第68話 冷えた深淵で

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第68話 冷えた深淵で

 パリ近郊に、中世の街並みを残すこじんまりとした街があった。  名産品の薔薇が街の至る所で蔓を巻く。初夏を前にたわわな蕾をつけ、咲き誇る瞬間を今か今かと待ち侘びているようだ。  聖堂の鐘の音が響き渡る古都の片隅に、フランチェスカの屋敷がある。  手入れをする人がいないのか、広大な庭には錆びたガーデンアーチや敷石が残るだけ。かつては古い貴族の別荘だったと記録に残されているが、干からびた噴水が出迎える閑散とした屋敷に、その面影はもうない。  エントランスにもまともな調度品はなく、人気を感じさせない冷気が漂っている。  仮面とローブで指先すら他人に晒さないフランチェスカは、見てくれや体裁にあまり頓着していない。それに、この屋敷に招くのは今やクロエとミシェルだけ。人の体温を捨てた謎多き機械人間が住まうには、十分すぎるほど。  箱だけが立派な豪邸の中庭を進んだ先には、機械油の匂いが(たむろ)する。ここは中世へ置き去りにされた街には似つかわしくない最新鋭の設備が揃う義体アトリエ。組み立て前の義手義足が壁際に整然と並ぶ様は畏怖を覚えるほど壮観である。  そんな別世界の片隅に囚われたミシェルが、気が狂った創造主を忌々しげに睨みつけた。  彼がメンテナンス後のスリープから目覚めると、世界は一変していた。 『これも、あなたが言っていた復讐の一部なんですか』  フランチェスカが(かじ)り付くように見ていた大型モニターに、そんなテキストを表示させた。  かつて、ミシェルは問うたことがある。  肉体を捨て、悠久の時間を過ごし、人間性を失い。そうまでして一体何を成そうとしているのか。  ――あの化け物共をこの地球上から一匹残らず(ほうむ)り去るまで、私の復讐は続くのです。  常に抑揚のない声色の奥に、冷たく燃える炎を見た。制御できているのかも定かでない。そんな得体の知れない生き物に傾倒するクロエを見て、ミシェルはその動向に目を光らせているつもりだった。底なしの火種で静かに燃え続ける炎に、いつ姉が焼かれてしまうやも知れぬ。そして、その時は唐突にやって来た。  ボディを動かすためのシステム権限は全て剥奪され、声を出すこともできない。指先一つ動かせない身は拘束も必要とされず、固い実験椅子に放置されていた。意識だけは辛うじて浮上しており、アイデバイスや耳に設計された集音器を通じて周囲の情報を収集しているに過ぎない。端的に言うと、今のミシェルは無力である。  フランチェスカはテキストを一瞥(いちべつ)して、表情が読めない鉄の能面で己の作品の方を振り向いた。  モニターの光を反射したつるりとした仮面が、動かぬ人形を怪しく見下ろす。 「私は奴らに食われた全ての命の代弁者。これはビンツの民の弔いです」 『姉様に大量殺戮の火蓋を切らせておいて、弔いですか? とうとう気が狂いましたね』  ビンツで消息を絶ち生死すら不明なフィリップを誘き出す。それだけために偏食種(グルメ)を利用してドイツ支部を殲滅するなんて、まともな判断ではない。 「卑しいUMI型からビンツを守っていたのは私です。人間の女に言われるままヴァッサーガイストを引き起こしていた海蛇の喫食種(テイスト)は、それまで女の魂を食べずにいたからこそ食い意地の張った鯨に感知れされなかったのに。フィリップの独善的な正義がそのバランスを壊したせいで、あの忌々しい巨像を呼び寄せた。だからビンツを海に沈めたの真の愚か者に代償を払わせる。当然の報いでしょう」  仮面の奥に見え隠れする怒りは、本当にフランチェスカのものなのか。  本当に海に呑まれた命を悼んでこんなことをしているのか。  いったい誰のための復讐なのか。  捲し立てるように並べられた言葉を精一杯噛み砕いて咀嚼しようとしても、ミシェルの喉にはどうしたってつっかえてしまう。  フランチェスカは己に正義があるような物言いをしているが、その言い分はヴァッサーガイストによって失われた人命を完全に無視していた。それにデイドリーマーズに食われた命の弔いと言いながら、デイドリーマーズに命を食わせて自分勝手な正義を貫こうとしている。どういう理屈でそんな矛盾が正当化されると言うのだろう。  ミシェルの目には、自分の物差しでしか善悪の区別がつかない機械の亡霊に見えた。 『ビンツの人々を弔う炎はUMI型に向けるべきです。あなたの怒りは筋違いだ。フィリップ支部長は、人道的に正しい判断をしました』  守るとか、弔いとか。人格が感じられない言葉の何を信じられるだろう。浮き彫りになったヴァッサーガイストの被害を知れば、ミシェルやクロエだって同じ道を選択した。それによってUMI型が呼び寄せられてしまったと言うのなら、なぜ事前にその現象を教えてくれなかったのか。  デイドリーマーズについて人類が知っている情報とフランチェスカが把握している範囲に、強烈な乖離(かいり)を感じる。それが丸っと不信感に変わるには十分な状況だ。 『あなたは、いったい何なんですか』  何がそこまで怒りを駆り立てるのか。復讐に囚われた原因は何なのか。それまで語られることのなかった本質の蓋が開いて、深淵から手のつけようのない危険な何かが這い出してきたような恐ろしさがある。得体の知れない存在を怪物と呼ぶなら、フランチェスカこそ本物の怪物だ。  すると、突然ミシェルの意識に落雷のような衝撃が走る。脳に繋がったコードを遠隔操作で引き抜かれたのだ。  突如としてブラックアウトする視界。電源が落ちたモニターの感覚に似ていた。もはや生きている五感は聴覚だけ。 「そんなこと、私が聞きたいくらいです」  狂っている。ショートした真っ暗な世界で率直にそう思った。 「ノエルもあの場で死ぬでしょう。それを見届けたら同じ場所へ送ってあげます。ずっとあなたと一緒にいたいと言ってましたからね、あの愚かな娘は」  どこまでも冷酷で地を這うような低い声をスピーカーが拾う。  何も見えず、返事もできなくなった闇の世界で、ミシェルは成す総べなく終わりを迎える――……はずだった。 (僕の大切な姉様を泣かせてただで済むと思っているあなたの方こそ、とんだ愚か者だ)  誰にも拾われないほど深い意識の根底でそう言い捨てる。そして秘密裏に組み込んだ予備のシステムを起動させた。金庫で言う二重底のようなものだ。優秀な技師を紹介してくれたカタリナに感謝しなければ。  脳の記憶場所からとあるデータを引っ張り出す。こんな日が来るかもしれないと懸念していたことが功を奏した。できれば何事もなく、姉が信じる神のままでいてほしかった。  けれど。もう神だろうが悪魔だろうがどうだっていい。  ミシェルの最も大切な神域を土足で踏み荒らした不届き者の息の根を、ここで止める。 (――圧縮データ解凍確認、同期開始)  それは密かに入手していた、フランチェスカのバックアップデータだった。  メンテナンスと称して姉との逢瀬のダシに使われる度、ただここで眠っていたわけではない。  膨大なデータのダウンロードが始まった。自身との同期率を表示するパーセンテージが微増していく。完了まで6時間弱といったところか。  これが機械人形たちのタイムリミット。100%になったら、ミシェルは迷うことなく引き金を引く。例え共に消滅しようとも。 (あなたは僕が連れて逝く。クロエ姉様にはもう、指一本触れさせない)
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