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第88話 可惜夜
夜の帳に支配された屋敷の中。
フィリップはアマネの寝室に飾られたSORA型の写真を見上げていた。
――なぁ、俺たちって友だちになれると思わないか?
「何だか、結局あんたの手の平の上で踊らされてた気がするよ」
マスターピースは人とデイドリーマーズの可能性を信じていた。
忘れ形見であるマコトが彼の作り出したレンズフィルターで写真を撮り、一人の少女と出会って。フィリップはそこへ示し合わせたように導かれ、多くの命を踏みしめた決意の朝を迎えようとしている。
化けて出てきてもいい。全ては計画通りだと、あの頃の様に歯を見せて笑ってくれないだろうか。一人で背負うには大きすぎる重荷なのだ。
「あ、しぶちょー発見!」
部屋の照明を点けず月光だけを頼りに写真を見上げていたフィリップの元へ、ボディのコンバートを終えたカタリナがやって来た。
声に導かれるまま背後を振り返り、疲れ切った表情の上にへらりと笑みを塗り重ねる。これが狂犬なりの武装だ。
「やぁカタリナ。新しいボディもよく似合ってるねぇ」
「えへへ、ララさんにあとでたんまりお礼しなくちゃ」
その場でくるりと一回転したカタリナの動きは滑らかだ。十代の少女然とした姿から一変、成熟した女性の曲線美が備わっている。損傷率が40%を超えていたため、修理ではなく首から下をそっくり挿げ替えたのだ。自身のスペアボディを提供してくれたララには感謝してもしきれない。
リペア用のシリコンと人工皮膚で綺麗に補修された頬から微笑みを消し、カタリナは同じように写真を見上げる。
「私って、しぶちょーのお友だちのオリジナル作品なんですよねぇ?」
「そうだけど?」
「個人のオリジナルが市販のヒューマノイドのボディと互換性があるのって、何か不思議だなぁって」
彼女が言いたいのはつまり、ララもマスターピースの作品なのではないかということだ。
思えば、ミティアライトの採掘によって急激に加速したアンドロイド製造技術に彼が絡んでいない方がおかしい。メーカーに技術提供していたとしても何も不思議ではなかった。
結果的にまた助けられたのだ、あの懐が広すぎる大馬鹿野郎に。
今はもう傍にいないが、共に戦っている――そう言われた気がした。
「ほーんと、ヤなヤツ……」
「とか言って、嬉しそうですけどぉ?」
「ボクは手玉に取るのは好きだけど、転がされるのは嫌いなのー!」
「ぶふっ、転がされてるしぶちょーとか超レアですぅ! あ、そう言えばララさんがこれをしぶちょーにって」
カタリナがポケットから手渡したのは、二つ折りにされた紙だった。
「なぁに? 紙のメモとか今どき珍しいじゃん。……ハッッッ! もしかしてラブレターとか!?」
なんて言いながらキラキラと輝かせた目は、紙を開いた瞬間にどんよりと曇った。
「請、求、書……?」
提供したスペアのボディ代、並びに整備費用と治療費、宿泊代諸々。総じて32,000ユーロ。日本円に換算して約500万円。
「……ミュンヘン行く前にこれだけ本部に経費申請したら落ちるかな?」
「無理ですよぅ」
「うわぁぁぁああああああああん!!!」
職務に見合わぬ安月給な上、自費研究が嵩んで貯金などないに等しい男の悲しい絶叫が轟く。
閑静な廊下を歩いていたララはその声を耳にして、人知れず笑みを溢したのだった。
* * * * *
血が滲み出したユリウスの包帯とガーゼを取り換えていたクロエは、縫合された切断部を見て泣き腫らした目元を伏せた。
「この身体で本当に行くの?」
「片腕が使えなくても、アネットの弾除けくらいにはなれる」
「笑えないわ、そんな冗談。センス最悪。ばかじゃないの」
背後からバッサリと切り捨てられて、ユリウスは辟易とした。だが包帯の結び目がある背中にトンと当てられた額の体温を感じて、口を吐いて出そうになった文句を飲み込む。
