スプリング・フィーヴァー

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 六畳のキッチンと十二畳の部屋をつなぐドアが、カチリと開く音で西原は目を覚ました。小さなテーブルに突っ伏して眠っていた。まだかすむ目に、ビールの缶が二つと、空になって油汚れでかさついたツナの空き缶が一つ映った。頭をゆっくり上げて、ドアの方へ顔を向けた。長くて茶色の髪が多少乱れている綺麗な女が立っていた。乱れ髪は色っぽかった。不安な様子が、更にそう思わせた。  西原は目をこすってから、女に言った。 「今起きたのか?」  女は頷いた。  西原は何度か咳払いをして、起き抜けの渇いた喉を落ち着かせようと努めた。 「昨日のこと、覚えてるのか?」  女が頷くのに、初めよりは多少時間がかかった。それでも、女は頷いた。 「どうしてここにいるか、判るか?」  女は首を傾げ、おずおずと可愛らしい口を開いた。 「あなたが連れて来てくれたんでしょう?」  申し訳なさそうな口調だった。  西原は再び咳をした。それで、喉のいがらっぽさが単に朝の渇きのためではなかったと気付いた。喉が痛い。それが判ると余計に咳が出て、余計に喉が痛くなった。 「風邪、ひいたんじゃない?ごめんね。私がベッド使ったから、あなたここで寝たのね」  喉を手で押さえながら、空いてる手を女に振った。少しして落ち着くと、女を見た。 「そんな事はいいんだ。とにかく、あんたから話を聞きたい。とりあえず、シャワー使っていいよ。着替えは何か適当に、俺のものしかないけど……」  そこまで言うと、西原は思い出したように部屋に入って、アルファの緑のジャケットをはおり、昨夜のダウンジャケットを入れた紙袋を持ってキッチンに戻った。 「ちょっと風邪薬買ってくる。ついでになんか適当に買ってくるよ。何かいる物あるか?」  女は首を左右に振った。 「タオルとか、勝手に探して使っていいから。じゃあ、一時間くらいかかると思うけど」  西原はそう言うと、玄関に置いていたスニーカー入りポリ袋を取り上げ、顔も洗わず部屋を出た。帰ってきた時に女がまだ部屋にいるかは判らない。それでもいいと思った。もちろん、靴を持っていないから出て行きはしないような気もしたのだが、そんな常識的なことが通用するのかどうか。  車で二十四時間営業の大型ドラッグストアに向かった。到着した時に車についている時計を見ると、七時十七分だった。店に入ると左手にクリーニングの受付カウンターがあり、そこへダウンジャケットを預けた。紙袋を折りたたみ、小脇に挟んで、買い物カゴを取って店内を歩き回った。歯ブラシと男女兼用の室内着を入れて、下着をどうしようかと足を止める。女性用の物を買うのに抵抗があった。恥ずかしい訳ではない。目立ちたくないだけだ。レジの店員に「女性物下着を買っていった男の客」として記憶されることを恐れた。仕方なく男性用のボクサーパンツを三つカゴに放り込んだ。とりあえずこれで勘弁してもらおう。  男物のTシャツは裾が長くて、ミニのワンピースを着ているような状態だ。脱衣室にあったドライヤーで髪を乾かしてしまうと、肩にタオルをかけたまま、女はキッチンに出てきた。そして室内を見渡した。  二畳の風呂場に二畳の脱衣室、二畳の玄関、一畳の洗面所に一畳のトイレ。企画的なそれらが六畳のキッチンの北東角にL字型に配置されている。南西角に小さなL字型キッチンカウンター。一間半の南側の壁に窓と、ベランダに出るアルミ製のドアがある。六畳の中央に西原が突っ伏して寝ていたテーブル、椅子が一つ。西のカウンター横に小さな冷蔵庫。その隣に向こうの部屋へ行くガラスのはめ込まれたドア。  女は興味無さげにそれらを眺めると、ドアを開けて隣の部屋へ移動した。トイレの部分が張り出しているので真四角ではなかった。十畳の北側に縦に繋げた二畳のスペースがあり、その奥が二間幅のクロゼットになっている。西は一面壁で、そこに頭を南に向けたベッドが寄せて置かれ、すぐ隣、南に向けてキッチンのものより広い机があった。PCやプリンターや本が雑然と載っている。机の下に二つ、クロゼット前に一つ、段ボール箱があった。