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第2話 いろちがい
アーティはマコトの部屋の匂いが好きだ。
先に断っておくが、変態的な意味ではない。
彼が暮らすアパルトマンは、築150年の1LDKである。独り身の男性には十分な間取りだ。
玄関を入ってすぐ右手にはユニットバスなどの水回り。廊下を抜けてさらに奥にはコンパクトなアイランドキッチンとリビングルームがある。
モスグリーンのベロア生地を貼ったソファの上には、ブランケットとクッションが乱雑に転がっていた。そこに寝ていたのであろうマコトのズボラっぷりがうかがえる。
恋する乙女は『ベッドを置かないなんてワイルドすぎる! 好きぃいい!』と、ますますメロってしまった。
さらに、リビングの隣にはフィルム現像用の暗室がある。光を入れないようにするため、アーティには入室禁止令が敷かれていた。
扉の奥から微かに漂う現像液のツンとした匂いに、彼女は慎ましやかな胸を踊らせる。
約30年ほど前に提唱された『サステナブルな社会を実現するための条例』により、近年ではペーパーレスが常識だ。本に触れたことがないという子どもたちも珍しくない。この時代で、紙は高級品の代名詞である。
写真の展覧会でさえ液晶画面表示がスタンダードだ。マコトのやり方は時代錯誤と言われるだろう。
でも、いや、だからこそ。普段の生活とは無縁の薬品と紙の匂いが仄かに漂う1LDKは、彼女にとって特別な場所だ。幼い頃に憧れた秘密の部屋に似ている。
一方的に押しかけた客にウェルカムドリンクが出るわけもない。アーティは慣れた手つきでウォールシェルフからドリップポットを手に取った。
家主は再びソファの沼に沈む。
勝手にIHの電源を入れる彼女を止める様子もない。
いつもつけっぱなしのラジオからは、三日前に市内の小学校で発生した銃乱射事件のニュースが流れている。
「マコト先生、今日のお仕事の予定は?」
「午前中は寝て、午後は機材の手入れ」
「普段通りってことですね! じゃあ一緒にお出かけしませんか?」
「え~……」
明らかに乗り気ではない返事をするマコトは、SNSを通して仕事を請け負うフリーのカメラマンだ。
人気すぎて首が回らないほど忙しい……という日は、見ての通りほぼない。月に一件でも仕事があればまともな方だ。
副業をしている様子もなく、彼の生計は謎に包まれている。そんなミステリアスな部分もたいへん魅力的だ(アーティ談)。
仕事以外ではインドア派なマコトは、彼女の誘いにあまり興味がわかないらしい。
話題をはぐらかすように、いつも首からぶら下げているレンズフィルターの手入れを始めた。
シルバーの枠で縁取られた円状のガラス体は、磨かなくとも手垢一つなく透き通っているのだが。
「スナップ写真の練習に付き合ってくれるって言ったじゃないですか。お天気もいいし、きっと気持ちいいですよ」
「うーん……」
「ついでにお買い物もして、夜はキッシュでも焼きましょう。もちろん私が作るんで!」
「よし、行こう」
気のない返事をしていたマコトが、その一言で食い気味に立ち上がった。
脱衣所へ向かう後ろ姿は別人のようにきびきびしている。
アーティは小躍りしたくなるような気持ちでコーヒーミルのレバーを回す。
豆が挽かれるガリガリという音楽に、軽快な鼻歌を乗せた。
脱力系ゆるキャラのようなマコトの行動理念は、食欲と直結している。特に弟子の手料理にはとことん目がない。
出会った当初は「教え子なんていらない」と何度も手の甲を振られたものだ。
だがアーティは簡単に諦める少女ではない。あの手この手で丸め込み、ひょんなことから彼の胃袋を完全掌握するに至ったのだ。今ではマコトの弟子兼専任シェフの肩書を思うがまま手にしている。
(胃袋の次は、ハートもゲットしちゃおう!)
優秀な弟子はどこまでも抜け目ない。
そんな魅惑の料理につられて、クローゼットを開く音が聞こえた。
しばらくして脱衣所から戻ったマコトが彼女の隣に立ち、ガラスドリッパーの用意を始める。
アーティは眼福と言わんばかりに彼の頭上から爪先までを眺めた。
身体のサイズに合った黒いタートルネックのインナーに細身のスキニーパンツは、洗練されたシルエットをより強調させている。
ソファの背にかけられたグレージュのトレンチコートに袖を通した姿を想像して、悶絶した。
普段の首元が緩い服装も良いが、外行きファッションのマコトは控えめに言って超絶好みだ。天に感謝の祈りを捧げたい。
アーティは布フィルターを濡らす男の背後で静かに両手を合わせた。アーメン。
そしてふと足下を見て、あることに気づく。
「先生、また色違いの靴下になってますよ~」
「そうなの? 気づかなかった」
「ふふっ。赤と緑、どっちがいいですか?」
「んー……赤かな」
「りょーかいです! いつものところにあります?」
「うん」
これも、二人にとっては日常的な会話だ。
ドリップをマコトに任せ脱衣所へ向かったアーティは、キャビネットの引き出しを開ける。
彼の足元と同じく、ボルドーとカーキがセットになった靴下を発見した。
面倒くさがりな性格だから、セットで安売りされていた色違い靴下を買ったのだろう。全て同じ色だと思っていた可能性もある。
せめてデザインや素材が違っていたらマコトの目でも判断ができただろうが、これはなかなかの難題だ。
ボルドーと一言で表現したが、アーティの目には濃淡の違う複数の糸が混ざり合ったカラフルな靴下に見える。
この二足の違いがわからないと言うマコトが撮る写真に、彼女はとても興味があるのだ。
二人は確かに同じ世界に存在しているが、異なる色の中で生きている。
「あ」
「どうかしました?」
「ドア直さないと、出かけられない」
「…………」
「…………」
いくらズボラなマコトでも、不法侵入どんとこい状態で外出できるほど無神経ではない。
二人は気まずそうに顔を見合わせたあと、ドリップしたコーヒーでとりあえず一服した。
いつもと同じ豆のはずなのに普段よりも苦く感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
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