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第4話 超色覚
ベーカリーを後にした二人は公園内を歩く。
バゲットサンドを食べ終えたアーティが、大好きな祖父から譲り受けた自慢のデジタル一眼レフを構えた。
デザインはかなりクラシカルで、金属削り出しのシルバーボディにブラックレザーが貼られている。
年季は感じるが祖父は物を丁寧に扱う人だったので、まだまだ現役だ。
花壇に揺れる色とりどりのチューリップをファインダー越しに覗く。
だが、明瞭な視界に反して何かが足りない気がして「うーん……」と声が漏れた。
「どうしたの?」
「やっぱり構図がうまく決まらなくて。三分割……? それとも対比……?」
「見せて」
「ファッ!?」
素っ頓狂な声を上げた生徒の背後に回ったマコトが、後頭部越しに液晶のマルチモニターを覗き込んだ。
鼓膜に吐息が当たる。恋する乙女の感受性バロメーターは大きく振り切り、完全にバグってしまった。
(ちちちちち近くない!? しかもめっちゃイイ匂いするぅうう本当に同じ人間ですかァ!?)
「基礎は大切だけど、アーティは少し頭で考えすぎかな」
「ひゃい」
「これは俺の個人的な手法だけど、簡単な構図の決め方を教えてあげる」
普段は無気力でぐうたらしているマコトだが、写真に対しては真摯だ。
放心状態でカメラを構える生徒の手を取り、レンズを花へ向ける。
感染症が流行していた二十年前では決して許されない、とんでもない距離感だ。この時代に生まれて本当によかった。
そんなアーティの心情を見透かしたように「ちゃんと聞いてる?」と耳元で囁かれる。
「しゅみましぇんっ!」と半泣きで返事をして、ぐるぐる回る目をどうにか液晶に向けた。
「花だけを撮ろうとするから構図に迷うんだよ。だからもっと奥を見てごらん」
「お、奥ですか……?」
「うん。ほら、あの庭木の向こうから犬と子どもの声がするだろう? 家族連れで散歩に来てるのかもしれないね。あっちの地面が濡れてるのはお昼の噴水の跡かな。それに川の向こうの建物にはたくさんの人が生活してる。そういう目に視えない部分を想像してみて」
「目に視えない部分……」
「アーティは人よりもたくさんの色が視えるから、それに気づけばきっといい写真が撮れるよ」
――4色型色覚。
一般的に人は赤、青、緑を識別する三個の細胞で、100万色を識別できると言われている。
そこにさらに紫外光線を感知できるもう一個の細胞を持つ人間を、テトラクラマシーと呼ぶ。
アーティは、約1億もの色を識別できる超色覚の持ち主だった。
彼女の目にはコンクリートの道路が虹色に光り、木々は青く、水の中にはピンクの影が見える。
病気ではないので日常生活に困ることはないが、他人と違う色の世界で生きる異能者には、ちょっとした孤独はつきものだ。
つい最近も、大学のキャンパスですれ違った友人に「その水色のワンピース素敵ね! 黄色い糸が編み込まれてるのかしら」と声をかけたら「黄色……?」と怪訝な顔をされたばかりだ。
少しずつ積み重なった小さなすれ違いは、彼女を境界線の外側に追いやるには十分だった。
「想像は理解の前段階だ。不可視の存在は、理解を経て初めて人の目に映る。この花が映る画角の中を細部まで想像した上で、アーティはどんな世界を撮りたい?」
落ち着いたテノールボイスに「新興宗教の宣教師かな?」などとわけのわからない感想を抱く。
耳が溶けそうになりながらも、アーティは言われた通り頭をフル回転させて、想像を膨らませた。
例えば川沿いに見えるアパルトマンのベランダ。
石造りの白壁にオレンジの光が反射している。
カーテンはパステルピンクだから、住んでいるのは女性だろうか。
毎朝この公園を見下ろしてローズヒップティーを飲むのが日課かもしれない。
そう思ってチューリップを右下、そして木の奥に窓がわずかに映った構図でシャッターを切った。
色相が見えすぎるせいでカラーバランスまで手が回らなかったが、なかなか満足のいく一枚になったのではないだろうか。
「……いいね」
「本当ですか!?」
「うん。色の出力とか光量なんかは数をこなしていくうちにわかってくるだろうから。大切なのは想像力。わかった?」
「はい!」
尊敬する師匠に評価され、途端に嬉しくなる。
アーティは晴れやかな気持ちでデジタルビューファインダーを覗いた。
マコトの指導は技術云々よりも、感覚的な部分が多い。
専門用語だらけの参考書を読み漁っていた数か月前と比べたら、格段に成長できた気がする。
しばらくファインダー越しに七色の美しい街並みを眺めていると、妙な人だかりと青いパトランプが映った。
「……あれ、なんだろう?」
最近のパリでは銃乱射事件や大規模火災、マフィアの抗争など、血生臭い事件が頻発している。
不幸は連鎖すると言うが、どうにも気の滅入るニュースばかりだ。
連立する建物の間の狭い路地に、物々しい雰囲気が漂っている。
マコトもそれに気づいたのだろう。珍しく興味が沸いたらしく「行ってみようか」と声をかけられ、二人で足を向けた。
規制線が張られた現場には野次馬が押し寄せていた。
肉の壁に阻まれて詳細はわからなかったが、交通事故や強盗の類ではないらしい。
異様なのは、妙に鼻につく濃い鉄の匂い。
近くにいた女性たちの会話が二人の耳に入る。
「変死体ですって。昼間から物騒ね」
「首が丸っとなくなってたらしいわ。まるで何かに嚙み千切られたみたいだって」
「まだ子どもらしいじゃない。かわいそうに……」
首がない子どもの変死体――。
パリには人間を襲う熊や狼などの動物はいない。ましてや食べるなんて。
つまり、同じ人間の仕業である可能性が高い。
猟奇的な殺人犯が野放しになっている状況に、マコトが「今日はもう帰った方がよさそうだね」と言って、アーティの手を引いて人混みを抜け出す。
残念だが、スナップ練習は切り上げだ。
そんな事件現場を、近くの建物から眺める人物がいた。
「ついに生きている人間まで食ったのか、デイドリーマーズめ」
憎々し気にそう吐き捨てた人物は、踵を返して室内の暗がりへ消えた。
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