第3話  ジャパニック

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第3話  ジャパニック

 パリでの主な移動手段は、地下鉄か無人タクシーだ。  ちなみに個人所有自動車の公道走行は禁じられている。  CO2削減を遂行する一環として、水素で走る無人タクシーを大々的に普及させたためだ。  その代わりに、バスや路面電車は交通網整備のため衰退してしまった。  大通りの路肩には最新型の無人タクシーがずらりと並ぶ。  デザインや搭載されたAIが進化していることを除けば、基本的な装備は従来とほぼ変わらない。  地下に張り巡らされたジャイロセンサーと人工衛星の情報をAIが駆使し、利用者をほぼ全自動で目的地に送り届けてくれる。  無人タクシーは手軽で、しかも人為的な操作ミスのない安全な移動手段として、市民に広く浸透した。  距離に応じた利用料さえ払えば、税金や燃料代もかからない。環境にも、財布にも優しい。  だが無名カメラマンとその弟子は、そんなハイテク時代のパリをひたすら歩く。 「先にタクシーで向かってもいいって言ったのに」 「マコト先生と歩きたいんですっ!」 「変わった子だね、アーティは」  変わっているのはマコトの方だ。こんなに可愛らしいパリジェンヌが腕を絡めているのに、鼻の下ひとつ伸びやしない。  平たい胸の中でそんな悪態を吐いているが、二人の足取りは軽い。  引きこもり気味の師匠を外に連れ出す日、彼女は必ず動きやすいスニーカーかショートブーツを用意する。  マコトは徒歩移動しかしないのだ。  理由は単純で、乗り物が苦手だから。  苦手と言っても日常生活に困るほどではないだろう。アーティも最初はそう高をくくっていた。大げさに嫌がる彼を地下鉄に乗せた一駅目で、救急車のお世話になるまでは。 「せめて手動運転ならギリ乗れるんだけどな……」  「三半規管って鍛えられるらしいですよ」 「アスリートでもないし、そこまでしたくない」  そういう問題じゃない気がする。  アーティは涼しい顔で歩く端正な横顔をちらりと眺めた。 (オッドアイをカモフラージュするための淡いグレーのカラーレンズがはちゃめちゃにカッコイイ、好き。……って、そういうことじゃなくて)  あの日の悪夢を忘れはしない。  次駅に到着したのと同時にホームへ飛び出したマコトは、めまい、嘔吐、痙攣のトリプルコンボをキメた。  人だかりができた駅で「先生が死んじゃうぅうう!」と事件の主犯格が泣き喚いた。  そんな少女を安心させようと救急隊員が告げた症状は、まさかの『乗り物酔い』だったのである。 (電車でアレなのに、よく日本からフランスまで生きてたどり着いたわね)  三半規管激弱のマコトを医者が付きっきりでサポートしたのだろうか。  もしくは都合よく飛行機は酔わないとか?  二人が出会って約半年。  未だに多くの謎を秘める美しい青年に、彼女はずっと夢中だ。  カルーゼル凱旋門を右手にうららかなセーヌ川沿いを歩く。  向かったのはパリ市内で最古の歴史があるチュイルリー公園。  典型的な左右対称のフランス式庭園の中には、著名な彫刻が多く飾られている。自然と芸術が融合した野外美術館のような場所だ。  時刻は昼を少し過ぎた頃。  大家の刺々しい視線を浴びながら玄関扉の修理をしていたら、こんな時間になってしまった。彼女は口を開くと小一時間は説教が止まらない。  マコトは巻き込まれる前に「すみませんマダム。今度お詫びの品を持参してゆっくりお邪魔します」と懇切丁寧に顔で押し切った。便利な世渡り術である。  中央の噴水周りには、ランチ中のビジネスマンや親子連れの姿が見えた。  公園内にはカフェが連なる。ドアの修繕という一仕事を終えた二人の鼻孔を、小麦の(こう)ばしい香りがくすぐった。 「先生、朝からコーヒーしか飲んでないですよね? 何か軽く食べます?」 「んー……ディナーのためにお腹空かせておこうかな」 「せ、せんせぇ……!」 (そこまで私が作る夕食を楽しみにしてくれているなんて! あれぇ? 私たちって付き合ってたっけ!?)  都合よく記憶が改ざんされてうっとりとするアーティ。  そこに顔なじみのベーカリー店の主人が気さくに声をかける。 「やぁアネット、それにマコト! 今日も二人でデートかい?」 「やだぁおじさんったら! ……やっぱりそう見える?」 「こら、ホラ吹かない」  陽気な店主が、二人の様子に分厚い胸板を揺らして朗らかに笑った。  オッドアイの東洋人カメラマンは、その美しい容姿でよく目立つ。インドア気味だが、ご近所付き合いはそれなりに良好だ。最近では名門商業大学の女子大生と良い仲だと噂されている。 「アネット、今日のおススメはレタスのバゲットサンドだよ」 「お世辞が上手なおじさんに敬意を表して、二個ください!」 「ありがとよっ! マコト、を見せてくれ」 「困ってないし、定価でいいよ」 「あいかわらず無欲なやつだなぁ。使えるもんは使っとけ」  主人は手際よくレタスとハムを挟んだバゲットを二人分手渡すと、半値の3ユーロだけ受け取った。  昨今は温暖化による環境変化で、小麦の価格が十年前から五倍近く値上がりしている。店側はかなり苦労しているそうだ。そんな事情もわかった上で「別にいいのに」とマコトは小さくぼやく。  避難証というのは、三年前に日本を襲った大地震、通称・ジャパニックに由来する。  首都直下の超大型地震により、日本は国土の半分と人口の三分の一を失った。  脆弱になった政治基盤をトーキョーから一時的にオーサカへ移したが、今でも思うように復興が進んでいない。  そんな状況に見切りをつけた優秀な働き手や若者が、海外へ流出し続けている。マコトもその中の一人だった。  滞在ビザの免除や生活必需品の無償提供など、避難証には様々な特権がある。  ガジェットに電子保存してあるはずなのに、彼はめったに利用しようとしない。
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