第49話 アマネ

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第49話 アマネ

 浮上した意識に(いざな)われ、湖畔の色をした瞳がゆっくりと開く。  薄紫色の花房(はなぶさ)が覆いかぶさるように揺れている様子に、仰向けで倒れていることに気がついた。  柔らかい木漏れ日が降り注ぐ視界は良好。さっきまでの痛みが嘘のように消え、アーティは元の明瞭で高彩度な世界へ戻ってきた。 「ここは……?」  起き上がって周囲を見渡す。  木々に囲まれた山の中。川のせせらぎの音と深緑の匂いが風に乗って届いた。  今朝の怒涛の散歩道と似ているが、ここでは鳥の羽ばたきも獣の声も聞こえる。  それにマコトとララ、ウォッチャーの二人も見当たらない。夢かと思って自分の頬を思い切りつねるが、普通に痛かった。 「何が起きてるの……?」  呆然と呟いたその時、近くの木から烏が勢いよく飛び立った。誰かいるのかもしれない。アーティは音がした方へ恐る恐る足を向ける。  山藤の(つた)()う木の間を進むと、川辺に出た。緩やかな流れの川面に陽の光が細かく反射する。周囲には水で削られた白い流石が無数に転がっていた。  立っているだけでマイナスイオンに包まれたような気持になる。すぐにでもカメラのシャッターを切りたくなったが、残念なことに今は持ち合わせていない。  風光明媚な景色を見渡していると、ある一点で全身をギクリと強張らせた。 (ちょっ……! あ、あれって、女の人!?)  光が透けそうなほど白い背中に長く豊かな黒髪が水で張り付いた(なま)めかしい後ろ姿を見つけ、アーティは咄嗟(とっさ)に息を潜めた。  川の浅い場所で水浴びをしているようだ。乾いた木の実と動物の骨や角であしらわれた数珠を付けた手が、素肌の隅々(すみずみ)を撫でる。  細腰から下肢へかけての(まろ)やかなラインもくっきり見えて、思わず顔を覆った。が、指の隙間から覗く青い瞳は(まばた)きも忘れ、その光景に釘付けになる。 「……覗き見?」 (ヒィイッ!!)  鈴の音のように澄んだ声に問われ、一気に血の気が引いた。  まずい、どこからどう見ても覗き魔である。言い逃れはできない。  でもこれは邪心のない不可抗力で、言うなれば天から舞い降りた幸運でありヴィーナスが起こした奇跡とも言え……――などと真っ白な頭の中で頓珍漢な弁明を繰り返していると、近くの低木から子どもが姿を現した。 「ぼくが、みえるの……?」  十歳にも満たないであろう小柄な少年は、フランスファッションではあまり馴染みのない和装姿だ。  優しい黄色みを帯びた白い上着は袖が大ぶりで、同色のボリュームのあるズボンは細い足首ですぼまっている。  平安時代から子どもが着る水干(すいかん)という着物なのだが、知識のないアーティにはとても珍しい服装に見えた。  女性は近くに置いてあった薄手の着物を羽織ると、声のする方へ振り返った。 「ごめんね、。でもあなたの歌はずっと聞こえていたわ。最近ずっと東の丘で歌ってたでしょう? ひらいた、ひらいたって」  そう言って微笑む女性の両目には、酷い火傷の痕が残っていた。焼け溶けた皮膚同士がくっついて目が開かないのだろう。よく見ると腹や太腿など、身体中のいたるところが変色している。 「みえないのに、きこえる……? なんで? どうして?」 「……? 変わった子ね。あなたがそこにいるからに決まってるじゃない」 「……!」  それを聞いた少年は、黄色の大きな瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。  そしてわき目も振らず駆け出すと、半裸の女性に飛びついた――が、少年の身体がまるで空気のように通り抜け、その場にぺしゃりと倒れ込む。 「坊や、どうかした?」 「……ううん、だいじょうぶ」  女性は声を聞いて少年の位置を大体把握したのだろう、同じ顔の高さまで膝を折る。  頭を撫でようと手を伸ばすが、指先は少年の頭をすり抜けて宙を撫でるだけ。雲を掴むことが叶わないように、彼女が少年に触れることはできなかった。  不思議そうに首を傾げた後、(いびつ)(しわ)が寄る目元を下げて寂しそうに微笑む。避けられていると勘違いしているようだ。 「私の顔、怖い?」 「こわくない。きれいだよ」 「まぁ……ふふっ、お世辞でも嬉しい」 「ほんとうだもん。……ねぇ、またあいにきてもいい?」 「それは……」 「だめ……?」  女性は少し考える素振りをする。  風の音だけが聞こえる時間がしばらく続いた。 「いいけど……私と一緒にいたら、お友だちにいじめられちゃうわよ?」 「ぼく、ずっとひとりなんだ」 「そう……じゃあ、私と一緒ね」 「いっしょ……!」  何がそんなに嬉しいのか、少年は大きな瞳を輝かせる。  それから一言二言交わして、彼は嬉しそうに手を振って駆け出した。  行き先は、まさかのアーティが隠れている木陰である。 (ま、まずいっ!)  焦って身を隠そうとするが、走って来る少年の顔を真正面から見て、アーティは再び硬直した。  ずいぶん幼い顔をしているし、特徴的なオッドアイでもない。それでも見紛(みまご)うことも難しいほど色濃い面影。 「マコト先生……?」  放心状態でそう呟いたアーティが視えていないのか、彼はそのまま通り過ぎて行く。  そして、思い出したように女性の方を振り返った。 「ねぇ、なまえは?」  衣服を整えた彼女は濡れた髪を紐で縛り、皮膚が引き()った口元を(ほころ)ばせる。   「アマネよ。またね、坊や」  濡れた(うなじ)に刻まれたロットナンバーを、淡い木漏れ日が照らした。
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