「あんたまで失ったらどうすればいいのよ、私」
涙はとうに枯れ果てた。これ以上失ってしまったら、クロエにはもう何も残らない。
返す言葉を探しあぐねていたユリウスは、布団の上に放り出されたガジェットの通知ランプが緑色に点滅していることに気づいた。これはクロエの端末だ。
「クロエ、これ……」
ユリウスに言われて初めて気づき、クロエは恐る恐る光学モニターを表示した。
泣き腫らした目元が見つめるのは、ミシェルから一斉送信された大量のデータ。成すべきと思ったことを成した弟の忘れ形見だ。
それをスクロールしていくと、未読メールの通知があった。送り主の名を震える指でなぞり、嗚咽を飲み込んで光学パネルをタップする。そこには本文はなく、音声データだけが添付されていた。
『――クロエ姉様、勝手なことばかりしてごめんなさい』
「ミシェル……」
もう二度と聞くことができないと思っていた弟の声に鼓膜が震え、一滴も残っていないと思っていた涙が溢れ返る。滑り落ちた雫は頬に貼られたガーゼへ染み込んだ。
震え上がったクロエをユリウスが片腕で抱き寄せ「無理に聞かなくてもいいんだぞ」と気を遣うが、美しい銀髪が無言で横に揺れる。二人はベッドに腰かけぴたりと寄り添うと、ミシェルの最後の言葉に耳を傾けた。
『姉様には僕のために大切なものをたくさん捨てさせてしまいましたね』
「違う……あなたを失いたくなくて、ぜんぶ自分で選んだの……」
『望まないことを強いられてばかりだったでしょう。今回のことだって……。昔からそうでした。僕の存在が姉様を狂わせる』
「違う、ちがうのよ、ミシェル……」
選択肢はいくつもあった。人道を外れたフランチェスカに弓引くことも、ミシェルを連れて逃げることも。それがどんなに困難な道だろうと彼女は選ぶことができたのに、ミシェルを失うという耐え難い恐怖に呆気なく屈してしまった。戦うことから逃げてしまったのは、クロエ自身の弱さだ。
だから、そんな風に自分の存在を否定するようなことを言わないでほしい。
『――でも、こんなことを言ったら姉様はきっと怒るでしょう? だって僕のことを誰より愛してくれていますから』
「っ……」
『だから僕が、姉様への罰になります』
罪を懺悔して昇華するには相応の罰が必要だ。
クロエが犯した過ちを清算するには、彼女の人生の全てを捧げたとしてもまだ足りないだろう。それをミシェルが補おうと言うのだ。
『僕がいなくなった世界で生き続けること。それが姉様に与えられた罰です。……寂しいからってすぐ僕に会いに来ちゃだめですよ? それじゃあ罰になりませんから。どうか長生きしてください。それと……――僕からのお願い、忘れないで』
――クロエ姉様に、誰よりも幸せになってほしいんです。
――人と違う幸せでもいいです。すごくちっぽけなことでも、変だなって思われることでも。姉様が幸せになってくれることが、僕の唯一の望みです。それ以外は要りません。
『たくさん愛してくれてありがとう。クロエ姉様、大好き』
たった数十秒のボイスメッセージが終わる頃には、クロエの顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
しゃくり上げる彼女の頭を引き寄せて銀髪を撫でるユリウスも、込み上げそうになるものを押し殺した口元を固く結ぶ。
「わ、私、間違えてばっかりで、本当にだめなお姉ちゃんだった……っ!」
「クロエ……」
「汚いお金で買った硬いパンしか食べさせてあげられなかったの……! 寒くて死にそうな夜も、熱を出したあの子を一人置いて男に組み敷かれてた……! やっと二人で幸せになれると思って選んだ場所は、こんな地獄で……関係ない人を、たくさん、殺した……!」
「クロエ、もういい」
ユリウスは嗚咽交じりで語られる懺悔に堪えきれなくなり、涙で濡れた銀髪に頬を擦りつける。右腕があれば抱き寄せて涙を拭いてやれるのに、今になって失ったものを惜しんだ。
