スプリング・フィーヴァー

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 自分のマンションの駐車場に車を止めた時には、助手席の女は目を閉じていた。声をかけたが起きる気配がなかった。西原は女の顔や洋服をくまなく眺め回した。大量の返り血を浴びてはいないが、少量の飛沫はあった。まず顎の右側に親指の爪ほどの大きさの血がついていた。既に渇いている。西原は後部座席に手を伸ばして、そこに置いていたティッシュの紙箱から一枚引き出して丸め、それに唾液を含ませて、女の顎を拭いた。何度か擦るうちに血は消え、ティッシュの一部が赤く染まった。もちろん、暗い車の中でそれは黒色に見えた。  それから手を見た。はっとした。女は両手とも素手だった。確か手袋をはめていた筈なのに。考えてみれば、女の手を握った時には既に素手だった。 西原は左手に握られているバッグに目をとめると、それの柄に絡まる細い指をはずして、バッグを取り上げ、口を開けた。  いつの間にはずして、しまったんだろう?  バッグの中に血で汚れた手袋が丸まって入っていた。左手の方には大して血は付いていなかった。その中に右手の分が詰め込まれているようだった。西原は考えるのを後回しにして、バッグの口を閉じると自分の座席の脇に置き、次にコートを見た。右の袖口が血で染まっていた。左側は汚れていなかった。しかし、きっと全体をよく見れば何箇所かは血痕が付いているに決まっている。コートのポケットに何も入っていないことを確かめてから、裾をめくり、それで右袖を包みこんだ。そうやっておいて、コートを脱がせた。体は軽く、作業にそれほど手間取らなかったが、女が目を覚まさないのが少し不思議だった。心配になり、脱がせたコートの外側を内側に巻き込んで丸めてしまってから、女の顔を再び覗き込んだ。首に指の腹を当て、鼻の先に手の平をかざす。しかし、やはり寝ているようだ。  改めて見ると、女はやはり美しかった。薄暗さのせいで余計にそう見えるのかもしれないと抵抗してみたが、西原はしばらくその顔から目を離せなくなった。動きを止め、食い入るようにその顔を見つめた。  どこかで見たような。  そんな思いが再び頭をよぎった。  堺正也の女なんだ。もしかしたら、有名な人間かもしれない。  首と、開いた口から血を流して死んでいた男は役者だ。所属する地元劇団が去年東京公演を開始した芝居が当たり、最近ではコマーシャルにも起用されて、人気を徐々に伸ばし始めた男だった。今年の秋に放映予定のTVドラマにも出演が決まっていた。  同じ劇団員?いや、違う。こんな顔はなかった。  西原は下調べとして芝居を何度か見に行っていた。取材名目で楽屋に入り込んだこともある。境の仕事仲間なら、すぐにそうと気付くはずだ。  これから活躍しそうな俳優やモデルに目を付けるのは、西原のよくやる手口だった。狙った人物に意外な裏の顔を見つけると、付きまとって写真を撮る。時にはそれに記事も添えて、雑誌社に持ち込んで金をもらっていた。芸能ゴシップ専門のフリーカメラマン。それが西原の職業だ。堺正也は一見誠実そうな好青年といったイメージがあり、世間もそういう目で見て、本人もそういうキャラクターで売り出そうとしていたようだったが、実際は女性関係でかなり揉め事の多い男だった。西原が張り込んでいたあの地味なマンションも、自宅ではなく、女との密会用に借りている部屋だと調べはついている。  ケースによっては雑誌社ではなく、本人に写真を買ってもらうこともあった。西原は、偶にそういうこともするカメラマンだった。堺の場合、多分にそちらのケースに入る可能性があった。  女が、寝ぼけたように首をわずかに傾げた。  西原は我に返ると、女のパンプスを脱がして、丸めたコートの中に押し込んだ。それを自分のシートと後部座席の隙間の床に置き、女に声をかけた。 「おい、本当に寝てるのか?」  右肩をつかんで揺らしたが、助手席のドア側へ首が傾いただけで、起きる気配はなかった。  どうするつもりなんだ?  と、西原は内心で車内の二人に呼びかける。答えたのは西原だけだった。  とりあえず部屋に運ぶ。目を覚ましたら話を聞く。全てはそれからだ。女が自首すると言うなら、付き添ってやってもいい。とにかく、話を聞いてからだ。とにかく、慌てないことだ。  西原は運転席から外に出ると、フロントを回って助手席のドアを開けた。女の左腕を自分の首に回して、自分の左腕を女の膝の裏に差し込み、女を抱え上げた。肩でドアを閉め、キーのボタンでロックした。女の背中を支えている右手の先に、女の小さなバッグと鍵の束を持っている。駐車場から直接マンションへ入る非常口も、その中の一つで開けた。中へ入って、非常階段を上った。警備の厳しいマンションではないが、エレベーターには防犯カメラが付いている。それに映ることは避けた方がいいような気がした。五階まで女を抱えて登ると、多少息が切れた。  女を自分のベッドに寝かせ、ポケットに入れていたカメラを机の上に置いた。自分の服や靴に血が付いていないかを確かめた。どちらも黒なので目に見えはしないが、もしかしたらどこかに付いてしまったかもしれない。  クロゼットからジャケットを買った時の紙袋を取り出して、脱いだそれを入れた。キッチンのテーブルの上に置いていた買い物袋から、缶詰とレトルト食品を取り出し、空いたポリ袋に履いていたスニーカーを入れて口をきつく結んだ。それから風呂場に行き、黒いニット帽とジーンズとTシャツとアンダーウェアを剥ぎ取るように脱いで、全て洗濯機の中に投げ込んだ。   シャワーを浴びながら、やっと西原は溜め息をついた。  何をしてるんだ?   どうなるのか判ってるのか?  女が素直に自首すると言っても、俺だって調べられるんだぞ。  熱い湯に打たれ、その湯気と音に包まれながら、西原はタイルの床にしゃがみ込んだ。両手で頭を抱えた。  シャワーの音に紛れて、何処か遠くから爆撃音が聞こえてきた。  アサルトライフルの連射音もそれに続いた。  ええ、首から頭にかけてです。即死でしょう。5.56mm弾が貫通して、もちろんそれを回収は出来ませんでしたが、武田さんの傍で死んでいた兵士の体内には貫通しなかった弾頭が残っていたそうです。間違いなく敵側の弾です。武田さんの敵って訳じゃないですけどね。こちら側は12.7mmの大きいの使ってたって。機関銃ですよ、三脚で固定して……  武田の首から鮮血が散る様子が、見てきたように頭に浮かんだ。それが非常階段の踊り場の、白い壁に噴きつけられた。暑く砂塵の舞う青い空に飛び散った血が、蛍光灯の青白い光に照らされた冷たい壁に、だ。  武田登という友人がいた。彼が二十五才のとき、西原も二十五才だった。そしてその後、西原だけが年を取った。
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