スプリング・フィーヴァー

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 縁なしの眼鏡をかけた痩せた男が、暗い顔で溜め息をついた。 「取材って、こういう事ですか」 「ええ。微妙なところで悩んでたんです。あちらの位置と同じように。そのまま記事にして、ここらでパッと目立つのも悪くはないでしょう。最近、少し人気が下降気味のようですし。だけど、奥さんも子供もある方ですから、どうしたものかと悩んでたんですよ。それで、マネージャーのあなたに相談するのが一番早いかと」  男は皮肉に唇を引きつらせ、鼻で笑った。 「そうですよ。下降気味なんです。最近は彼が出たからって視聴率が上がることもないんです。でもね、この記事で人気が出ることはまずないでしょうね。高い額は出せませんよ」 「もう、それほどの商品じゃないですか。数年前までは随分稼いでくれたんでしょう」 「数年前の話です。けど、ここで見限りも出来ないんでね。五十出しましょう。愛妻家のイメージを壊すのは痛いですから。でもそれ以上なら、勝手に写真でも記事でも出してください。どうしたって出せません。私の裁量では五十が限界です」 「結構ですよ」  西原はにこりと笑って席を立った。 「三十分で用意できますか?」 「ええ」 「じゃ、下のロビーで。三十分後くらいに来ますから、よろしくお願いします」  東京国際空港のロビーで西原は本多に電話をかけた。五コール目で声が聞こえた。 「どうしたん?」 「今暇?」 「暇じゃないよ。なに?」 「女性ファッション誌のモデルに詳しい人間いるかな」 「いるさ、そりゃ」 「話できる?」 「今かよ?」 「今でなくてもいいけど、セッティングしてくれるかな。ちょっと話聞きたくてさ」 「今どこよ?」 「羽田。一時間後の飛行機で帰る」 「なんだ、東京出張だったのか。で、何聞きたいの?」 「三年くらい前の『ピヴォワンヌ』の専属モデルで、原口春子って女のことなんだけど、モデルやめて何してるとか、知ってたら教えて欲しいんだ」 「原口春子。ああ、覚えてる。判った、調べとくよ。じゃあ、そだな、七時に天神ね」 「なんだ、詳しいのってお前か」 「うん。とりあえず地下街でコーヒー飲んでるからさ」 「判った。ありがとう」  コーヒーを飲みながら本を読んでいる本多に声をかけたのは、七時を少し過ぎたくらいだった。それから奢る約束で居酒屋に行き、本多から原口春子の話を聞いた。 「ホステス?」 「うん。水鏡天満宮の近くの小さな店らしい。クラブって感じじゃなくて、バーみたいな。僕は行ったことないけどさ。ママがやっぱり元モデルらしいよ。何かのつてがあったんじゃないの」 「そう。どこに住んでるんだ?」 「住所までは判んないよ。その店にいるってのも半分噂だから。似てる子がいるって言うだけのさ。福岡に戻ってることは確かみたいだけど、春日市の実家には帰ってないみたいだね」  蕎麦焼酎のお湯割のおかわりを頼んで、本多はずれてきた眼鏡を人差し指で押し上げた。 「あんな事件に巻き込まれたんだもんなあ。そりゃ帰ってくるさ」  西原は揚げ出し豆腐をつつきながら少し考え、口を開いた。 「お前、その店に行って確かめてくれないかな」 「ん?原口春子かどうか?」 「ああ。資金は出すよ」 「そりゃ、人の金で美人と酒飲めるってんなら断わんないけど、どうしてよ?自分で行けばいいじゃん」 「でも、お前が見た方が、すぐに本人か判るだろう」 「ああ、まあね。いいよ、了解。でもさ、何でよ?春子、復帰でもするの?まだ二十三くらいだから不思議はないけど」 「その頃はスポーツ選手の方を狙ってたからね、俺は」 「そうだったねえ」 「今さら興味が出てきたんだ。その後の原口春子がどう暮らしてるのか、面白そうだなと。どうせ同じ街に住んでるんなら、手っ取り早いネタだろ」 「ちょっと悪趣味だね、あんたにしちゃ。可哀相じゃん。そっとしておけばいいのに」  西原は鼻で笑い、本多の小さな目を覗き込んだ。 「珍しいな、お前にしちゃ。有名人苛めを仕事にしてるくせに」 「感じ悪い奴苛めるのは好きだけどね」  本多は悪びれず、あっさりとそう言ってのけた。 「いい子はそっとしといてやりたいの。良心は失っちゃいけないのよ、こんな仕事でもさ」 「原口春子はいい子だったのかよ」 「悪い話は少しも聞かなかったね。名前が売れて調子に乗ることもなかったし、吉岡が仕事辞めてくれるかって聞いたら二つ返事で専業主婦OKしたんだって。そういういじましい女の子好きなんだな、僕は」 「単に働きたくなかったんじゃないの」 「バーカ。人気がガーッと出てきた頃だったんだぞ。あんな目立つ仕事を目指してやっと成功しかけてきたのに、んな訳ないじゃん。アホか」  西原は肩をすくめた。  そのいい子だったはずの女が、人を殺したかも知れない。ムッとした顔で酒を飲む本多を、西原は薄く笑いながら眺めていた。  翌日、三月二十九日の正午時分に宅配便が届けられた。 