EXTREMES'21

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   初回大会が2004年。  内輪感のある “駆け出し” のイベントだったことは間違いない。当時は日本のトヨタビッグエアや日産トレイルジャムの方が海外勢からも注目され盛り上がっていたんじゃないかなーと思う。  でも俺は出た。ロジャーと言う俺のヒーローが呼んでくれるなら応えるのが筋というもの。  てゆーのは建前で。  あの頃毎年欠かさず出場したのはロジャーの為と言うより先ず食う為だった。  まだハタチそこそこのロジャーが手にしたアメリカンドリームのおこぼれ、EXの賞金がなければ食い繋げない現実があったからだ。ああ世知辛い。  ソルトレイク金の効果でJS航空を始め複数のスポンサー企業には恵まれた。が、どこも契約期間は二年。たった二年。戦績が振るわなければ次の五輪への折り返し地点で損切りされる。  ─────冗談じゃねーわ。  オンシーズンの国内外移動費はJS航空が見てくれても、滞在費、食費、通訳を含む現地サポート、何をするにもカネが掛かる。ましてマイナースポーツじゃチームに所属したって持ち出し持ち出しで大差ない。 『それでもオマエは恵まれてる方だ』 『オリンピックメダリストは扱いが違うから』 『ハミルトンが棄権してくれてラッキーだったよな』  確かに俺は幸運なほうなんだろう。  進学もせずに飛ぶことに必死でいればお声が掛かる。  オフシーズンはヒロさんのロッジを手伝い(主にタイチの子守り)、ばーちゃんの看病をして、空いた時間はひたすらトレーニングしていればどうにかなった。  戦績に波はあるものの、日本国内ではまだ “俺ほど飛ぶ人間がほかに居なかった” お陰で『トリノ大会銀メダル』までは何とか繋がった。持ち堪えた。  表彰台で大量のフラッシュを浴びるロジャー。  一段低い場所から羨望の目差しを向ける俺。  一介のスノーボーダー、二十三才の青年が億万長者になれるアメリカ。四年後のバンクーバーまでまた必死で食い繋がなければならない十八才の日本人─────チビの俺。  埋められない深い溝。越えられない高い壁。  だけどロジャーはいつも笑顔で迎えてくれた。 『シュウは僕の戦友であり親友なんだよ』  日本人のフィジカル面での弱点も、ハーフパイプでは寧ろ有利だ、俺には可能性もチャンスも山ほどあると明るく背中を押し続けてくれた。感謝しかない。
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