一、誘いと兆し

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 澄み渡る青空に鰯雲が浮いていた。  雲はじっくりと眺めていなければわからないほど、ゆったりと動いている。  その下には色鮮やかな紅葉が稜線を描いている。  その木々の中に小さく一点だけ白い色合いがあった。  巫女である。  秋深まりつつある山中で、神を奉る装束に身を包んだ乙女が、落ち葉に包まれた地面を見ながら歩いている。  彼方(あちら)へとぼとぼ、かと思えば其方(そちら)へとぼとぼ。  時折(ときおり)立ち止まっては、屈んで地に落ちた枯れ葉を(てのひら)で払っている。  巫女たる乙女は紅葉狩りをしているわけではないらしい。  白磁のような小さな手。  握る拳の中には数粒の団栗(どんぐり)。 「今年は随分と数が少ないですね。夏の嵐で落ちてしまったのでしょうか」  立ち上がった巫女は掌を広げ嘆息(たんそく)する。  「去年は袖が膨らむほど落ちていましたのに」と口からこぼし、ショボくれる姿がなんともいじらしい。  ()りとて自然は人の思うようにはいかぬもの。  山神奉る巫女ならば、それも重々承知のはず。  空を仰いで大きく息を吐き、巫女はまたすぐに下を見て歩き始めた。  (とんび)が何処かで鳴いている。  山中は一筋ばかりの獣道。そこを雀の如き歩みで進むは手折(たお)れそうな草鞋足(わらじあし)。  山慣れしている自負もあろう。巫女は禁足地を示す注連縄の前まで来ると、暫し逡巡した後、(きびす)を返して歩き始める。そんな折。 「おや、おや、斯様(かよう)な所に小さなお子じゃ」  なんともむっとした香料を思わせる声が、巫女の後髪を(くしけず)る。  振り向く巫女の視線の先に、艶やかな黒髪を長く垂らした女の姿。  女は枯葉に覆われた山の斜面をするすると、流れるように巫女に近付く。 「こんな所に一人で来るとはのう。とと(・・)かか(・・)はどうしたかえ?」  禁足地の辺りを彷徨(うろつ)くことを咎めている訳ではないのだろう。  コロコロと笑う声音と、細筆で線を引いたような目がそれを如実に表している。 「とと様もかか様も麓の村で暮らしております」 「ほう、麓で……ならばお主、この山に一人で暮らしておるのかの?」 「はい。私はこの山の中腹にある社、そのすぐ近くの小屋に住まわせ頂いております」 「ほうほう、大層しっかりしたお子じゃて」 「い、いえ。それほどのものでは……」  女に誉められ謙遜する巫女であったが、その表情(かお)は些か以上に緩んでいる。他者との交わり、ましてや誉められたことなど()いぞ無い。  巫女の胸中に例え難き早鐘の音が柔らかく響いているのだろう。襟元に手を添え顔を綻ばせ、今し方出会ったばかりの女を見上げている。 「ところでお主、名はなんと申す」 「これは大変失礼致しました。私はコイと申します」 「ほう、コイとな」 「はい。三年ほど前に二十八代目のコイを襲名致しました」  つい、と会釈をし頬笑む巫女の所作。その流麗なこと。  齢十三にも満たないはずの、そのあどけない見掛けも相まって、秋に染まる山中に、ひっそりと一輪だけ咲いている、曼珠沙華の如き姿。  女は暫し呆けた様に眺めていたが、やがて何かを得心したのかゆったりと頷いた。  湿り気を帯びた冷やかな風が両者の間を抜けていく。 「あのう……差し支えなければ、あなた様の御名前を拝聴させては頂けませんでしょうか」  出会って間もなく、交わした言葉の少なさもあって、先程の幽玄の(てい)は何処へやら、人見知りをしては恥じらう巫女を見て、ああ、そういえばまだ年端もいかぬ者であったかと、女はやや気勢が削がれたのか鼻息を一つ。  