「あの子を二度も死なせてしまったのに、なんで……なんで、ありがとうって……ッ、ミシェル……!」
自分の涙に溺れそうなクロエを繋ぎ止める存在は、もうこの世にいない。これが罰なのだと言って、最後に愛だけを残して消えてしまった。ミシェルの代わりになれるものなど存在しないと、ユリウスだってわかっている。だが、このまま明けない悲嘆に彼女を残しておくことはできない。
「これまでミシェルを守って来たのは神でもフランチェスカでもなく、お前だろ」
「ッ……!」
「惜しみない愛情を注いで、見返りを求めず慈しんで、誰よりも幸せを願っていたじゃないか。ミシェルにとって、お前が世界の全てだった。お前だけをずっと愛してたんだよ、あいつは」
「う……うぅぅ……!」
悲壮な慟哭が夜に溶けていく。胸に縋りついて涙を枯らすクロエに寄り添い、ユリウスは朝が来るのを待った。明けない夜はない。どんなに辛く虚しい世界でも、必ず日は昇る。
どれだけそうしていたのか。ようやく落ち着いたクロエは、包帯が結ばれた右肩に頭を預けて虚空を見つめた。
「朝になって、ミュンヘンに戻って、それで全部が終わったら……」
噛み締めすぎて血が滲んだ唇で囁く。
終わる確証などない。もしかしたらすぐにミシェルの後を追うことになってしまうかもしれない。
それでも、クロエは未来を見据えた。どうか生きて幸せになってほしいという、弟の最後の願いを叶えるために。
「ミシェルを、迎えに行ってあげたいの」
人の温もりが一切ないフランチェスカのアトリエで、きっとクロエを待っている。もう神様から取り返すような馬鹿な真似はしないけれど、せめてちゃんと弔ってあげなければ。でも、一人で受け止めきれる自信はまだない。
「……その時は、一緒に来てくれる?」
誰かに助けを求めることを知らずに生きてきたクロエが、初めて弟以外を頼った。
もっと早くにそうしてくれたら――なんて、今さら誰も救われない問答でこれ以上クロエを責めるようなことはしない。代わりに膝の上で震える手を握り込み、ありったけの慈愛を込めて頷いた。
どれだけの情を注ごうが、弟には到底かなわないだろうけれど。
* * * * *
朝が来たら、得体の知れない子どもが待つミュンヘンへ発つ。そんな緊張感の中で眠れない夜を過ごしていたマコトは、寝室の扉をノックする音に振り向いた。
「先生、起きてますか?」
控えめな声に呼ばれ、急いで出迎えに行く。
ドアを開けると、薄手のルームワンピースに着替えたアーティが佇んでいた。シャワーを浴びたのか、就寝用に緩く一本に編み込んだ毛先が少し濡れている。オフホワイト色をした薄手のコットンが火照った肌を透かして、妙に艶めかしい。
マコトは燻るものを感じて、咄嗟に羽織っていたグレージュのカーディガンをアーティの肩に掛けた。
「どうしたの、何かあった?」
「何が、ってことではないんですけど……」
なぜだか右へ左へ忙しなく泳ぐ青い瞳。借りた上着の襟を落ち着かない様子で合わせる小さな手。
何か言いにくいことでもあるのだろうか。とりあえず部屋の中へ招き入れたのはいいものの、入り口から動こうとしない訪問者をマコトは不思議そうに眺めた。
「アーティ?」
「あの、えっとぉ……」
「……?」
「い、一緒に寝てくれませんか!?」
「……ん?」
急に声量がバグった挙動不審なアーティと、フリーズしたマコト。ふわふわした妙な空気が漂う謎空間に沈黙が流れる。
首まで真っ赤になった想い人の縋るような熱視線に焼かれ、部屋の主は堪らず口を開いた。
「ごめん、無理」
「え……」
「あ、勘違いしないで。嫌とかじゃないんだ」
「……じゃあ、どうして?」
「どうしてって……」
健全な共寝ができる自信なんてない。風呂上りに薄着で訪ねてくるなんて、他意がないのなら傷つけてしまう。それだけは絶対に回避しなければ。
「さっきしようとしたこと、忘れちゃった? 俺、アーティにそういう意味で触れたいんだよ? だからごめん、今日はララと一緒に――」
