第82話 背中合わせの旅立ち

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第82話 背中合わせの旅立ち

 大地を踏みしめ、大きく息を吸い込む。海が近いのか潮の匂いがした。見渡した小さな丘陵に青々と茂った細く短い草が、太陽に照らされて黄金色に波打つ。たったそれだけのことが、こんなにも愛おしい。  すると共に受肉したもう一人がこちらの手を勝手に握り込み、血が運ぶ身体の熱を惜しみなく分け与えた。 「はは、本当に触れらぁ」  雑草と同じく太陽光を反射する白い歯に、思わず目が細まる。日の光さえ透けていた自分たちが色を持つなんて。それは肉体を得た何よりの証拠だ。気を抜いて思わず頬まで緩みそうになり、慌てて手を振り解いた。 「馴れ馴れしいのは嫌いです」 「相変わらずつれねぇなぁ」 「あなたの節操がなさすぎるんです」  これから始まる悠久の旅路を彼と行く思うと気が滅入る。なぜ我が母であり我が主は、よりにもよってこの男と共に受肉させたのだろう。 「で、お前は何をしたいんだ?」 「人間と接触します。我らが創造主の教えを説かなければ」  私の使命は決まっている。きっとそのために肉体を与えられたと信じて疑わなかった。  人間は天変地異を引き起こす創造主に無用な畏怖を抱いている。神と崇めるならいざ知らず、酷い場合は悪魔や邪神だと言いふらす。定命の彼らはいずれ死ぬが、怒りと憎しみに染まった魂は味が落ちる。そんなものを敬愛する主に食べさせるなど言語道断。私は人間たちの考えを改めさせてみせる。 「つまり、分かり合いたいってことだな」  そのような軽い言葉で片付けられるほど稚拙な使命ではない。  ムッとする私へ笑いかけた男が、乾いた土の上に浅黒い手を(かざ)した。すると地表の砂が渦を描き、創造の雷を走らせながら彼の手の平まで竜巻のように細く舞い上がっる。やがて砂の竜巻は二股に別れて二本の杖となり、その片方を私へずいと差し出した。相変わらず便利な能力だ。 「じゃあ俺は、海ってのを見て来るわ!」 「は?」  じゃあ、とは。てっきり共に行動すると思っていたばかりに、私は間抜けな声を上げてしまう。  だが目の前に広がる大地を見渡して目を輝かせる彼は、こちらの動揺に気づかないらしい。私ばかりが振り回されているようで、なおのこと腹立たしくなる。今にも水平線を目指して走り出しそうな背中を恨めし気に睨みつけた。 「そうだ、三十回目の月が昇る日に、あの一番高い山の山頂で落ち合おうぜ!」  輝かしい深緑の瞳に多くの希望を携え、彼は遠くに(そび)える高嶺を杖の先で示す。 「勝手に決めないでください」 「だって世界はめちゃくちゃ広いんだ。そうでもしないともう二度と会えないかもしれないだろ? ……あ、さては俺と一緒に行きたいとか?」 「そんなわけないでしょう」  条件反射的に拒絶の言葉を吐き捨てた。思考の言語化と身体的反応に酷い乖離を感じる。受肉の不具合なのだろうか。  本心とは裏腹にフンとそっぽを向いても、男は快活に笑うだけ。そして羽が生えているように軽やかな背中をこちらに向け、始まりの一歩を揚々と踏みしめた。  ――そんなにこの世界を見て回りたいのなら、私のことなど捨て置けばいいのに。  だが不意に、私を振り返った。この丘陵に茂る緑を凝縮したような瞳と目が合い、思わず鼓動が跳ねる。  もし。もしもう一度だけ「一緒に行こう」と言われたら。  その時はちゃんと、授かった心に従おうと思ったのに――。 「遅刻厳禁だからなー!」  そう言って大きく手を振り、今度こそ彼は振り返らずに歩き出した。  遠ざかる背中が見えなくなるまでしばらくその場に立ち尽くしたが、彼が戻って来るはずもなく。私も受け取った杖と言葉にならない虚しさを胸に抱き、ようやく背を向けて歩き出した。  山の裾野には川が流れているから、そこには集落があるはず。つまり山を目指しながら歩いた方が人間に会える確率が高い。けして彼と落ち合うためではない。  人を(かたど)る巨像は最初に二人を創った。  一人ではなく、二人を――。
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