尋常ならざる神秘性を持つ巫女ではあるが、年相応の顔も持ち合せ、ある種の危うい雰囲気を醸し出している。  女はどうにも巫女を構いたくなるようで、ともすれば手元に置き愛でたくもなるのだろう。  覆い被さるように女は身をかがめ(・・・)ては、巫女の顔を覗き込み、黒曜石の艶やかな光を放つその瞳を善く善く魅入っては、その笑みをより一層強め、滑らかな柔肌に舌を這わせるかの如く、口先から一寸ばかり舌を出し、チロリ、舐めるは自身の上唇。 「名を問われるなぞ何年ぶりかのう。久しいのお」 「そんなに長い間、誰ともお会いになられなかったのですか?」 「ほうじゃのう、この山に棲み着いた頃は、まだ麓の村の者とも会っていたのだがの、最近はとんと見なくなったわ」  女は何処か遠くを見るような顔。  何か思う事があるのだろうと、巫女は心中で思いを巡らせつつも、この妖しげで柔和な笑みを浮かべる女の顔を眺めていたが、自身と同じ身の上なのだろうかと思い至った矢先、三日月のような女の口が形を変えた。 「してお主、コイを襲名したと聞いたが、先代は如何した」  先代のコイ――二十七代目の巫女は年老いてもう山暮らしができぬ身であったが故に、祭事や奉納を行う役を降り、この村娘に跡を継がせたのである。 「先代様はお年を召していたので、歩くのもやっとといった有り様で、それも私が跡を継ぐときの話なので……」 「ほんに諸行無常とはこの事じゃてな」  女は、つい、と巫女の頭にその青白い手を伸ばし、黒絹の如き髪を一頻り撫で、惜しむように指を絡めては櫛る。  女が始終纏わせている超然とした雰囲気に、巫女はすっかり当てられて、女の為すがまま、されるがままに身を委ねるより他は無い。  端から見れば、秋深まりつつある山中で、両者の周りにだけは、瑞々しく咲いた山百合の芳香が漂っているかのようであり、一種独特な雰囲気を醸し出していた。  何処かでギャアと(サギ)が鳴く。  互いの絡まりあった視線が解ける。  陽光は陰りを見せ、山肌の至る所から、夜の墨汁が空から滴り落ちては斑模様を描き出していた。 「大変、早く帰りませんと」  そう口にした巫女の背中に女の両の(かいな)が回る。  ゆるりとした所作は、非力で優しげに思えるが、巫女が僅かばかりに体を動かしても、女の腕は微動だにせず、そればかりか前よりもきつく絞められている様な気さえする。  青白い女の、ちょろっと袖口から生やした腕は蛇が如く、ぐっ、ぐっ、と巫女の体を締め上げていく。 「貴女様……? その様になされては、大変きつう(・・・)御座います」 「いいや、いいや、これで良い。こうしてな、もそっとだけ我と話し合おうぞ」 「そうは申されましても、灯りもない山道は危のう御座います」 「久方振りに人間の……それもこんなに若い娘子に()うたのじゃ」  女は巫女の耳元に、つい、と顔を近付けると、一段声を落としては、「帰りは送ってやるからの、心配せずとも良い」と、乳呑児(ちのみご)をあやすように囁き掛け、黒髪から覗く滑らかな巫女の耳朶(じだ)を、飴細工でも舐めるかのように、チロリ。  表情乏しくも美しい彫像のような女の顔が、夜の帳の面紗(ヴェール)の中で、にんまりと形を変えた。  女の声は巫女の頭蓋内部で蠱惑的に響き、初めこそ女の腕の中で巫女はもぞりとしていたが、次第にそれもなくなり、気付けば眠る乳呑児のように女に抱かれていた。 「ほんにういやつじゃの」 「貴女様、お戯れはおよしになってくださいまし」  だが女――巫女の制止に聞く耳を持たず。  ()けば溶ける黒髪、撫でれば吸い付くように張りのある肌、夜の煌めきを映した大きな瞳、女の手指が動くたび、巫女のか細い首の喉仏が上下する。 「ほ、本当にお戯れはよしてくださいな」 「吝嗇(ケチ)臭いことを言うでない。減るもんでもなかろうて。大層見目良い形貌(けいぼう)を、()でるは天地の(ことわり)よ」  「のう?」の声と共に、女は巫女の腕を絡め伝い、袖からするりと襦袢の中へ、青白い手を潜り込ませ、コソコソと、碗のように滑らかに、(くぼ)む巫女の脇下を、つつう……と、悪戯に指で(もてあそ)んだ。 「ひうん」 「ほほ、実に良い声じゃ。辛抱堪らぬ、このまま頭からぱっくり()んでしまいたくなるの」 「な、何を仰るのです。私のようなちっぽけなものを食べても腹の足しにはなりますまい」 「いや、いや、そう謙遜するでない。こうして少し味見すれば……」  女、再び手足を動かそうとする巫女を、後ろから抱き込んで、ついでとばかりにうなじをチロリ。 「ふあぁっ」 「うむ、確かに良い馳走じゃ」  なんとも気の抜けた声を出しながら弛緩する巫女とは対照的に、病的なまでに肌が青白いはずの女は、嬉々としてその身に活力をみなぎらせている。  巫女の肢体は今や完全に女の言いなりであり、とぐろを巻く大蛇に巻き付かれた子兎といった様相。神に仕える巫女の姿はどこにもなく、憑物の宿る忌み子の様に、唯々肢体を投げ出し呻くだけ。  ……どれだけの時間が流れたであろうか。  陽はもうとっぷりと暮れ、辺りは漆黒で塗り潰されていた。  女と巫女の姿を捉えること叶わず、唯、巫女の呻きと女の口から発せられる啜るような音だけが響いている。 「うむ、やはり若い娘と戯れるのは良いものじゃ。若返りの妙薬じゃ」 「あ……、うう……」 「さての、ではそろそろ此方の方を戴くとしようかの」  女は襦袢の中を這い廻していた腕を引き抜くと、巫女の捻襠袴(ねじまちはかま)に手を掛けた。 「なりません!」  今し方まで朦朧としていた巫女も、流石に我に返って一喝。  巫女の巫女たる矜持だけは護らねば、と、無礼を承知で女の手をピシャリと叩いて払う。  女もこれには驚愕の念を抱かざる得ない。  肌蹴る襦袢を抑え、もんどり打つかのようによろめきながら、女の拘禁(こうきん)から逃れる巫女。 「それだけはなりません」  闇の中に確固たる意志が響き渡る。  しかしその声は些かには震えを伴い、巫女の内心には動揺と混乱が渦巻いていることは容易く分かる。  女も巫女の胸中を舐め取ると、凍る顔を再び溶かし、にんまり。  闇の中、女は見えないことを良しとして、口を開け、溢れる唾を垂らすかの如く、飢える獣の様相で、三(けん)ばかり離れた巫女をじっくりと、まるで見えているかのように見詰めては、逸る気持ちを抑えつつ、明鏡止水然とした顔で、「ほほ、なに、一寸(ちょっと)ばかり悪巫山戯(わるふざけ)が過ぎたかの。安心せい。本当に取って喰ったりはせぬのでな」と、猫のような手招きをしては、甘ったるい蜜のような声で巫女に語り掛ける。  その声は闇の中をぬるりと這い滑り、巫女の足先からするりとのぼっては、耳朶の奥へと入っていく。  巫女の全身が総毛立ち、顳顬(こめかみ)から一滴の汗が伝い落ちる。 「貴女様には大変失礼なのですが、私はもう帰らねばなりません」 「ほほ、そうじゃのう。さすれば我が家まで送り届けてやるとするかの」 「結構で御座います。もう日も暮れていますし、暗い山肌を女の足で歩くのは危のう御座いますから」  可笑(おか)しな言い分もあったものである。  