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個人的なことだけど、世の中気の持ちようだ! とか世界は貴方の捉え方次第! みたいな説教臭い話が俺は嫌いだ。黴臭い精神論には鼻をつまみたくなってしまう。だから、一時間ちょっと前には後ろ手で乱暴に閉められたドアを、今は真正面から向き合っているのにやたらと重たく感じてしまうのがどうしようもなく癪だった。
父さん達は家にいるほうが珍しい。姉さんは二度寝かゲームだろう。足音を忍ばせながら誰もいないリビングまで辿り着き、リュックをソファの横に下ろすと全身の力が一気に抜けた。柔らかな感触にぼふ、と身体を沈めこむ。
煮えくり返っていたはらわたはいくらか火の手が弱まってきていた。出来ればこのまま目を瞑りたい。一日ぼけっとしていたい。ささやかな願い事だったけど、虚しいことに階段を降りてくる足音が聞こえてきてしまった。考える前に両手が動き、頬にぴしゃりと痛みが走る。ちょっとはマシになっただろうか。
俺が背後を振り返るのと、引き戸の影から姉さんがひょこりと顔を出してきたのは殆ど同時のことだった。猫のような細い瞳が俺のだらけた姿をなぞる。
「……予定変わった。一狩りする?」
「んーにゃ、気分じゃない」
ついさっきの発言を平然と翻しながら姉さんはぺたぺたとリビングを横切った。流石にちゃんと着替えたのか、ボトムスに濃紺のスキニージーンズを穿いている。くたびれたTシャツはそのままなのに、髪を整えピアスを付けたらモデルみたいにも見えてくるからお洒落ってやつは侮れない。
そんな雰囲気を帯びながら姉さんが向かった先は所帯じみた台所だった。冷蔵庫を漁りにでも来たんだろう。美人の無駄遣いとしか思えない。
俺はといえば、足腰にも背中にもまるで力が入らない。ソファに身体を預けているのか、それとも力を吸われているのかわからないような有様だ。かといって今ここでしたいことも無く、スマホを取り出してあてどなく画面を眺めるばかり。強いて言えば部屋に戻ってだらんと不貞寝でもしたいけど、歩くどころか立ち上がるのも億劫だった。気力の糸がことごとく、ぶっちり千切れてしまっている。しばらく振りの馴染み深い感覚だ。忌々しいことこの上ない。
カチャカチャと食器が触れ合う音を聞くともなしに感じながら俺はそのままぼんやりしていた。脳が怠さでやられていると、がさごそと何かを探す気配も漂ってくるかぐわしい香気もただそれだけの情報にしかならない。ばらばらのまま、それら同士が繋がらなかった。あるいは繋げなかったのかもしれないけれど。
とはいえ、目の前のテーブルにお盆が置かれ、否が応でも目に入ってくるとそうも言っていられなかった。若草色の新茶が眩しい。お茶請けのクッキーも並べると、一仕事を終えた姉さんは俺の隣にためらいなく座り込んだ。肘が触れ合う距離だった。
「何さ」
細くて薄い両の手で自分の湯呑みを包み込み、姉さんはそっと一口啜った。満足げに頬を緩めた後も返事は返ってこなかった。
「何」
曲がったへそが声色に滲む。俺は思わず唇を噛んだ。視線だけをおずおずと向ける。姉さんは真っ直ぐこっちを見つめていて、黒々と深いその瞳に俺のことを写していた。肩が勝手に跳ねて竦んだ。
「まー、たまにはね、貸しでも作らんとね」
お菓子だけに。と安直な駄洒落を重ね、姉さんはクッキーを口に放り込んだ。甘さを噛み締める横顔は普段通りの姉さんそのもの。にんまりとしながら次の一枚に手を伸ばす。気分屋で、いい加減で、平気で俺に甘え散らかす。いつもの姉さん過ぎるくらいで。
「バカ」
俯いたせいで声が曇った。喉が狭まったんだから当たり前だ。ただの自然現象だ。両手を固く握り込む。