やんわりと距離を置こうとしたマコトのシャツの裾を摘まんだ指は、震えていた。
「さっきの続き、してほしくて、来ました」
最後の方は聞き取れないほどか細い声だった。
深く俯いて表情を伺い知ることは叶わない。だが裾を掴む指先が「離れたくない」と雄弁に物語る。
「き、今日が最後だなんて思ってないけど、後悔したくないから……マコト先生に、全部貰ってほしくて、だから、私っ……!」
勢いよく顔を上げたアーティの瞳は、期待と不安にもみくちゃにされて溺れたように濡れていて。彼女がどんな気持ちで、どういう思いを募らせて扉をノックしたのかと想像したら、急激に胸が騒めいた。この手を絶対に離すなと、身体の一番深い部分から信号がガンガン送られてくる。本能、とでも言うのだろうか。こんな衝動に駆られたのは初めてだ。
「ぁ、ぅ……迷惑だったら、ごめんなさ……んっ――」
ここで謝罪の言葉なんて言わせてしまったら、一生自分を許せない。
俯きかけた顎を指で掬って、いじらしくて健気な唇を噛みつくように塞いだ。
「ふ、ぁっ……せん、せ……ん、んぅっ……!」
角度を変えて何度も啄まれる感覚に、緊張や不安が解けていく。震える身体を背後の扉に押し付ける異性の力を感じて、多幸感で意識がふわふわした。
(マコト先生が、夢中になってくれてる……)
誰かに求められた経験が乏しい空っぽの自尊心に水を撒かれて、狂おしく咲き乱れるような――そんな風に肌が粟立つ快感がぐつぐつと込み上げる。
この人に求められたい。必要とされたい。即物的なコップがキスだけで並々と満たされ、お腹の奥が蕩けてしまいそう。
肉感の薄い唇は吐息混じりに頬、耳へと移り、緩く編み上げて露わになった首筋に触れる。鎖骨に吸いつかれるとびくりと肩が跳ね、ずり落ちたカーディガンが足元に絡まった。
大好きな人から与えられる感覚を何一つ取り零したくなくて、身体中が過敏になってしまっている。はしたない女だと思われていないだろうか。急に心配になって、相手の表情を盗み見ようと恐る恐る薄目を開ける。
すると、この縺れ合いで結び目が解けた包帯が、黒い前髪にはらりと落ちた。マコトは右頬に貼られたガーゼごと余裕のない手つきで剥ぎ取る。痛々しく抉れた傷は、不死に由来する超人的な治癒力で綺麗に修復されていた。
静かな夜に灯る月明かりのように静かだった右眼に灯された、確かな熱。そんなのを浴びていたら、アーティの些細な心配事はとろとろに溶け出した。
この美しい人が欲するたった一人になれた。夢見心地とはまさにこのこと。
「マコトせんせい、きれい」
「恥ずかしいんだけど……」
「だいすき」
「…………」
「っん、んぅ……ン……」
アーティの声は砂糖でできているのかもしれない。そんな頭の悪いことを大真面目に考えた結果、可愛いことしか言わない唇を塞ぐことにした。このまま砂糖漬けにされてぐずぐずに煮詰められたら、らしくないことを口走ってしまいそうだ。
赤く熟れた頬を撫でながら耳元を擽っていた指が、敏感な首筋をなぞって意図的に下がっていく。胸元を飾るフロントボタンに軽く指をかけると、唇への止まない愛撫を享受していた身体が緊張で強張る。でも、それだけだった。彼の手を拒みはしない。肌けた胸元から入り込む空気も、基礎体温が低くて少し冷たい指先も。
扉をノックした時点で、アーティはこの美しい人に全てを捧げるつもりだったのだから。
夜が過ぎていく。先の見えない不安な朝が来るのを怯えて寄り添う者たちの夜が。
それぞれが大切な人との時間を惜しむ中。人間たちの営みに耳を傾けていたララとタマキは、ガラス張りの渡り廊下で普段と変わらぬ月を見上げた。
「にゃぁ~ん」
「あれは満月です。肉まんではありませんよ」
どれだけ怯えようと、必ず日は昇る。
だからせめて、ほんの少しだけでもいいから。どうかこの夜が長く続きますように。
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