クロゼット前の箱の上には、一人暮らしの1DKには不釣り合いに見える大きなガラスの灰皿と、煙草とライターが載っていた。灰皿は洗った後のように綺麗だった。南の壁には大きな窓と小さな窓が一つずつあって、大きな方からはベランダに出られた。カーテンは付いていたが、全て開いていた。窓ガラスには模様が入っていて、外の様子は見えない。キッチンに接しているドアのある壁に、TVやオーディオの類が並んでいる。床はキッチンと同じチーク材風のフローリングだ。  女は部屋の中で机に目を留めると、その前に歩いた。  事務机や学習机のようなものではない。簡単な引き出しが一つ付いただけの、ダイニングテーブルにもなりそうな机だ。重なった本を手に取ったり、引き出しを開けたりして、女はそのうち一枚の名刺を見つけた。  フリーカメラマン。西原悠一。  それに博多区祇園町の住所と電話番号が載っている名刺で、ボールペンの試し書きがされていたり、角が折れているところを見ると、古いもののようだった。  それを元の場所に戻し、次にプリンターの陰に隠れていたデジタルカメラを手に取った。幾つかあるボタンを押して、現われた画面を目にした女は、少しだけ驚いた表情を浮かべる。それから再び、幾つかのボタンを押して、カメラも元の位置に戻した。  西原が部屋に入ると、キッチンの椅子に座っていた女は立ち上がって迎えてくれた。 「おかえりなさい」  西原は「ああ」と、声を出しただけで、呑気にただいまとは答えられなかった。黒いTシャツからすらりと伸びた脚に目が行き、苦労してそこから目をそらした。買い物袋をテーブルの上に置いた。女はテーブルに手をついて、そこから何が出てくるのかといった目付きで袋を見ていた。不安な様子はもうなくなっていた。西原よりはるかに落ち着いているようだった。化粧を全くしていない女は、綺麗というより、可愛いといった雰囲気に変わっていた。何事もなかったように、可愛い顔をしていた。  西原はパック詰めの下着や歯ブラシを取り出し、テーブルに並べていった。その途中で、女が右手にティッシュを握っている事に気付いた。西原がそれを見て動きを止めると、女は気付いて、照れたように右手を左手で包み、お祈りをするような格好をした。 「さっき、缶詰の缶々を洗ってたら切っちゃった」  そして、ティッシュを指から離した。ティッシュに血が付いていた。脳裏に昨夜の血の光景が浮かび、西原は息を一つ飲み込んだ。カウンターを見ると、水滴の付いたビールとツナの缶が、逆さまの格好で並んでいた。 「洗ってくれたんだ」 「うん」 「ありがとう。絆創膏を張った方が」 「ううん。もう血も止まったみたいだから、大丈夫」 「でも、傷が開くと困るから」  隣の部屋へのドアは開いたままになっていた。そちらに入って、エアコンが動いていることに気付いた。そのお蔭で部屋全体が温まっていたことに、遅れて気付いた。クロゼットの戸を開き、中の床に置いていた救急箱から絆創膏を取り出し、女の元に戻った。シンクの水道で手を洗った。 「指、出して」 「うん」  女は小さな人差し指を上げた。まるでこの指とまれと言うように。その第一関節辺りの皮膚が裂けていた。血は止まっているが、思ったより深いようだった。西原はその指に絆創膏を巻きつけた。 「あの」 「なに?」 「あんたの、名前はなんて言うんだ」 「名前……」 「それが判らないと、話すのにも面倒だから」 「あなたは、ニシハラユウイチさん?」 「え?」  西原は驚いて、女の顔を見た。女は微笑んだ。 「名刺見つけたの。違うの?」 「ああ……。サイバラって読むんだよ」 「そうなの?サイバラユウイチ?」 「ああ」 「人からはなんて呼ばれるの?」 「別に、名前のままだよ」 「そんなの、つまんない」  西原は溜め息をついて、買い物袋の中身を取り出す作業を再開させた。電子レンジで温めたり、お湯を入れたりするだけの食品が大半を占めていた。 「あんたの名前はなんだ」 「小春」  全てをテーブルに出してしまうと、西原は顔を上げた。本名のようには思えなかった。 「小春?」 「うん。吉岡小春。小春でいいわ。あなたはサイね」  微笑む小春を見て、西原は首を振った。 