送り主の名を凝視する西原を、それを運んできた作業服の男は怪訝そうに覗き込んだ。 「あの、返品ですか?」  西原は慌てて顔を上げた。 「いいえ」 「じゃ、ここサインお願いします。フルネームで」 「はい」  男はサインを受け取ると、満足したように段ボール箱を二つ置いて帰っていった。  送り主の名は吉岡小春だ。住所欄には聞いたことのない町の名が書いてあった。適当に書いたのだろうと思える住所と電話番号だった。丸っこいゴシック調の筆跡だった。  西原は二つの箱を玄関に置いたままにした。  それがそこに在ることを気にしないよう、気を付けて時を過ごした。それでも一時を過ぎると、なぜ小春から荷物が届くのかを考えるようになり、二時を過ぎると音楽を聴きながら何を送ってきたのかが気になり出した。三時を過ぎてベッドの上で本を読んでいると、ついに我慢が出来なくなった。  あの女の荷物なんか触らない方がいい。どうして受け取り拒否しなかったんだろう。  コンクリートの三和土の上で二つの段ボール箱のテープを外し、蓋を開けた。どちらにもナイロン製の旅行用バッグが一つずつ収まっていた。それを部屋に運んで、床の上でファスナーを開けた。一つには女物の洋服と、袋に収まったパンプスが二足入っていた。もう一つには更に袋が幾つも入っている。ファスナー式やら巾着やら、形も大きさも様々だった。一番大きなものを開けると、そこには見覚えのあるジーンズとパーカー、別口でポリ袋に入れたサンダルが入っていた。見覚えがある筈だ。全て西原のものだった。部屋からそれが無くなっていることに、今まで少しも気付いていなかった。他には化粧品類が二袋。下着の入ったものが三袋あった。  それらを見れば、小春が再びここへ戻ってくるつもりなのは明らかだった。  どうして?タイミングが良すぎるじゃないか。昨日も男が一人死んだんだ。  迷惑だ。勝手に出て行ったくせに、また勝手にやってくるのか。  そう思いながらも、別の部分では再び小春に会えることを期待していた。しかも会えるだけでなく、彼女はこの部屋にしばらくの間滞在する気らしい。西原は自分の気持ちに気付くとぞっとした。嬉しいのか怖いのか、判らなかった。  ドアスコープを覗いて、ドアを開けるまでに数秒の間を置いた。小春なのかどうか、映りの悪いレンズでははっきりと確認できなかった。しかし直接見れば、やはり彼女だった。 「よかった。留守だったらどうしようと思ってたの。荷物届いた?」 「ああ」  ドアを開けた体勢のままの西原を見上げて、小春は首を傾げた。 「なに?」 「いや……髪切ったんだな」 「ああ、うん」  小春の長かった髪が、肩ほどに短くなっていた。色も黒に変わっている。 「あなたが買ってきてくれたやつ使って自分で染めたの。それから髪を切りに行ったの。美容室のお兄さんが、自分でやったにしちゃ上手く染まってるって褒めてくれたのよ。似合う?」 「ああ」 「それで、入れてくれないの?」  心細げに言い、西原は慌てて身を避けた。小春は一つ微笑んで、さっさと中に入った。  西原がドアを閉めると、小春はテーブルに小さなバッグを置いて振り返った。 「しばらくのあいだ泊めてね」 「家に帰ってたんじゃないのか?どこに住んでるんだ」 「最近は西新にいたの」 「最近?」 「ホテル住まいしてるから。飽きたら別のホテルを探すのよ」 「家、ないのか?」 「うん。住所不定」  小春はそう言うと、自分のセリフが可笑しかったらしく、クスクスと笑った。 「実家には帰れないのか」 「実家?……調べたの?」 「ああ。今日は仕事は休みなのか」  小春はつまらなそうに視線を下ろした。 「他に行く所はないのか」 「ない」  小春の視線が戻ってくる。  さびしそうな紅い唇が動く。 「だからここにいさせて」 「……判った」  結局承知するだろうと、自分でも思っていた。  それは小春も一緒だろう。満足だったのか、ふと目を伏せて、隣の部屋へ歩いて行った。  小春の視線が、部屋の壁に向かった。  静かな微笑みを浮かべた。 「ワンピース、洗ってくれたんだ」  西原はかけたままにしていた小春の服を見て、ああと呟いた。  毎日それを眺めていたと思われるのは恥ずかしかったが、今さら慌てても仕方がない。  小春はありがとうと言った。そして、その細い手が西原の顔へ伸びてきた。  西原が小春の顔を見ていると、それはゆっくり近付いてきた。  小春にキスをされた。  西原は動かなかった。されるままにしていた。  非常階段の死体と、血まみれの壁と、蛍光灯の冷たい明りが頭をよぎっていた。緊張していた。冷や汗が流れそうだった。  だが、自分からそれを止めたいとも思わなかった。  ややして、小春が言った。 「私、あなたが好きみたいよ。多分、世界で二番目くらいに」  可愛い顔で、小春はそう言った。  そして西原は、勝手に出て行った時から今までのあいだ何をしていたのか、彼女に聞きそびれた。
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