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第39話 想望を編む
ステンレスキャビネットで統一された調理場で皿を洗うアーティの背中は丸くなっている。
「落ち込んでいます」と無言で雄弁に語る少女の隣で皿磨きをするララは、仕方なしに接客プログラムを起動した。
「アネット様、何か気に病むことでも?」
「うーん……色々とですね」
「はっきりおっしゃってください。まさか、ヒューマノイドに『察しろ』なんて抽象的なことは言いませんよね?」
「んぐぅ」
製造以来ただの一度も使われることがなかったプログラムは、どうやら不良品だったらしい。正面ストレートを食らったアーティから呻き声が上がる。
悩みを聞いてくれるのはありがたいが、センシティブな感情が彼女にどこまでわかるのだろう。疑いの目を向けると「何か失礼なことを考えていますね? 脳波の乱れを感知しましたよ」と指摘された。
アーティは観念して蛇口を締め、ララの近くに作業用の丸椅子を持ってきて座る。
「……私、マコト先生に憧れてたんです」
「悪趣味ですね」
切り裂きジャックも驚くほどバッサリ。接客プログラムとは。
だがアーティはめげない。
「そんなことないですよ。先生はずっと優しかったですし。色んな人に気味悪がられた私の目のことも、気にせず受け入れてくれました」
「アネット様、騙されてはいけません。旦那様はどんな時でも他人に対してとても寛容ですが、裏を返せば誰にも興味がないということです。口当たりの良い言葉ばかりを吐いて手なずける癖に、自分の懐には絶対に招き入れない。釣った魚に餌を与えない男と同じです」
終始辛辣な言葉を並べるララだったが、不思議と憎悪は感じられない。癖のないしっとりとした黒髪を一房垂らした横顔は、むしろどこか寂しそうだ。
「ララさんも、先生に対してそういう憤りを抱いたことがあるんですね」
「まぁ……初期不良で工場へ返品されて以来倉庫に放置されていた欠陥品にとっては、あんな人でも最初のご主人様ですから」
彼女もかつてマコトに何かを期待して、諦めたことがあるのだろう。
優しいことが必ずしも良いこととは限らない。叩いても響かない鐘は、虚しいだけだ。
(でも、トーキョーで先生は言ってくれたじゃない)
『俺も、もっとアーティに知ってほしい。世界のことも自分のことも、ちゃんと伝えたい』
あの抱擁が全部嘘だったなんて、思いたくない。シャツ越しに胸元のレンズフィルターへ手を重ね、そう必死に言い聞かせた。
例えこの恋が叶わぬものだとしても、積み重ねた信頼までなかったことにはしたくないのだ。
痛ましい表情で胸を押さえる客人を見た家政ヒューマノイドは、使い物にならない接客プログラムを強制終了させると、次にカウンセリングモードに移行した。
お悩み相談とは心の寄り添い。まずは相手を肯定し、同調すべし。
「アネット様はもっと怒っていいです。無駄に美しくて包容力があるのに『この人には私がいないと!』と思わせるようなダメな部分に惹かれたのでしょう? あれで無自覚なのが本当に憎らしいです。同情します」
発売以来15年のブランクを経たAIの言葉選びは凄まじい。身に覚えのありすぎる指摘が平らな胸に容赦なく突き刺さった。
「ですが……」と続いた言葉に、死体蹴りを想像した瀕死者は思わず身構える。
そんなアーティの背後にララはおもむろに移動し、エプロンのポケットから木製のヘアブラシを取り出した。
「他人に無関心な旦那様が珍しく傍に置いておきたいと思う何かを、アネット様はお持ちなのでしょうね」
椿油で丁寧に手入れされたつげ櫛が、海水で傷んだ赤毛を優しく撫でた。
人間の感情は時に複雑すぎる。答えの出ない問答も多く、人工知能の身としては「面倒くさい」の一言に尽きる。
それでも寄り添いたいと思ってしまうのは自主学習プログラムの賜物なのか、それとも個体差なのか。
心地よいリズムのブラッシングが、傷んだ髪と心を解きほぐしていく。
