スプリング・フィーヴァー

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 それから一週間もしないうちに、堺正也のニュースはあまり見かけなくなった。警察や芸能記者が調べていくうち、彼があまり品行方正なタイプではなかったことが判り、世間の同情がいささか冷めてきたせいだ。起用を予定していたTV局のワイドショーには、新しいドラマが始まる前にそんなニュースは忘れたいといった雰囲気がにじみ出ていた。そのうちどの局でも、時々思い出したように事件の捜査がはかどっていないことを教えてくれるだけになった。  西原の方は、小春を忘れることはなかった。血まみれの小春が夢によく出てきたし、起きれば部屋の壁に、小春のワンピースがハンガーで吊るされている。  応接室には小さなTVが一つあった。室、と言っても編集室の片隅に応接セットを置いただけのワンコーナーだ。正確には部屋ではないが、間仕切りになっている書類棚が壁代わりになり、部屋っぽくはあった。煙草専用の空気清浄機が置かれているが、不満に持っている人間もいるだろう一角だ。その応接用の背もたれのない椅子に座って、見る者がいなくても付けっぱなしになっているTV画面をお義理に眺めながら、西原は煙草をふかしていた。TVの音声よりも、編集室で働きまわっている人間の声や電話の着信音の方がずっと大きかった。  そこに、茶封筒を右手で持ってひらひらと振りながら、眼鏡をかけた太った男が戻ってきた。本多という名の男で、向かいの椅子にずしりと座った。西原は煙草を消した。 「OKだって。買うよ。よく撮ったなって喜んでた」 「良かった」  本多は封筒から小さな紙を取り出して、西原の前に置いた。封筒もその隣に置いた。 「それ領収ね。一応書いてね」 「うん」  西原は領収書と書かれた用紙の金額欄を見て、とりあえず満足した。封筒の中を覗き、同じ金額なのを確かめて、但し書きの下の署名欄にサインする。  度々ずり下がる眼鏡を左手で押し上げながら、太った男はその様子を見ているようだったが、唐突に言った。 「向こうの友達とこないだ会ってさ、あんたにその気があるなら手伝って欲しいって言ってたんだけど」 「は?」  西原はジャケットの内ポケットにボールペンを戻しながら、本多の顔を見た。 「何それ」  領収書を渡した。本多は受け取って肩をすくめた。 「ソマリアだって。どうよ」 「お前が行けよ」 「なんだそれ。僕は一向こっちの人間だもんね。カメラマンじゃないし、ジャーナリストでもないよ。あんたは元はあっちじゃないか」 「やめたんだ」 「それほど危なくないよ。飢餓救済のNGOに同行するって」 「軽く言うな」 「なあ、武田が死んでもう何年になるよ」 「関係ないよ。俺に度胸がなかったってだけじゃないか。今じゃ興味もない」 「でもムラヤはまだ持ってんでしょ。ちゃちなデジカメばっかり扱ってないでさ、偶にはフィルムもいいんじゃない」 「煩いな。アフリカの角に興味はないって言っといてくれ。ま、気にしてもらってありがたいが」 「仕方ないけどね、そう言うならさ。でもさ、僕は好きでこっちにいるけど、あんたは」 「あっちもこっちもないだろ」  西原は封筒を半分に折って、ボールペンとは逆のポケットに押し込みながら立ち上がった。 「今度来た時はお茶くらい出してくれよ。いい写真撮って来るから」  本多も立って、残念そうな視線を西原に向けた。 「やばい仕事してんじゃないのか」  小春の顔が頭をよぎった。 「なんで?」 「ちょっと太耳に挟んでね。こういうの嫌いな奴が、そういう事するんだよ。もしそうなら気を付けろよ。やめた方がいいよ。あんたらしくないもん」 「抽象的でよく判んないよ」  西原は笑った。この男が小春や、堺に関することを知っている訳がない。そう思うと自然に微笑んでいた。 「俺が狙うのは笑って済ませられる芸能人ネタだけだよ」 「済ませられるなら心配しないけどさ」 「心配ないよ。じゃな」  行こうとした西原の耳に、ニュース速報のサイン音が飛び込んできた。  西原だけでなく、本多も同時にTVに顔を向けた。二人とも押し黙り、じっと動かなかった。画面の上端に端的な文章が表示された。  中央区Gホテルの一室で切創痕のある男性の遺体を発見。同室は全国ツアー中のミュージシャン松田竹彦さんの宿泊する部屋。発見された男性の身元は現在確認中。 「うへえっ」  本多が呻き、西原はそちらを向いた。彼は突き出した口をへの字に曲げていた。少し気が抜けたような表情だった。 「嘘でしょ。明後日のライブ、チケット取ったのに」 「ファンなの?」 「そういうんじゃないけどさ。本人かな?」 