スプリング・フィーヴァー

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 場所によっては川幅が百メートルほどになる、市内でも割合大きめの川だ。 川の西側にある市営の運動公園の駐車場に車を止めて、紙袋を抱えて河川敷に向かって歩いた。遊歩道を川の流れに沿って北に進む。橋が近付くと道は左に曲がって、上の道路に合流していた。西原は曲がった部分から道をそれて、草の上を真っ直ぐに歩いた。獣道風に一筋の線ができていた。橋の下にはホームレスの家が、矛盾しているようだが三軒建っていた。家の前では一人が、ひっくり返したバケツを椅子にして弁当を食べていた。西原が近付くと警戒するような目を向けた。睨んではいなかった。黄色く濁った目で、ただ見ていた。 「こんにちは」  と、西原が声をかけると、男は箸を動かすのを止めた。 「なんだい?役所の人かい?」 「いいえ。あの、吉田さんって人、ここにいませんか?去年はいらしたんですけど」 「ああ。いるよ。今散歩に行ってる」  男は、飯粒の付いた箸の先で川下を指した。 「ああ、良かった。ここ、通ってもいいですか」 「ああ、どうぞ」 「どうも、失礼します」  西原は家の前の土のスペースを抜けて、再び現われた遊歩道を進んだ。家から二百メートルくらい離れた沿道のベンチで、胡麻塩頭の男が文庫本を読んでいた。西原に一度目を向けたがすぐに本に向き直り、それから少しして再び顔を上げた。  五十歳前後の浅黒い顔の男だ。五年前まではスーツを着て会社勤めをしていたらしい。どういう経緯で今ここに住んでいるのか、西原は詳しいことは知らない。出会ったのは一昨年、吉田がJRの駅付近で生活していた頃だ。新聞社の知り合いに頼まれて、ホームレスの現状というやつを写真に納めている時に知り合った。吉田が酔っ払いに絡まれて殴られていたのを西原が見つけて、写真を撮った。その後で彼を助けた。吉田はその時、早く助けろよと苦い笑いをもらしていた。後日その写真が採用され、その新聞を持っていくと喜んでくれた。  それ以来、彼がこの郊外の一等地に引っ越すまでは時々顔を合わせていた仲だ。ターゲットの見張りをしてもらうなど、仕事を手伝ってもらったことも何度かあった。  西原は歩きながら、男に会釈した。 「なんだ。西原のアンちゃんか」 「どうも。元気そうですね」 「バカヤロウ。元気なもんか」  吉田は鼻で笑って、文庫本を閉じると厚手の上着のポケットに入れた。 「いきなりどうした?何だ、その紙袋は」 「ええ。今日もなんか寒いですね」 「ああ。せっかく過ごし易くなったと思ったら、急に雪なんか降りやがってな」 「焚き火しませんか?」 「焚き火?」  西原は紙袋を軽く持ち上げた。  部屋に戻ると、小春がいなくなっていた。  広い家ではないが、それでも風呂場やトイレを覗いて確かめた。もぬけの殻だった。  彼女がいた痕跡さえ無いように思われた。  西原はぼんやりした気分になって、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベッドに座ってそれを飲んだ。  TVをつけた。  期待の新人俳優、堺正也の突然の怪死は、すでにワイドショーを賑わせていた。劇団の主催者が涙ながらにインタビューの受け答えをした後に、映像はスタジオのメインキャスターを映し出した。  この惨劇が起きました福岡市内、現場マンション前からのレポートでした。今年秋放送開始予定の連続ドラマに、主役ではありませんが重要な役どころにキャスティングされていました。  ピ。  まさにこれから、という時期に起こった悲劇です。関係者及び、ファン達はショックを隠しきれません。田中さん、本当に今回のこの事件、驚きましたね。  本当に恐ろしい事件で、初めは信じられませんでした。この現場となったマンションは、堺さんが仕事上の便宜を図るために借りていたそうですね。  はい。この部屋のことを知らない知人も多かったようですよ。  ピ。  今年五月まで公演予定だった『幕末・浪人石』では、勤皇の志士達に人気の高かった名刀村正の化身として、ユーモラスな演技で人気を博した堺正也さんです。私も大好きなお芝居だったんですよ。  こちらの公演も一時休止ということになっていますね。このまま中止となるか、代役を立てるのか。  ピ。  気象情報の時間です。  夢じゃないよ。だって、この男は死んだんだ。昨日、俺の目の前で死んでたんだから。  机の上に風邪薬の箱を見つけた。昼に飲むのを忘れたが、朝飲んだ分が利いたのか、喉の痛みはすっかり引いていた。朝、レンジで温めるだけのカルボナーラを二人分作って食べた記憶がある。その後で薬を飲んだ。薬を飲んだ後で車を運転してはいけないと、誰かが言った。  小春が言ったんだ。  朝からカルボナーラ?とも言っていた。  西原は腕で目をこすって、ビールを何口か続けて飲んだ。  誰だよ、小春って。  おかしくなったんじゃないのか?堺があそこで死んでたのは事実だろうよ。今こうやってニュースになってるんだから。  でも、そんな女がいた証拠はないよ。  血を見て頭がどうかしたんじゃないのか?  ビールを飲んだ。  証拠は燃やしてきたんだ。川原で焚き火にして。俺の靴と小春の靴と、コートとバッグもだ。手袋は夜のうちに燃やした。灰皿の上で。手袋と一緒に、小春の顎を拭いたティッシュも燃やした。  その灰はどうしたんだ?  流しに捨てた。  ビールを飲み干した。  ほら見ろ。証拠は何処にもないってことじゃないか。  証拠?証拠ならある。この部屋のあちこちにあいつの指紋が付いてるよ。風呂場に行きゃ髪の毛だっていくらでも出てくるさ。それに……。  西原は空き缶をベッドに転がして立ち上がった。机の前に行き、カメラを手に取り、電源を入れ、昨日の夜の写真を探した。しかし、写した筈の映像がなかった。血塗られた壁も、その端に写っている筈の小春の姿も、二人がマンションに入っていく時の写真も、どれもが無くなっていた。昨夜よりの前の、堺一人の写真と、雪が降ってきた時に戯れに撮った街の様子だけしかなかった。西原は首を振った。  嘘だろ。本当に夢だったって言うのか?  いや、まさか。  違うよ。消されたんだ。  きっと、あの女が消したんだ。  カメラを机に戻した。  クロゼットから着替えを取り出して、風呂に向かった。脱衣室に置いている洗濯機に着ていたシャツを入れた。洗濯機の中には、既に大量の洗濯物が入っていた。  西原は何かに気づいたように、汚れ物の中に手を突っ込んでかき回した。触り慣れない柔らかな素材の布に手が触れると、それを引っつかんで目の前に持ってきた。  グレーのワンピースだった。右の袖の縁にわずかに黒いシミがついていた。  西原は確かな証拠を握り締めると、顔に押し付けた。
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