女には危ないから(とも)をしないで良いといい、そのくせ巫女は一人で帰ろうとする。  その矛盾した言葉に、女は数瞬――、「はて、このコイと名乗った巫女は男子(おのこ)であったかの」と、手を結んでは開き、巫女の感触を思い出してはみたが、やはり巫女は巫女であった。 「しかしの、ならばお主は如何様(いかよう)にして帰るのじゃ。お主も女の身、夜中の山道で鬼一口(おにひとくち)ということもあろう」  女、気を揉む(てい)で接しているが、巫女にとっては相対するこの女こそが人を喰らう鬼の様。キッと目元を厳しくしつつ、 「御心配には及びません。私、こう見えても山歩きにはなれております故」  巫女はつい(・・)と御辞儀をしては、踵を返して暗い山道を歩き出す。しかし月明かりも無い獣道は容易に巫女の足を捕らえ、中空に放り出されあわや――といったところでその小さな体はすとんと地面に降り立った。 「じゃからの、お主のような小さき者の足では、この山の夜は些か危ないのじゃ」 「ひ……」  いつの間にか女は巫女を抱き止めていた。  この真暗の中、音も立てずに颯爽と、巫女の傍らまで近付く女。事此処に至って女が人為らざる存在だということを、巫女は否応なしに痛感した。  呑気というのは酷であろう。なにせ十数人の村人を除けば他者との交わりなど、生まれて此の方皆無なのだから。  否、年若くとも仮にも巫女なのだから、禁足地を示す注連縄の向こうから来た女は警戒していなければならなかったのであろう。  神奉る世捨人と成りし暮らし――それが巫女の思考を狂わせたのだ。 「お主のように小さく愛らしい娘子(むすめご)の顔に傷一つでも出来ようものなら……おお、なんと嘆かわしいことか」  女、巫女の柔らかな頬を、つるりと撫で上げ、(すす)るように(つばき)を飲み込む。 「助けて頂いたことには礼を申しましょう。しかし私はこの山の神に仕える身でありますれば、貴女様のような魑魅魍魎の類いと関わりを持つことは許されざることなのです。どうか、どうか捨て置いて下さいませ」 「ほう、お主、我をそこいらの木霊(こだま)と同じと言うか。愉快じゃ、実に愉快じゃ」  女はクツクツと喉を鳴らし、猫を愛でるようにして巫女の首を撫で回す。日暮れ前なら巫女も大人しく撫でられていたであろう。しかし今、巫女の胸中はこの女から早く離れたいという思いで満たされていた。巫女の熱く荒い吐息がその証左である。  女から与えられる刺激は巫女にとって猛毒となり得るのだろう。  あと一撫でもされようものなら、快楽(けらく)で自我を保てなくなってしまう。  巫女は興奮冷めやらぬ心中を、茫漠(ぼうばく)な思考で(なだめ)(しか)し、女を遠ざけようと腕を伸ばす。が、闇の中、定まらぬ視線もあって、無作為に伸びた手は、柔らかな感触を掴み取ってしまった。 「なんじゃお主、嫌よ嫌よと言っておきながら、性情は中々の好き者と見た」 「なにを馬鹿なことを――」  鋭く睨め付く巫女を飄々(ひょうひょう)と、風に揺らめく柳の如く、(かわ)す女の伸ばした(かいな)が小さき体を包み込み、水晶玉でも磨くかの如き所作で、恭しげに巫女を撫で摩っては、互いの頬を擦り着け、巫女が娥眉(がび)を歪めたりとも構わずに、腹の底から息を絞り出し、巫女の持ちたる麗しき髪差しに鼻を押し当て、(ふいご)の如き息遣いの女。  煩わしげに口をへの字に曲げる巫女であるが、女の人懐こい動きを(ことごとく)に見澄ましつつも、この場を如何(いか)にして逃げるかの算段。 「我はの、お主のことが心配で心配で。人里離れた山中で、女同士話に華を咲かせることなどそうあることではない。