「能天気だな」 「そお?」  ポリ袋を持ってカウンターの前に行き、缶類をその中に入れ、二つある蓋付きのゴミ箱の、左側にそれを入れた。ガランと、音がした。小春を振り向いた。 「覚えてるのか?昨日のこと」 「うん」 「それにしちゃ、落ち付いてるんだな」 「だって、とりあえず警察には行かなくてよさそうなんだもん」 「そんなの……」 「なに?」 「まだ判らないよ。話を聞かないと。話によっちゃ、警察に連絡するかもしれない」  小春はそれを聞くと、つまらなそうに目を伏せ、テーブルの方へ体を向けた。西原に背中を向け、テーブルに広げられた品々を一つ一つ手にとって見ているようだった。西原の視線は、またも脚へと惹き付けられた。均整の取れた形のいい脚だった。 「変な人ね、そんなこと言うなんて」 「どうして?変なのはあんただろう」 「あなたの方がずっと変よ。だって、頼んだんじゃないもの、私。あなたが勝手に匿ってくれたんじゃない。それなのに、これから警察に行くの?変よ」 「昨日は……昨日は気が動転してたんだ。あんたの様子もおかしかった。だから、放っておけなかったんだ。とりあえず、あんたが落ち着いたところで、事情を聞こうと思ったんだ」 「そうかしら?さっき、自分のバッグを探したの。中に手袋を入れてたのを思い出したから。机の椅子の上にあったわ。でも、中に手袋はなかった。靴もなかった。コートも。血の付いてる筈の物がなくなってるの。どうして?私のために証拠を消してくれたのかと思ったけど、警察に渡すためにどこかに保管してるの?」 「それは……」  小春は紙箱を一つ持って振り返った。  西原は慌てて、太股に固定されていた視線を上昇させた。 「これ何?黒のヘアカラーだって。男女兼用。私の髪の色を変えるの?どうして?変装するの?何の理由で?」  西原は苛立たしい気分になって、女に近付くとその手から箱を奪い取り、テーブルに戻した。テーブルに両手をついて、低い声で聞いた。 「やっぱり、あんたが殺ったのか?」  小春は首を傾げた。 「自首する気は?」 「さあ」 「さあだって?何があったんだ。どうして殺した?」 「ねえ、あなたの方の話を聞きたいわ。どうしてここに連れてきたの?私を助けてくれたんじゃないのなら、出て行くしかないわ」 「俺は……」 「なに?」 「何か、理由があってあんな事になったんだろうと思った。それで……」 「普通、百十番通報するわよねえ。私が知りたいのは、どうして普通するべきことを、あなたがしなかったのかってとこよ。私を助けたいと思ってくれたんじゃないの?私はそうなんだと思ったわ」 「……そうだよ」  西原はテーブルに手を付いたまま、小春に顔を向けた。小春もテーブルに後ろ手をついて、西原を見上げた。 「あんたを助けたいと思ったんだ」 「じゃあ助けて。私が誰だとか何をしたかなんて関係ないじゃない。あなたの方から関わってきたのよ。最後まで助けてよ。責任とってちょうだい」  小春は体を少し傾けて、西原の顎に軽いキスをした。  西原はじっと小春の目を見つめた。とても冷たい目だと感じた。  小春はそんな風に思っている西原を見て、満足そうな微笑みを浮かべた。 「あなたって冷静ね。私、冷静な男って好きよ」 「冷静なもんか。シャツ一枚着ただけの女がすぐ隣にいて、冷静でいられるもんか。おまけにあんたは綺麗だ。何とかならないのか、その格好」 「そう。興奮してるようには見えないけど」 「怖いんだ。怖気づいて動けないんだよ。あんたが人殺しだって、判ってるから」  小春は肩をすくめて、テーブルに向き直った。男物の下着を取り上げた。 「これ、私がはくの?」 「別に、はきたくないならはかなくたって、俺は困らない」 「はくわよ。風邪ひいちゃいそうだもん」  小春はそれと、ルームウェアと表記されたパックと、靴下のパックを持って、隣の部屋へ行った。 「こっちで着替えるから、覗かないでね。覗いたら殺すから」  そう言って、ドアを閉めた。冗談のような口調ではあったが、そうではないような気がした。
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