみに暮れる二人を、遥か上空からが見下ろしていた。  西暦1783年5月、極東の島国、日本――。  成層火山である浅間山が断続的に活動を開始。同年7月、最大規模で噴火。  火山灰の直接的な被害、そして成層圏まで舞い上がった噴出物が太陽光を(さえぎ)ったことで、農作物は壊滅的な被害を(こうむ)った。  関連死者数が90万人を超えたと言われるこの惨劇は、天明の大飢饉と呼ばれている。
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