此処で会ったのも何かの縁、それを夜の山に放り投げるなど……我はそんな非道なことなどできはせんのじゃ」 「はあ……そうなのですか」  女の台詞掛かった言の葉を、流し聞く巫女のつれなさよ。  しかし女はそんな巫女の態度が気に入ったようで、猫可愛がりする有り様。巫女も初めは女の本意が図りかね、訝しんではいたが、その内に、好きなようにさせておけば飽きて離れるのではないかと思索に耽り、闇の中、恥じらうように顔を隠しながらも、女の様子を窺い見る。その様は紛うことなく軒下に隠れ潜む猫のそれ。  暫時、巫女は女の手に身を委ね、時折り巫女の秘する場所に腕が伸びれば、体をくねらせ手を払い、頬を餅の如く膨らませる。 「お主さえ良ければの、これからも我の相手をして欲しいのじゃがの、如何(どう)じゃ?」 「如何と問われましても無理なものは無理で御座います」 「ほんに意志の固い娘子じゃの。まあ良い、あまりしつこく迫っても、お主は首を縦に振らんじゃろ。今日のところは我も大人しく引き下がろう」  女は先程よりも随分聞き分けの良い態度になると、抱える巫女をそっと地面に下ろす。  いつの間にやら真暗であった空に月が浮いている。  巫女は目を細め、女の本意を探りつつ、月明かりを頼りに二三歩後退(あとずさ)り、「ではお暇させて頂きます」と言って踵を返す。が、眼前には、苔生した茅葺き屋根の、中腹からは椚の若木が伸びる、世辞でも年季の入ったとは言えぬ襤褸小屋があった。  巫女の両の(まなこ)と口はぽっかり開いて、放心する顔はその歳なりの愛嬌がある。  それを眺める女の顔から妖しさは消え、その目はとろりとした甘露を湛えた慈しさ。 「なに、驚くことはない。我はこの山のことならなんでも知っておるからの」 「なんでも……」  闇夜の山中を音も無く、歩いた様子もない女の一言は、巫女を信用させるには充分で、ともすればこの女は神通力を使えるのだろう、と、腑に落つ反面、悪辣な付き纏いに迫られる思い。 「お主、まだ我を百鬼夜行か魑魅魍魎の類いと思っておるじゃろ」  そう言って女はしゃなりと体をくねらせて、木々の闇から月明かりの元へと歩み出る。否、そこにはあるべき場所に脚がない。いつしか女は、襦袢の下から蛇の胴を伸ばしていた。蜿蜿(えんえん)と続く鱗は綺羅綺羅(キラキラ)と、一枚一枚が月光を受け輝いている。女の慈愛に満ちた微笑みもあって、巫女の目にはそれが天鵞絨(ヴィロード)の絨毯の上に立つ貴人の様に見えた。 「貴女様は……」 「――――うむ、我はこの山に古より棲む蛇。お主ら人からは瀧登之氷雨毘売(たきのぼりのひさめひめ)と呼ばれていたこともあったものじゃ」  その名を聞いた巫女は、目をこれでもかと言わんばかりに見開き――数瞬の後、三跪九叩頭(さんきゅうこうとう)の礼と言わんばかりの平伏を見せる。 「あっ……貴女様が瀧登之氷雨毘売畏であらせられましたか。私のような一介の端女に寵愛を下さるなど……なんと、なんと畏れ多いことで御座いましょう。知らぬとはいえ大変な無礼を働いたことをなんと御詫び申し上げましょう!」  頭を垂れる巫女には皆目見当も着かぬであろう。  女は強い酒を呑んだかのように、頬を紅く染めて、ほう、と、桃色の息を吐き出す。  これがそこいらの人間ならば、女も興醒めして名乗りもしなければ本来の姿を曝すことすらしなかったであろう。しかし女を奉る(かんなぎ)であったのが、女好みの容姿の娘子で、その上、聡明で大人美(おとなび)ていながら、年相応の無邪気さも兼ね備えていたものだから、女は巫女を構いたくなったのだ。  