「……もしかして、慰めてくれてます?」
「わかりにくいですか? では子守歌でも歌いましょう。子どもの寝かしつけ用にプログラミングされている楽曲がいくつかあるんですよ」
「……ふふっ。私、子どもじゃないですよ。それにララさんの初回生産って2030年ですよね? なら私の方がお姉さんです」
「まぁ。それならなおのこと機嫌を直してくださいまし、お姉様」
容姿だけならララの方が間違いなく年上なのだが、その歪さがおかしくて、アーティは思わず吹き出した。
ララは少しだけ声が軽快になった旋毛を眺めながら、緩い癖毛を二本に編み込んでいく。こうすることで寝ている間の摩擦を軽減し、髪の毛が痛みにくくなるのだ。
――長らく床に臥せている奥方の髪も、こうやって編んであげたかった。
「アネット様なら、奥様を解放できるかもしれませんね」
「へ?」
「……申し訳ありません、世迷言でした。さあ、夜更かしはお肌の敵です。今日はもうお休みになって。お部屋までご案内します」
期待なんて、ヒューマノイドらしくない。不確定な未来に希望を託すのは人間のすることだ。客人を連れて調理場を出たララは、そう自分を諭した。
二人は小さなブラケットランプの心許ない光を頼りに、額入りの写真がいくつも壁にかけられた廊下を歩く。
すると、乱反射する光の膜に覆われた視界の隅に、白い人影が揺れた。
アーティは反射的に立ち止まり、右手に伸びる渡り廊下を眺める。
ガラス張りの屋根から降り注ぐ月光の奥は暗く、暗闇が立ち込めるだけ。無意識に色覚に頼っているせいで、暗所にはめっぽう弱いのだ。
だが、その白だけはやけに明瞭に見えた。
「アネット様、どうかなさいました?」
「今、あの奥に……」
「ああ……東館は度重なる地震で修繕が行き届いていないのです。危険ですので、絶対に近寄らないでくださいね」
「でも……」
確かにあの暗がりに、自分と同じ服を着た女性の影を見たのだ。
しかし再びララが歩き出してしまったので、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
最後にもう一度だけ渡り廊下の奥に目を凝らす。
『……、■■■、……――』
言葉にならない声のような何かが、耳に届く。
布が擦れたような、花瓶が割れるような、鈴が鳴るような、そんな繊細な声。
不思議と恐ろしさは感じなかった。
怪訝そうに立ち去る少女の後ろ姿を、彼女は闇の奥からじっと見つめていた。
* * * * *
照明が消えた寝室に、くたびれた様子のマコトが入って来た。
開かれたドアの向こうから漏れ聞こえるのは、リューゲン島を襲った大津波の対応に追われるドイツ職員たちの声。
あらゆる対応機関が不眠不休で被害状況の把握と救助活動にあたっているが、この天災の全貌は未だ掴めていない。
悲壮な扉を背中で閉めると、光る鍵穴が消えた。
深く息を吐くマコトの足元で黒い影が動く。影はのしのしと歩き、膨らんだベッドの枕元に飛び乗った。そのまま寝息を立てるアーティの傍で尻尾を丸めて寝転がる。
彼はそれを追うように、ふらりと近づいた。
夜目が利く視界には、枕に頬を埋めて眠る少女の横顔がはっきりと映る。
少し腫れた目元に食事の席から気づいていたが、声をかける間もなく夜になってしまった。
贖罪を込めて伸ばした指先は、彼女に触れる直前で躊躇する。
アーティなら、全てを知っても受け入れてくれるかもしれない。
伝えたい、知ってほしいと思ったのは嘘ではないし、この面倒な承認欲求は生来の性質だ。けれど――。
「変化が怖いのは、俺も同じか……」
数時間前に二人のウォッチャーへ放った言葉を反復する。
雁字搦めになった糸が解けないのなら、切るしかない。例え痛みを伴おうとも。
その覚悟ができるまで、せめてもう少し、あと少しだけ。
そうやって何度も引き延ばしてきた別れが、マコトの与り知らぬところから訪れようとしていた。
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