「さあ」 「そう言えばこないだも誰か死んだよね。何てったっけ、なんか俳優。サカイなんたら」 「そうだな」 「物騒な街になったなあ」 「でも切創痕って、他殺ってまだ決まった訳じゃないんじゃないか。これからだろ」 「そうか。だなあ。ミュージシャンだし、自殺かもね」 「本人かもまだ判らないよ」 「んー、どうだろ。本社から誰か来るんだろうなあ。あー忙しくなるぞ、これから」 「だな。それじゃあ」 「ああ、うん。またよろしくね」  西原は今度こそ部屋を出て行った。  歩きながら手を握り締めた。手の平にじっとりと汗をかいていた。切創痕の文字を見ただけで小春の顔が浮かんでいた。彼女が関わっているとは限らないのに、目眩を覚えそうなほど嫌な予感がした。  ホテルで死んでいた男は、発見された日のうちに松田竹彦本人と確認された。自殺と断定されたのは翌日だった。多少、死亡の状況に不可解な部分はあったものの、室内のテーブル上に遺書があったことと、創作活動に行き詰まってって酷く悩んでいたことを関係者の多くが証言したことでそれが確定的になった。他殺を示唆するものは認められなかった。  だが、週刊誌には自殺を疑問視する説が書き立てられた。  そもそも、冷蔵庫の取っ手にナイフを縛り付けて、それに体当たりするなんて自殺の仕方があるだろうか?いかに個性的なロックシンガーだったとは言え、奇妙すぎるやり方だ。そのうえ自殺断定の根拠となった「遺書」だが、そう言うよりは「遺書らしきもの」と言った方が妥当だろう。本人筆跡の日付と署名はあったというものの、内容と言えば「これで終わりだ」のただ一行という。現物が公開されていないのでイメージを掴みかねるが、曖昧といえば曖昧。確かに死ぬつもりだったという証拠には弱すぎるのではないだろうか。孤高のミュージシャンの自殺というあまりにもありがちの設定に、警察の捜査が怠慢になってはいないだろうか。  雑誌を閉じて書架に戻し、西原は配架作業中の司書に声をかけた。 「すみませんが、雑誌のバックナンバーなんて置いてありますか?」 「はい、ありますよ。二階の禁帯出資料室の一番奥の棚です。週刊誌はありませんが、主だった季刊誌や月刊誌は揃っていると思いますよ」  西原は礼を言って、市立図書館の階段を上った。  紀行物や健康、仏教、経済などの棚の裏側に、女性ファッション誌が数種類納められていた。その中から一年に二冊ずつ適当に選び出すと、数年分を抱えてテーブルに置いた。内容は読まず、写真だけに集中してぱらぱらとめくっていった。  小春の顔を思い浮かべているうちに、この手の雑誌で見かけたのではないかと思い当たったのだ。あの器量なら、かつてモデルをしていたと言っても何の不思議もない。その方が自然だとも思えた。  少しずつ年代をさかのぼり、三年程前の一冊をめくっている時、急に小春の横顔が現れた。 「見つけた」  と、西原は思わず呟く。ページを何枚か戻って、丁寧に内容を目で追った。小春とそっくりな女のプロフィールが、特集の始めのページに載っていた。原口春子、二十歳、身長一六二センチ、福岡出身。本誌専属モデル。正面の顔より、横顔の方がはっきりと確認できた。その時々の化粧の具合で印象が少しずつ変わっていたが、横から見る鼻筋や耳の形などの印象は一致していると思えた。  西原は他の雑誌を全て棚に戻し、原口春子が所属しているという本だけを見てみたが、それが活躍している期間は一年程度だった。モデルになったきっかけはスカウトだと書いてあったが、やめたきっかけは載っていなかった。  雑誌を片付けると、パソコンを扱えるブースに移った。  オンライン上で探すと十分もしないうちに吉岡小春の正体が判った。  三年前に原口春子は、雑誌の写真撮影で知り合った俳優、吉岡広之、当時三十一歳と婚約している。それを機にモデルをやめ、吉岡と同棲を始めた。しかし、婚姻前に吉岡は死亡。他殺だった。以前付き合っていた女に腹を刺されたのだ。原口春子の目前での出来事だった。  西原はこの事件を覚えていた。吉岡の名が判った時点で思い出すことができた。芸能方面で言えば、その年一番の衝撃的な事件だったと記憶している。ただ、原口春子の名前は覚えていなかった。その名前も報道されただろうが、それよりも犯人である女優の立花由加里と吉岡広之の二人の名前が世間を賑わせていたからだ。立花は当時二十五歳で、アイドルから女優へと移行しかけていた人気上昇中のタレントだった。当時は酷く騒がれたが、三年経った今ではどちらの名前もほとんど聞かれなくなった。  吉岡春子。  本来なら小春は今、そう名乗っている筈だったのだ。
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