女は巫女を見掛けた当初から、巫女の正体に当たりをつけていたが、なにぶん人との距離を置いて二百余年。移ろいやすい人の世では、もう自分のことなど忘れ去ってしまっているだろう、誰を奉っているのかも分からぬのだろう、と、寂寞の思いを胸中に宿していた。  ……だが、濡羽色の艶やかな長髪を垂らした、小鳥の歩みでちょこちょこと、木の実を探す愛らしい巫女の姿を目にしたとき、女の臓腑は締めり上げられたようにひくつき、故に思わず声を掛けたのである。  初めは丁寧に、次に熱に浮かされたような、そして猜疑に満ちた表情で、最後は地べたに這いつくばり慌てふためく様を見せる巫女。短い間にコロコロと変わる巫女の姿は女を楽しませる。  ()すれば女、心に天邪鬼を住まわせて、嗜虐の心を慰めつつ、殊更(ことさら)に高飛車な声で、「ほほ、そう(へりくだ)るでない。我は寛大故な、お主如き小さき者に一々腹を立てたりはせぬ。ほれ、(おもて)を上げい」と言いつつも、睨め付けるように見下ろす顔に、無表情を貼り付けて、恐る恐る頭を上げる巫女の上目遣いに愉悦を覚えたのか、蛇の半身がピシリと地を打つ。 「ひっ」 「これ、そう怯えるでない。お主は我に仕える巫じゃろうて。それともこの身がそんなに恐ろしいのかえ」 「いえ、いえ、決してそのようなことはっ……」 「悲しいのう、我は仕える者にすら、化物扱いされるのかの。嗚呼、寂しいのう」  女、袖を口元に(わざ)とらしく、ヨヨと泣いて見せ、巫女に流し目を送る。  先程までの巫女ならば、女のこれも嘘、と、切って捨てたであろう。しかし女が自身の奉る神であったならば話は別。女は山の神である。その機嫌を損ねれば、如何(いか)な厄災がこの地とそこに住む人々に降り掛かるか分かったものではない。なにより巫女は純粋で素直な性分であったから、神が人を化かすなどとは考えすらしなかったのである。 「あの……」 「まあよい、今宵は引くとしよう。お主もまだやることがあるのであろう。家事に炊事、人の暮らしは興味深いの」  女は呆けている巫女にするりと近付いて、頬を一撫でしてはその長き身を翻し、闇の中へと消えていった。  暫時、巫女は女の消えていった闇を、白痴の如き様相で、呆けながら眺めたいたが、何処からか鷺の鳴き声が響いてくると、巫女は意識を取り戻し、今し方起こったことは夢だったかのかと辺りを見回せども、月明かりに照らされた木々の枝が、刺々しく揺れているだけ。  再び鷺のギャアと鳴く声。  その不気味に響く声にぶるりと身を震わせる巫女。そそくさと小屋の扉を開けて中に入る。灯りを着けねばと囲炉裏へ――といったところで、巫女は草鞋と足袋の間に違和を覚え、手を伸ばしては何かを掴み上げる。 「これは……」  戸口から射し込む月明かりに掲げて見れば、手拭いほどの大きさの蛇の脱け殻。波打つ鱗模様がはっきりと、天女の羽衣かと思える程の軽さであった。 「これは確かに瀧登之氷雨毘売畏様の物に違いありません。夢を見ていたわけでも、狐狸妖怪に化かされたわけでもなく……」  巫女は恭しく両の手を天に掲げると、月光が鱗模様に入り宿りては、月輪(がちりん)の煌めきを放つ。これは真に霊験灼然とした物だと、巫女は頭を垂れ、厳かに小屋の奥へ進み、設けられた神棚へとその脱け殻を置いた。 「掛けまくも(かしこ)き  瀧登之氷雨毘売の(こけら)を拝み奉りて  (かしこ)(かしこ)みも(もう)さく――」  暗がりの中、巫女は灯りを灯すのも忘れ、祝詞(のりと)を口にした。
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