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三月七日。
その日は雪が降った。
先週しまったダウンジャケットを、クロゼットから引き出したくらいに寒い日だった。
西原悠一はエンジンを切った車の中で、デジタルカメラを片手に通り向こうのマンションを睨みつけていた。一時間ほど前に昼から続いていた雪はやんだが、今は夜の零時過ぎだ。寒さは徐々に増している。ガラスを降ろしているので外の寒さは顔と指先に直接感じられた。
五分前に302号室の住人が若い女を連れてマンションの玄関に入っていった。その写真は既に撮った。後は302のドアの前での二人を納めればそれで仕事は終わりだった。
しかし、二人はなかなか玄関前の通路に姿を見せない。十分過ぎても現れない。
十台分のスペースのある簡単で粗末な作りのコインパーキングに他に車はなかった。大通りから西にそれた狭い道路だ。それを挟んでマンションと駐車場とがある。辺りは住宅街で、この駐車場が埋まるのは昼間だけだった。
信号機のついていない短い横断歩道を渡って、西原はマンション内に入った。狭いエレベーターフロアの壁に、破れかけたポスターの張ってある掲示板や郵便ポストの集合体が取り付けてあった。302のポストの名札部分には記入はなかったが、他のポストも大半がそうだった。
エレベーターのボタンを押そうと手を伸ばした。
五階建のマンションのエレベーターは一階に降りてきていた。
思い直して手を引っ込め、非常階段を選んだ。
もしかしたら非常階段で二人は何かをしているのかも知れない。そうなれば面白い写真が撮れる。西原は足を忍ばせて階段を昇った。見つかればすぐに逃げられるよう、ポケットの車のキーを左手の指先で確かめた。車が無理ならひとまず走って逃げてもいい。寒い夜に体があたたまってちょうどいい。西原は慎重にカメラを構えて、ステップを昇っていった。
そして、声を失った。
仕事が仕事だ。
まずい状況に陥ったってことは何度かあった。
でも、これは……。
西原は呻きそうになり、左腕を口に押し当ててそれを我慢した。
まず、男の足が見えた。狭い踊り場から、赤茶色の革靴の、右側の底をこちらに向けていた。こんな場所に寝転がるなんて酔狂が過ぎるだろ。他の住人が通ったらどうするんだよ。そんな風に思いながら近付いたのだ。しかし、転がっているのは男の方だけだった。そして、その首から血を流していた。壁に頭がつかえて、枕に置いているように心持ち傾き、奇妙な目付きでこちらを向いていた。生きている様には見えなかった。踊り場と水平の高さで、どのくらいその死体を凝視していたのか判らないが、西原は生きている人間の気配を感じ、ビクッと顔を上げた。
踊り場から折り返して上に続く階段に、女の足が見えた。濃い紫のパンプスのそれが、踊り場より一つ上のステップで数センチ真横に動いた。
西原は一つ息を飲み込んで、そっと階段を二つ昇り、足の続きに視線を動かした。
先ほど、まだ生きていた男と一緒にマンションへ入っていった女だ。
ぼんやりした表情で、膝頭を揃えて階段に座り込んでいた。血まみれのナイフを握った右手には血に濡れた白い手袋をはめていて、体の横に力ない様子で垂らしている。グレーの膝丈のコートの中に、グレーのワンピースが見えた。遠くから撮った時にはなんとも感じなかったが、美人だった。どこかで見たような顔にも思えた。美人と言うのは、どれも似ているというだけの事かもしれない。
女は綺麗な細くて白い顔を、踊り場の壁に向けていた。三方を壁に囲まれた踊り場の、左側の壁だ。西原から見れば一番奥の壁だ。女は西原には少しも気付いていない様子だった。西原は女の顔の向いている方へ視線を向けた。白い壁は鮮血でベッタリ濡れている。紅いペンキのバケツをぶちまけたようにも見えたが、むっとする血の臭いはそうでないことを教えてくれていた。
西原はその血を見た途端、ほとんど無意識のうちにカメラのシャッターを押した。何度押したかは数えていない。それから再び女を見ると、女はこちらに顔を向けていた。冷たい蛍光灯の光の下で、女の瞳に精気は感じられなかった。全身に鳥肌が立った。もう一つ、息を飲み込んだ。
「あんた」
と、西原は絞り出すように声を出した。女はその声を聞くと、少しだけ瞳の色を変えた。少し、力が入ったように西原には思えた。
「あんたが」
その声で、今度は表情を少し変えた。口元がわずかに動いた。
西原は口を閉じ、彼女の口元をじっと見つめた。彼女は微笑んでいるようだった。確かとは言えないが。
西原はカメラをダウンジャケットのポケットに押し込むと、ゆっくりと、女の方へ右手を伸ばした。女を刺激しないように気を付けたつもりだった。
スクープじゃないか。
無理やりそんな言葉を頭に浮かべた。
そうすることで、冷静になれるような気がした。そして、その思惑はあながち外れてはいなかった。それに続く思いが湧いて出てきた。
写真は撮った。
第一発見者なんだ。
どこに買ってもらう?
とにかく、この女に、凶器を手放してもらわないと。
暴れるかな?
いや、大丈夫。
腕力なら俺の方が上に決まっている。
西原の手がゆっくりと近付くにつれ、女の表情は微笑みの様なものから、微笑みに変わった。何が起こったのか一時的に判らなくなっているのだろう。と、西原は思った。
「大丈夫だよ」
西原は言った。
大人しく、そのナイフを渡してくれ。
そしたら、落ち着いて百十番が出来る。
しかし、大丈夫なのか?この女。
女の微笑みは最終的に、優しく慈愛に満ちた美しいものに変化した。
西原は手の動きを止めた。
女がその表情のまま、今度は自分にナイフを突き付けてきそうな気がして、急に恐ろしくなった。だが次の瞬間、女の手からナイフが落ちた。
ナイフは硬い響きを立ててステップを踏むと、踊り場に転がった。西原はナイフを目で追った。死んだ男の右脚の近くで血を跳ねた。これを急いで拾い上げた方がいい。そうは思ったのだが、体が硬直し、思い通りに動かなかった。白いプラスティックの柄の、果物ナイフのような小さなものだった。血はもちろん柄にも付着していた。
いかにも安っぽいナイフだ。それと、血と、死体とが、奇妙なバランスで西原の視界に納まっていた。青白い蛍光灯の光の下でその映像を見つめていると、ふと夢を見ているような感覚が西原を包み込んだ。エンジンを切った寒い車の中で、眠って夢を見ているのかもしれない。
急に右手に温もりを感じて、西原は現実に引き戻された。
右手を女の方へ向けて伸ばしたままにしていた。それを、女が自分の右手で握ったのだ。慌てて女の顔を見ると、女はまだ完成された微笑みを浮かべていた。
西原の耳に蛍光灯から発せられるシーンというかすかな音が届いた。
夢じゃないよ。
心の中で呟く。
西原は女の手を強く握り返した。そして自分の方へ強く引いた。女は少し驚いたような表情をしたが、すぐに微笑みを取り戻して立ち上がった。
何故、こんなことをしているのか。
判らない。
無理やり答えるのなら、気の迷い。物の弾み。あるいは衝動。
西原は女と二人でマンションを後にした。
慌てるな。慌てるな。
繰り返し、繰り返し、声に出さずに呟いていた。女の肩を抱いて、普通を装って、努めてゆっくりと短い横断歩道を渡った。
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