第41話 微睡と猫

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第41話 微睡と猫

 妙な身体の気だるさを感じ、アーティの意識は揺蕩(たゆた)う眠りから浮上した。  疲れ切って指先までぐったり、という感じではない。どちらかと言えば、重量のある何かにじわりと押し潰されているような……。 「みゃあお!」 「ぐふっ!」  夢の中の失言まで敏感に感じ取った猫が、布団の上で大ジャンプをかます。  腹部へ容赦なく叩きつけられる体積の圧に、くぐもった声が押し出された。  ――そう、猫である。 「……タマキ!?」 「ニャッ! フシャーーッ!」  布団から飛び起きたアーティに歯茎を見せる巨猫、タマキ。  リューゲン島を目前にしながら交通警備局員に没収された、旅のマスコットキャラ。  余すところなく脂肪が乗った身体は小型犬より一回り大きく、そのふてぶてしさを助長させる。白黒ハチワレの丸々とした顔に浮かぶ半月の目で「誰がデブだって!?」と睨んでいるようだ。そんな表情もブサかわいい。  昨日から不調な目に涙を浮かべたアーティが、肉付きの良い脇の下に手を入れて、その巨体を抱き起こした。 「タマキーーーー! よかった、生きてたのね! 津波は大丈夫だった!? 怖くなかった!? て言うか、重っ!!」 「ミャァ゛ーーーーー!?!?」  最後の余計な一言で機嫌を損ね、弾力のある肉球がアーティの(あご)に押し付けられた。「抱っこ拒否」の意思表示である。爪を立てられなかっただけでも相当な好待遇だ。  不服そうなタマキがベッドから飛び降りる。地面を揺らすような、猫にあるまじき重低音の着地音が響いた。  はち切れそうなお腹を左右に揺らしてドシドシと向かったのは、窓際に置かれた一人用ソファ。そこで転寝(うたたね)をしている人物に気づき、アーティは石と化す。 「ん゛な゛っ……せ、せせせせっ、せんせぇ……!?」  鍵を使いドイツまでタマキを迎えに行ったのだろう。力尽きて寝こけたマコトの足元には、履き潰された健康サンダルが転がっていた。  部屋着をしわくちゃにして眠る無防備な姿に目を焼かれ、少女は顔を両手で覆い天を仰ぐ。 「素晴らしい(メルヴェイユー)……! ルーブルでサモトラケのニケと一緒に展示されててもおかしくないくらい不条理で神秘的! まさに生きる芸術作品! 悪徳美術商に(さら)われちゃう!」  朝一で大変よく回る舌である。  視界は未だ光の膜に覆われているが、アーティは正気だ。美の評価が変な方向に尖っているだけで。  寝顔が幼い、睫毛(まつげ)が長い、少し開いた口元から漏れる寝息が尊い……などといつも通りの思考回路へ迷い込みそうになり、慌てて赤髪頭を横に振る。 (不純よアーティ! 先生には大切な人がいるの! 昨日あれだけ悩んだくせに! ばか、ばか!)  緩みそうになる自分の頬を痛いくらいにこねくり回す。  一人で忙しそうなアーティをよそに、腹を空かせた巨猫がさらりとした前髪をモシャァ……と(むさぼ)り始めた。まるで「腹減った」と主張するように。  そうなると彼が浅い眠りから呼び起こされるのは必然で、緩慢な動作でもぞりと身動(みじろ)ぎする。 「んぅ……?」 「うひぃっ!?」  未知と遭遇したような、変な悲鳴が漏れた。  過失割合10:0の貰い事故のように超一方的な成り行きだが、初めてのお泊りになってしまったのだ。未知には変わりない。  それに本妻がいる家で一夜を共にするなんて、不貞オブ不貞。歴史に名を残す悪女だってもう少しマシな場所を選ぶだろう。  アーティは慌ててベッドから飛び降りた。ララが貸してくれたコットンのネグリジェにベージュ色のカーディガンを羽織り、身なりを整える。  全身鏡に映る姿は着衣の乱れもなく、清潔な朝を連想させた。    ――大丈夫、何もやましいことはなかった!  そう自分に言い聞かせ、うつらうつらとしている未知へ忍び足で近寄る。 「マコト先生」  その呼び声に(いざな)われるように、色違いの双眸(そうぼう)が薄っすらと開く。  朝焼けが滲んだ(うつ)ろな世界で揺れる人影に、彼の中に眠るいつかの記憶が呼び起こされた。 「あま、ね……?」 「え……?」  壊れ物を扱うような慈愛に満ちた声で呼ぶのは、聞き覚えのない名前。それはアーティが今まで聞いたどの言葉よりも甘く、温かい。  説明されるまでもなく、この世で一番大切な人の名前だとわかってしまった。 「……先生、起きてください。前髪なくなっちゃいますよ?」  空腹で髪の毛を食い散らかす猫をどかしながら、極力いつも通りの声で告げる。これ以上(みじ)めな気持ちになりたくない。  (かす)かに腕が震えるのは、全てタマキの重みのせいだ。そうであってほしい。胸の痛みを抑え込むように、柔らかな塊を抱き上げる腕に力を込める。  そしてようやく、微睡(まどろみ)から目覚めたマコトと目が合った。 「……アーティ」  はっきりとした声色で紡がれる名は、先ほどとは別の温かみを含んでいる。ただの知人に向けるには過ぎたる愛着が。  だが思考に余裕がないアーティは、それに気づかない。 「もう、どうしてここにいるんですか? 先生の家なんだから自分の部屋で寝ればいいのに……」 「だってここ、俺の部屋だし」  その一言で、赤い脳天から薄桃色に色づいた爪先へ瞬時に稲妻が駆け抜ける。 (せ、先生の部屋……!? 待って、じゃあ私、先生のベッドで寝てたの!? それってつまり先生の香りに包まれて寝てたってこと!? そんな、そんなのって――……一緒に寝たってことじゃない!)  感受性豊かな少女は色々な前提をすっ飛ばして「一緒に寝た」という誤った解釈へダイナミックに着地した。  全くそんな事実はないのだが、眠る前に「先生みたいな匂いがする……」とセンチメンタルな心境で布団にもぐり、それはそれは大きく深呼吸したのもまた事実であった。吸わねば損と言わんばかりに。
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