「うん、あたしバカだよ。トモと違って」
湯呑みを置いた姉さんがぼす、と背中をソファに預けた。姉さんの表情は俺からは見えない。となれば当然、俺の顔つきも姉さんには見えない。
「姉さんのバカ」
「わかってるって」
重ねた罵倒を姉さんはへらへらと受け流す。本当に何でもないことみたいに。こんなことは年に一度もしないのに。せめて自分の茶碗は下げろと母さんが口を酸っぱくしてものらりくらりとしている癖に。
「ほら、冷めちゃうぞー。あたしの淹れた茶が飲めねぇっての?」
飲んだくれみたいな物言いと共に背中を叩いた手のひらは、耐えられないくらい温かかった。信じられないほど柔らかかった。
「うっさい」
勢い任せに身を起こし、姉さんの手を払いのけようとした。もし触れたままでいたら、撫でられでもしてしまったら。危ぶむより前に、思考よりも早く俺の身体は反応していた。間の悪いことに姉さんは俺の肩を掴もうとしていて、考えなしに動いた俺は思いきり重心を崩してしまって。ぐらりと傾く世界の中で姉さんの顔が瞳に焼き付く。あ、と言わんばかりだった。
「あたた……」
姉さんの声が上から聞こえる。くすぐったく、むず痒い気分だった。俺が中学に上がった頃にはもう姉さんの背丈を追い越していたから。
顎か鎖骨か、固い部分が額に当たる。さらさらとしたTシャツの布地を感じた。何も見えない。甘酸っぱい匂い。頬に返ってくるむにっとした弾力。少しだけひんやりもしていて、やわらかい。しなやかで細い。伏せたお椀よりは低く、平皿よりは高いもの。カチ、と思考の歯車が嵌まる。
「ごめ、ちがっ」
手をつける場所を手探ろうとして、そもそも下敷きになった腕が抜けなくて、頭の中が青くて白い。引いていく血の気が肌へと巡る。むにゅ、と当たる感触が左胸に火をくべてきて。
「はーい貸し二つ目。ねーちゃんのおっぱいは高くつくぞ? 金利もつくぞ~」
だらっとした吐息が耳を掠める。頼りない柔腕が俺の頭を絡め取っていた。平然と、惜しげもなく、大切な場所へと閉じ込める。うなじが熱ぼったい。息が出来ない、だって吸えない。固く閉ざした瞼の裏に、その向こう側がおぼろげに浮かぶ。まろやかな膨らみ、姉さんの華奢さ。離れろバカ、と命じた手足は痺れるばかり、凍てついたまま。
「だいじょぶ。貸しだから、ね?」
指が頭皮をくすぐった。しゃりしゃりと髪が鳴る音。とん、とんと叩く小さな手のひら。何てことのない物音が骨身をするりと潜り抜け俺の内へと滴り落ちる。息を抑えて吐き、吸った。姉さんの匂いがあたたかい。
「……うん」
俺の言葉は子供のようで、自分のものとは思えなかった。根元まで強張っていた手足に温かなものがまた行き渡る。右腕を引き抜こうとするのに合わせて姉さんはその身をよじってくれた。晴れて自由の身となったのに、頼るべき俺の利き腕は華奢な肩へひたと寄り添う。俺よりずっと細くて脆い。たおやかで、軽くて、折れそうなくらい儚げなのに。
「返済はいつでも。ローン千穂はお客様本位、大変寛大なのですよ」
営業スマイルとセットになっていそうな、でも絶妙に噛み合わない声色だった。寛大なんてどの口で言う。右頬のあたりが煩いじゃないか。奥から響いてきてるじゃないか。
「…………ありがと、姉さん」
もぞもぞと動くと隙間が消えていく。谷間に深く溺れ収まる。少しだけ汗ばんだ気配。腕がひとりでに姉さんへ沈んだ。気付けば足が絡んでいた。駄々を捏ねるガキみたいな有様。呼吸が深く、長くなる。
「いいよ」
俺にさえ辛うじて届いた囁きは、俺と姉さんだけのもの。姉さんと俺しか知らない言葉。姉さんはそっと背中をさすってくれた。ずっと一緒に居てくれた。
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