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第7話 長い夜のはじまり
街灯の明かりさえ心許ない夜道だった。
普段はライトアップされた街並みに人が溢れているのだが、最近は閑散としている。
凶悪事件が続いたせいで、外出を控える人が多いのかもしれない。
「それにしても、子どもの頭を丸ごと持ってくなんて……。先週はスーパーで立てこもりもあったし、最近のパリって色々と物騒すぎません?」
「そうだね……。夕方のニュースでやってたけど、凶器もまだ特定できてないらしいよ」
「街の人は『噛み千切られたみたい』って言ってましたけど、そんなの物理的に可能なのかな……」
「さぁ……――あー……可能、みたいだね」
「へ?」
急に歯切れが悪くなったマコトは、建物の間の狭い路地の前で立ち止まった。
アーティが街灯の光が届かない暗闇に目を凝らす。
すると『ゴキッ、グポッ、ベチョ』という、あまり耳馴染みのない不快な音を奏でる何かが蠢いていた。
気づいた瞬間に鼻を突く、昼間と同じ血生臭さ。
暗がりにいる存在が何なのか。
恐怖を超える好奇心に抗うことができないテトラクラマシーの瞳が、雲の隙間から漏れるわずかな月光を取り込んでその実態を捉える。
老婆のようだった。
身なりはみすぼらしく、ひざ丈のシャツワンピースは所々が破けていて『着ている』というよりは『辛うじて纏っている』と言った方がいい。
白い長髪は乱れ、伸びきった前髪で顔の全貌は見えないものの、やけに面長に見える。いや、長すぎる。口が人よりも大きく開くのかもしれない。
そんなことよりも、彼女が咥えているモノを視認した瞬間。アーティから引き攣った悲鳴が上がった。
「っぎゃあああああああああああああああッ! 首ィイイイイイイイイイイイイ!?」
「え、視えるの?」
「なに呑気なこと言ってるんですか先生! あのおばあちゃん人の首食べてますよぉおおおおおお!?」
「特注入れ歯でもしてるんじゃない?」
「冗談言ってる場合じゃないです! 警察に通報しないと……!」
「もう手遅れだ」
不思議なほど落ち着いた様子のマコトが、老婆の足元に転がった複数の物言わぬ影を指さす。
ストリートチルドレンだろうか。小さな亡骸は、そのどれもが頭を食い千切られていた。
あまりに惨たらしい光景に、再び甲高い悲鳴が響く。
騒がしい二人に気づいた老婆は、ふらりと声の方へ振り返った。
左右で違う方向へぐるりと動く瞳に理性は感じられない。
静寂に包まれたパリの夜道に張り詰めた空気が漂う。
人食い老婆は棒のように細い手足を使い、壁を走った。
想像を遥かに超えるスピードで新しい獲物に迫る。
(人間じゃない――!)
涙目になったアーティは本能でそう感じて、腰を抜かす。
(殺される……!)
自分もあの化け物に頭から食われるのだと理解した次の瞬間――彼女を庇うように、マコトが薄暗い路地へ一歩踏み出した。
「生物はお腹を壊す。悪食はよくないよ」
化け物に向けるには過ぎたるほど柔らかな声色。
しかしその刹那、鋭い拳が残像を残し、骨ばった頬にめり込む。
相手のスピードとの相乗効果もあっただろう。殴られた勢いで地面に叩きつけられた化け物は、脳天で硬い石畳をかち割った。
衝撃に呻き声が上がり、咥えていた生首が狭い路地に飛ぶ。
ひ弱だと思っていた人物の予想外な行動に、アーティは瞬きを繰り返した。
「マコト、先生……?」
砕かれた石畳に沈んだ老婆を見下ろす後ろ姿は、名前を呼んでも振り返ってくれない。
大好きな彼の顔を見て安心したいのに、テトラクラマシーを駆使しても見えないような、分厚い壁を感じる。
縋りつくようにもう一度マコトの名前を呼ぼうとした、その時――。
「所属と名前、もしくはロットナンバーを言え」
二人の前に凜とした声が響く。
死体が転がる暗がりからマコトの額に突きつけられたのは、冷たい銃口。
イレギュラーな夜は、まだ明けそうにない。
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